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自分は絶対やれる・・

 「ドラムの魔術師」と呼ばれるほど、ドラム缶の扱いはうまくなりました。

21歳の夏でした。

トラックでオイルを配達する仕事を2年も、続ければ、当然うまくなります。

でも、慢心から、、、トラックの荷台から、うつ伏せに、落ちてしまい、

ひざを強打して、ひざの皿が割れてしまいました。

1・2ヶ月全く仕事は出来ない状態なってしまいました。



長いこと休み、何とか歩けるようになって、出社はしたものの、自分の仕事はありませんでした。

「とりあえず、スタンドで無理をしないようにやってくれ・・」で、

またスタンドへ戻されることになりました。

再度復帰したスタンドは、主任が変わっていました。森 と言う主任でした。

挨拶に行くと、「おー井上君、まっとたよ、気に入らんかも知れんが、

俺が是非と、指名してきてもらったんだよ・・」と言ってくれました。

私のやんちゃは、百も承知、きっと行き場がないから引き受けてくれと、

上に言われたのだとは思いましたが、とてもうれしく思いました。


最近、スズキのオートバイを買いましたが、森 主任も昔、

オートバイが好きだったそうで、とても話があいました。






一番うれしかったのは、私に良く仕事の話で、相談をしてくれたことでした。


石油ストーブが世に出て間もない頃でした。

11月のある日・・・

森 主任から、「会社で、トヨトミの石油ストーブの販売キャンペーンが始まる、スタンドへは一人5台あて、

10人いるから50台の割り当てが来ている。なんとしても達成したいから、俺に力を貸して欲しい」

と、話がありました。

その顔が、本当に私を頼っているように見えました。

そして、自分が頼られたことでとてもうれしくなりました。

物を売ると言うことで、うまくいった経験のない私ですので、自信はありませんでした。

でも、 「何とかしたい」 「いや・何とかしなければ」と言う気持ちが強くなりました。


スタンドで接客する、お客さんすべてに声をかけ販売を開始しました。

2ヶ月間の私の個人目標、5台は、3~4日で達成しました。

他のスタッフは、なかなか、進行しません。

一生懸命になっている主任が少し売れただけでした。

主任は私に、「井上君、頼りにしてるよ。5台で終わらんでくれよナ」

初めて物を売ると言う仕事で認められた私は、

「任せてください、スタンドの目標以上になるまで頑張ります」と言い切っていました。


もう私の頭の中は、ストーブ、一色になっていました。

自宅・親戚・友達はじめ、自分が利用しているお店は全部声をかけはじめました。

週末、鈴鹿の山へ登山に行った時など、山であった人にも、声をかけたほどでした。

親戚、友達などの協力を得て、出来たことですが、、

2ヶ月間で私個人のストーブ販売台数は、56台でした。

当然、スタンドの目標は大きく上回りました。

あの時の、森 主任のうれしそうな顔が今でも忘れられません。

私が頑張って、上司が喜んでくれる・・・初めての経験でした。

森 主任に言われれば、火の中へ突っ込め、水の中へ飛び込め、

全部やってしまいそうな気分になっていました。

その森 主任が、係長に昇進しました。我がこと以上にうれしく思いました。



昭和41年8月から愛知トヨタのグループ会社、愛豊でパブリカ800、の販売をはじめることになりました。

愛知トヨタのベテランセールスと、部品、サービス、油部門の新車販売未経験者の混成部隊、

120人ほどが、愛豊へ転出する、という人事に、森係長が、私を推薦してくれました。

「頼むよ、君を推薦した俺の目が間違いなかったことを証明してくれ”」が、私を送り出す言葉でした。

森 主任との出会いで、自分はすっかり変わりました。


そして、私は、新車の、セールスに転進しました。




「出会いで人生が変わる」

「せっかくの出会い、生かすも殺すも自分しだい」

「自分は絶対やれる・・つよく、つよく思うと・・
やる方法はかならず見つかる」




森 敏 さん 昭和10年生まれ愛知トヨタ入社すぐは整備を担当されその後、

スタンドを経験されてから、中古車販売で、豊田の寿町展示場の所長

新車の豊田・岡崎営業所長を歴任 定年退職後、身体を悪くされ、

残念なことに、3年ほど前にお亡くなりになりました。

                          ・・・合掌・・・



私の販売の原点

    続き書きます。


自己中心ではダメ・・







「おい!満タンにしといていてくれ!!」

スタンドの二階にも新車販売の事務所がありました。

新車のセールスマンだったその人は、私にキーを放り渡して、二階へと上がっていきました。

アラクレスタンドマンになっていた19歳頃の私は、、プッツン切れてしまいました。

キーを持って二階へと駆け上がり、そのセールスを羽交い絞めにして倒し・・

頭から、引き摺り下ろしてしまいました。

多少の怪我をしたみたいですがお構いなし・・

キーを返して自分で、キャップを開けさせました。

この新車のセールス氏、なかなか成績が良かったそうで、、、

この事件の35年後に、、

ATグループ(愛知トヨタグループ)の、あるディーラーの社長になりました。

ユーズネットグループとも、年間 5・6千万円の取引がありました。

が、、知ってか知らずか、ただの一度の挨拶も、顔を合わせることもなく・・・

2~3年前に、年齢に達して、退任となりました。



ある雨の日でした、、

主任が、「ちょっと、本館の事務所へ行ってくる、ラーメンが頼んであるんで、すぐかえるでな・・」

と言って、道路を隔てた本館へ行きました。

間もなく、ラーメンが2人前届きました。もう一つは誰のかな?

と、回りに聞いてみたけどわかりません。

自分もお腹がすいていたので、間違いで届いたなら、

私が支払うから、いただこうと思って電話しました。

「いらんこった、、とっときゃええわー、イランこと電話するな!」

どうもその後すぐに、主任の友達が来ることになっていたようでした。

私はこの電話で、プッツン切れてしまいました。

「何だーその言い方は・・・何様だとおもっとるんだ!!おぼえとれよ!!!」

主任・・「誰に、ものを言っとる!今すぐ帰ってひどい目にあわせたるでな・・」

それだけ言って、一方的に電話を切ってしまいました。

血相を変えて帰って来た、主任に、

私は、ラーメンをオツユごと、ぶっ掛けてしまいました。

その日その後どうなったかは、、おぼえておりません。



スタンドの、井上はひどいやつだは、瞬く間に有名になりました。

スタンドの仕事は不適格と言うことで、

今度は、同じ油の部門の、配達係になりました。



オイルがイッパイ詰まった、ドラム缶をいっぱい積んで配達して回る仕事です。

トラックが3台ありましたが、、、どの車も、、ブレーキが効きません。

とにかく、止まらないのです。



すぐ課長に、ハイドロマスター(ブレーキ倍力装置)を付けてくれるように直訴しました。

答えは、今までみんなが乗っていて、事故はなかった・・

ブレーキにあった運転をすればよい・・

ブレーキは、シートから、尻を上げて、

両手でハンドルをイッパイ引きながら思いっきり踏むんだ。

が答えでした。

それから間もなくです・・

荷物をいっぱい積んで、信号が青から、黄色に変わる間際の、

高辻の交差点を直進しておりました。

前方の右、右折の車の陰から、オートバイが突っ込んできました。

気はついていても、ブレーキはまったく間に合いませんでした。

跳ねてしまいました。

ケイレンを起こしている怪我人を、トラックの荷台にを積んで病院まで運びました。

脳挫傷とかで、2・3日死線をさまよっていましたが、命は助かり、2・3ヵ月後に退院したそうです。

相手の人は、長野県の山村から出てきた、青年でした。

例の課長、井上君、君は悪くないし、会社の仕事中だったから、すべて会社で対処する。

だから、もう病院も行かないように・・と指示してきました。

そのときは、私も楽でいいや、と思ったのですが、どうも解せない指示だったと思っています。

私の常識では、「見舞いだけは行くように・・」なんだがなーと思いました。

何か、私がまずいことをしゃべっては困るからだったのでは、、と今でも思っています。


事故の解決でも解せない、納得できない?で、、

私は、より一層、すさんだアラクレになってしまいました。


会社への通勤は、カランコロンと高下駄を履いていくようになりました。


ある日、例の課長から、

「明日は、朝礼と伝達事項があるから少し早めに出社するように」と言う連絡が来ました。


私は、いつもの時間より遅く、通常の時間ぎりぎりに、二階の事務所への階段を・・・・

例によって、「カラン コロン」いつもより大きな音を立てて出社しました。

そしてみんなのいる前で、「仕事の話なら、時間内にしろよ!」と怒鳴ってしまいました。

スタンドの主任も、油販売部の課長も、私には手を焼いたと思います。



この課長・・・

25年後に、愛知県のJAFの事務局長になりました。

JAFの担当者が、会員拡大で当社へ来た時、、

まだ、当時の課長に悪い印象を持ち続けていた私は、

事務局長に会いたい、気持ちの整理がついたら協力すると言いました。

間もなく、事務局長が来社されました。


高下駄、カランコロン、朝礼にわざわざ遅く来てどなった件について、、、

「当時の君は、自分中心で周囲が見えなかっただよね」

「周囲が見えないうちは、何をしてもうまくいかないものなんだよね」

「そのすべてがうまくいかない原因を他人のせいにしていたんでしょう・・」

「人格形成の、過渡期で、君は目立ちすぎたんだよ・・」


「立場が変わって、君が私の立場だったらどうしたかね?」





創業、5・6年経った、ルートの事務所での話でした。 


JAF会員の募集で、ルートは、いきなり、愛知県第1位(ディーラー以外)になりました。 



「自分中心で、周囲に配慮が出来ないうちは・・

何をしても、うまくいかない」



私の販売の原点

つづき書きます。












自動車屋になりたい!

高校3年生になってすぐ、、

井上家で、大事件が起きました。

大黒柱だった、父親が、蜘蛛膜下出血で倒れて入院してしまったのです。

さー大変です。

大学へ行こうと思っていた自分は、考える余地なく、

家業を継ぐ決定をしました。

でも、何とか高校は卒業しようと思っていました。

学校から帰ったら、絞り加工の仕事を、各地へ届けるのは全部私の仕事になりました。

もうすでに、オートバイには乗っていましたので(当時は16歳で免許はもらえました)

毎日、あちこちへ走っていました。

私には兄がありましたが、長崎の大学へ行っていましたので、家にはいませんでした。


お蔭様で父は、倒れてから、3~4ヶ月で快方に向かい、退院してきました。

秋も深まった頃には、何とか自分で、オートバイに乗れるまでになりました。

とりあえず、私は家業を継がなくてもよくなりました。

が、、、しかし、私の成績は、卒業が危ぶまれるほどのものになってしまっていました。

とても、国公立の大学は、望むべくもありませんでしたので、就職をすることに決めました。



恵まれたことに、ちょうど、就職試験の申し込みがが間に合うぎりぎりの時期でした。

さて、、どこを受けたらよいのか?

好きなことから、、、

日本交通公社(現、JTB)と愛知トヨタを受けることにしました。 

就職難の時代だったのかどうかは知りませんが、両社とも、大変な競争倍率でした。

日本交通公社は、約10倍

愛知トヨタは、6倍でした。

試験を受けに行った頃には、自動車屋になる夢は、すっかり忘れ、

受かることの方が気持ちの上で、先決となっていました。

両方とも最終選考までいくことができましたが、

学校の決まりにより、採用通知が先に来た、

愛知トヨタに就職することになりました。


交通公社は、2・3日遅れて採用通知が来ました。

この通知が、逆転していたら、私の人生は違ったものになっていたはずです。


高卒入社は、愛知県全域から 50~60名でした。

研修期間に入り、同期入社のみんなを見るにつけ、

この人たちの中なら、当然私が1番になると思っておりました。

6倍の競争を勝ち抜いてきた人たちとはとても思えませんでした。

きっと、他の人は私を見て同じように思ったのではないでしょうか。



配属が決まりました。

鉱油部(金ヘンでなく、石ヘンでした)販売課 スタンド係

えぇ!!愛知トヨタにスタンドなんかあるの?

「1番貧乏くじを引いたなー」と心底から思っておりました。






いやな職場で、いやいやの社会人スタートになってしまいました。

ガソリン入れ・グリースアップ・オイル交換・エレメント交換・・・

教えてもらいながら、いやいや、やっていたのでなかなか上手にはなりません。

ガソリンは噴出す・グリースは入らない・オイルはこぼす・エレメントはオイル漏れ・・・

今思えば、私に作業してもらったお客様には、大変申し訳なかったと思っております。

会社にも、とても迷惑をかけてしまっていました。


当時はスタンドの主任はじめ、スタッフみんながすさんでいました。

お客様は神様なんて気持ちは、かけらもありませんでした。「おきゃ・おきゃ」と言っておりました。

「おーい・おきゃが来たぞぉ・・」「あのおきゃは何だーえらそうに・・」と言うような始末でした。


そんなスタンドでの最初の夏でした。

販売キャンペーンがありました。

スタンドで、背もたれにかける、バックレスト と

お尻にしく ロアーレストを拡販することになりました。

カークーラーなんてほとんどなかった時代ですので、

今思えば、売れて当たり前の商品だったと思います。

先輩は、日ごろおきゃ、おきゃと言っていたのが、一気に猫なで声で、、

うまいこと売りつけていました。


バックレスト、ロアーレストを永く使うと、シートがいたんで、破れてしまう。

運転手のシャツの背中が擦り切れる。ズボンもしかり。

マイナス点ばかり見えてしまい、、

涼しい・あせもが出来にくいし、今までの籐製品に比べると非常にやわらかく、

価格も安い、と言うプラス面は消えてしまっていました。

上から言われると、猫なで声で自分の成績を上げようとする、、

先輩が見苦しくて許せませんでした。


会社からの指示ですし、新入社員の立場でやらないわけには参りません。

とりあえず、ガソリンを入れに来られるひとに、話してみるだけでしたので、、

夏の期間で、10も売れませんでした。

1番成績の悪い先輩の5分の1も売れませんでした。



この販売キャンペーンの結果が、

私が会社に入って最初の販売実績でした。


高校の時、一緒によく山に登った友達は、みんな大学生になっていました。

なんか取り残されてしまったような寂しさから・・・

自分も大学へ行こうと思い、先ず主任に話したら・・・

「馬鹿もん・・ガソリン入れるのに、何が大学だぁー えぇ加減にしとけ!」

と言われてしまいましたが、腹の中では、、

主任には・・「おみゃーみてぇぁーになりたにゃーもんで行くんだわー、馬鹿もん!!」

と思っていました。


仕方ないので、だめもとで、人事部に相談に行ったら、快く了解がもらえました。

試験を受け、翌年春の入学の夜間部で愛知大学へ入学することが出来ました。







物を売る前に、、

   「良い環境が必要です」

     良い企業風土・良い上司・良いスタッフ仲間。
     まず良い商品だとほれ込まなくては売れないのはとうぜんです。
 

自分の販売の原点

    また続き書きます。


自分のブランドが大切・・

 
志望の名古屋市立桜台高校へ入学が決まりました。

志望の理由・・・

    ① 自宅から一番近い公立高校だから

    ② 姉・兄ともこの高校だったから

    ③ 自分は将来、自動車屋になりたいから、
       県立愛知工業高校へと志願したら、
       自動車屋になるのなら、先ず普通高校へと、
       担任の岡田先生に奨められ
            、

           






● 高校に入って、クラブは小学校当時から得意だった、水泳部に入りました。

● 一時やめていた、サイクリングを復活しました。

● 登山も又復活しました。


と言うことで・・・また、またお金を稼ぐ必要に迫られておりました。


高校へ入ってからは、サイクリング・登山・水泳部と忙しく

全く勉強などはしなくなり、

どんどん成績は落ちてしまっていました。

1年生の時は、クラス 45人中25番くらい、

2・3年生の時は 40番くらいだったと思います。




そんな、高校では、劣等性の私でしたが、、

自宅の周囲は狭い地域ですので、

私が鳴海中学で、生徒会長をしていたこと、、、

全校で1番の成績をとったことで、

とても優秀な学生として見られていたと思います。




近所の人から、「子供の勉強を見てくれないか」と言う話が舞い込みました。

一瞬は、現在の自分の学業成績からお断りしようと思いましたが、、、

小学生・中学生なら大丈夫と言うことと、どうしてもお金が必要であったことから、

お受けすることにしました。

2人から始まって、生徒8人の小・中二部制の、小さな塾に発展しました。
  
月、1人 500円 だったと記憶しております。

塾からの月収入は、、4000円ほどになりました。




別に、夏休みの午前中だけでしたが、知多半島、新舞子近くの海岸で開催されていた、

知多水練学校の講師のアルバイトもしておりました。

これは、私が中学校3年生の時、有松小学校のプールで開かれた

有松、鳴海、大高地区合同水泳大会の、50メートル自由形で優勝したことで、

声がかかったものでした。

この水練学校からも収入があり、、月の収入は塾とあわせて、合計は、5~6千円ありました。

この金額は、中学校を卒業して働いている、私と同じ年齢の人達の、月収とおなじくらいでした。



収入が増えたことにより、

高校1年の秋からは、毎週のように、三重県の、鈴鹿山脈へ登山に出かけるようになりました。

登山の回数増と反比例して、成績は落ちていきました。



反対に、塾へ来ている子供達は、まじめないい子ばかりでしたので、

成績は、親さんがびっくりするほど、どんどん上がっていきました。

特に中学生の子は、最近私が歩んだ道、私が勉強した方法を教えるだけなので、

非常に教えやすく楽しかったです。

その上、成績が急上昇したからと、親さんからとても感謝され、

特別に謝礼などをもらうほどでした。













塾に通っていた子供達・・・・

1番 年上の子は、酒井さんという女の子でした。

私より3学年下でしたから・・・

もう、すでに、63~64歳になっておられます。

そういえば、その酒井さんは、私と同じ高校へ入学されたと聴きました。

やんちゃだった、1番年下の男の子でも、もうすぐ、60歳になられます。








水泳部員で山が好きだった私は、冬のトレーニングでよく天白川の堤防を走っていました。

学校で私は、水泳部として泳ぐことより、走ることの方が得意だったし、認められていました。

特に、5キロ・10キロを得意としていて、陸上部員でも私には勝てませんでした。

高校最後の冬、毎年恒例の、名岐駅伝に学校代表で陸上部員と共に出場しました。

写真は、そのときの、、ゼッケンです。


そんなに駅伝に強い高校ではなかったので結果の順位は覚えておりませんが、

笠松町から一宮市までの区間を走りました。


私が、たすきを受け取った時に、500メートルほど前を行く他校のランナーがいました。

このランナーを途中で抜いて、順位を一つ上げることが出来ました。


走りながら、 塾の子供達、学校の同級生・・・

みんなの応援してくれている顔が、浮かんできて頑張れました。



高校最後の良い思いでになっています。









あのかわいかった、こどもたちも、いまでは、きっと、
みんな、みんな、いいおじいちゃん・・おばあちゃんになっておられることと、おもいます。







高校時代に経験した2つのアルバイトから・・・

・・・「まず先に、個人のブランドイメージをあげておくことが大切!」・・・と言うことを学びました。

(先に、人に認めてもらうことがとても大切で、
いかに仕事につながっていくかと言うこと)

(そして個人のブランドイメージが本物の自分より上に行ってしまっていたら、
ブランドレベルまで自分をあげるように努力すればよいと言うこと)





私の販売の原点

    又、続きを書きます。




出来て当たり前の自分・

 白樺の木立の向こう、雲の上に、南アルプスの山々が望めました。

「この世に、こんな景色のよいところがあったのか!!」

茶臼山は私の脳裏に強烈な印象を残してくれました。


茶臼山から帰ってきても、強烈な印象が忘れられず

「来年も山へ行きたい!絶対行く!」

そのために、朝は、新聞配達 ・・

午後は、米屋さんの配達手伝いを始めました。



2年生の夏は、中央線の夜行列車に乗って、

蓼科高原から蓼科山へ登ってきました。


そのころ、自分の生活費、学費はなんなく稼げるようになっていました。

でも、中学校へ行くようになってから、、、、

山だけでなく、いろんな所へ行って見たいと言う好奇心が止まらなくなりました。

そのために働いているような状態になりました。



毎週のように、自転車で出かけるようになっていました。

日帰りで片道60キロの範囲でした。

知多半島一周・湯ノ山・養老の滝・金華山・犬山城・入鹿池・

定光寺・岩屋堂・猿投山・足助・三ケ日・新箱根・蒲郡・など等、、、



学校、アルバイト、サイクリング、繰り返しのまま、中学校3年生の夏を迎えました。

来年は、高校進学を控えておりました。

にもかかわらず、勉強なんて、一度もしたことがないと言う中学生でした。

その頃、私の姉の婚約者が、私の通っていた鳴海中学校のとなり、有松中学校で、3年の担任をしておりました。

澤田 堅と言う 先生でした。

当時、どの学校も3年生には、「中部統一テスト」と言う、業者テストを受けさせていました。

先生は、この成績を見て、他校生徒との学力レベルを比較して、指導していました。


澤田先生が宿直の日でした。

私は、となり校である有松中学校へ呼ばれました。

円形の校舎でした。

中部統一テストの結果を見て、「何だこの成績は!”・・・」


鳴海中学校の、3年生は9クラス、約600人でした。

その中で、170番くらいの成績だったと思います。

「こんなんでは、公立校は無理だよ」

「おねぇさんと、きょうだいだから、井上家の同じ血が流れているはずだろぅ」

「君なら、鳴中でベスト3以内にいて当たり前だろう・・」「おかしいよ・・考えられないヨ・」


「どの科目が特にダメなんだ?」

「歴史です・・・」

「地理は?・・・」

「いつも地図ばかり見てるんで、好きです。」

「あっそう・・」

「じゃー、歴史からだね1ヶ月みっちりやって、満点を取れるようにすればいいじゃないの?」


「出来て、当たり前!出来てない、今がおかしいのだ!・・・」

「不得意な科目を優先して、徹底的にやれば後が楽・・・」



そうだ、俺は学年で、1番の成績で当たり前なんだ。

ヨォーシがんばって、本来の俺になるぞ!

すっかりその気になって帰ってきました。



夏休み以後は、一切のバイトを止め・サイクリングも止め、、

本来の自分に戻るために集中しました。

先ず気持ちは、当然の自分になりきりました。

試験毎に成績は上がっていきました。


冬休みが終わってすぐにまた、中部統一テストがありました。

信じて止まなかった、本来の自分になりました。



鳴海中学校全校で、

第1位の成績を取ったのは・・・私でした。

ほっとはしましたが、あまりうれしくはありませんでした。

それは、当たり前の自分に帰ったのが、遅かっただけだから・・








「1番でない自分がおかしいのだ!!! 」

澤田先生は、その後姉と結婚して、良き相談者になってくれました。

残念なことに、15年ほど前に亡くなりましたが、、、




身内にすばらしい教育指導者がいてくれたので、


その後の自分があるのだと今も感謝しています。




私の販売の原点・・・


また、つづきを書きます。














継続は力なり。

キズモノ帯揚げの行商・絞り加工の協力店回り、この仕事は両方ともなくなり・・

私は「家庭内失業状態」になってしまいました。



次は、母親のすすめで、「とうふ売り」をすることにしました。

有松の町、旧東海道沿いにあった、服部豆腐店でした。

とうふやさんから豆腐を預かり、売りに行くと言う仕事でした。

小学校6年生になった春でした。

あの頃、もめんごしの豆腐が、1丁15円 

絹ごしが、18円だったと記憶しています。

1丁売れると、3円と4円でした。

先ず、初日は、ラッパの吹き方を覚えました。

翌日からテリトリーを決めてもらい、自転車に15丁ほど積んででました。

朝5時頃から、勇んで店をでたものの、なかなか売れませんでした。

2時間ほどで売れたのは3~4丁だったと思います。

残りの豆腐はほとんど崩れてしまっていました。

売り物のとうふが、くずれてしまった、困ったなー

「弁償させられたらどうしよう!」

おそるおそる、店主にその旨を伝えました。

「あぁー”えぇよ!そこへおいときゃー・・」



今日の私の稼ぎは、10円ほどなのに、ダメにしてしまった豆腐が10丁ほど・・・

ショボンとしていた私に・・

大きく崩れた豆腐は・・「がんもどき」にする、
  
一部崩れたものは・・三角の「生揚げ」にすると、店主は教えてくれて、、

「なれれば,こわさなくなるし、もっと売れるようになるから大丈夫だよ」

店主は笑顔で、慰めてくれました。

ほっとして、とうふやさんの第一日目を終えることが出来ました。



日を重ねるごとに、豆腐は売れるようになりました。

2週間も続けた頃・・・

あの家は、何曜日に買ってくださる。

月曜日は、いつもより30分ほど早く店を出るとよいなど・・

何曜日の何時頃は、どのあたりがよく売れるなどわかってきました。

時間、道順などを自分なりに上手に組み立てることにより、

売り上げを伸ばすことが出来、毎朝の豆腐売りが楽しくなってきました。

その頃すでに、1日の売り上げが、12~13丁になっていました。

扱いもうまくなり、こわれてしまうのは、1~2丁でした。

上手に時間と場所を組み立て、継続して回ることによって、

私を待っていてくれるお客さんが増えてきました。



私の豆腐が届かなかったら・・・・

私を信頼して待っておられる家の味噌汁は、具なしになってしまいます。

責任を感じ、どんな天気の日でも、休まずに毎日頑張りました。



店主が、「井上君、よう売れるようになったナー、明日からは20丁積んでいきやー」

とてもうれしい言葉をもらいました。

20丁積んで出た最初の日は、

ほめられたことと、認められたうれしさで、やる気満々でした。

「ようし、何が何でも売り切るぞ!」と、必死に回りました。

その日からは、くずれてしまう、1~2丁を除き、全部売りきるようになりました。

商品も、とうふ、あげ、ヒリョウズ(がんもどき)、なまあげと、増やしてもらいました。

一ヶ月の収入は、2000円にも達するようになりました。

でも学校では、とうふやさん独特のにおいを発していたようで、

クラスの仲間にいやなことを言われ、学校は嫌いになってしまいました。

今風に言うと、いじめだったかもしれませんが、、、

お金を沢山稼ぐと言う自信と、

成績では負けないと言う自信で、

相手にしませんでしたし、あまり苦にもなりませんでした。

でも・・女の子に、もてなかったのは、少し寂しかったです。



とうふ売りを、一年続けて中学生になりました。

愛知県で一番高い山、茶臼山へ登りたいという夢がありました。

今でこそ、簡単に車で行けますが当時は、、

豊橋・本長篠・田口・そしてバスと徒歩で丸一日かかります。

山では寝るのに、テント(米軍の放出品)が必要、、、なんて考えると、、

結構なお金が必要となります。

とうふの収入から、家には、半分入れておりました。

残りの半分で自分の学費と茶臼山貯金をしていました。

当時、有松から茶臼山へ登るなんていうことは、

途方もないことだったと思います。



とうふのお客さんに、「あんた、よう頑張りゃーすネー!」と言われ・・

「僕、茶臼山へ登りたいんです。そのために頑張っているんです」と話したら、、

「内の息子もちょっと、連れてたってくれーせん?」と言われ、

同学年の二人が一緒にいくことになりました。




昭和30年7月21日から・・・3泊4日

夢だった、茶臼山登山は、実行出来ました。

中学校1年生の夏でした。



「継続して物事に取り組めば、夢は達成できる!!」 


わたしの販売の原点・・・・


つづきは又書きます。
















時代の変化と共に・・

その後、父親は、「絞り加工請負」の仕事を、

東は、三河の、宇頭地区、上郷地区・

南は知多の姫島地区・北は天白の島田地区に協力店を作り、

そこから周辺の技術を持った人に仕事を依頼してもらうと言う方法に

切り替えました。

「傷物帯揚げ」ができた場合は、各地の協力店の責任にしました。

これにより、私の「傷物帯揚げ行商販売」はなくなりました。



次は、各地の協力点(片道、20K~30K)へ自転車に仕事の荷物を積んで・・・

往復すると言う、大変な仕事をすることになりました。



今でも忘れられないのは、、、

矢作の宇頭からの帰り、北風ビュウビュウの冬でした。

旧東海道の狭い松並木、大型トラックの恐怖と、向かい風の約30Kは、、、

小学生の私にとって、とてもつらかったですが・・・

「体力では人に負けないぞ!」と言う・・・

自信がついたことも事実です。



間もなく父親が、オートバイを購入して、、、

機動力が格段に上がり、私の出番はなくなりました。


家業の小さな、絞り加工請負業は、私の小学校時代の2~3年で、、、

時代の変化の波とともに、変化を繰り返しておりました。



私の販売の原点・・・

    またつづき書きます。


物より自分を買っていただく・・

私が生まれ育った実家は、

当時、愛知郡鳴海町字大将ヶ根、絞り染めで有名な、

現在の、名古屋市緑区有松裏でした。

家業は、絞り加工請負業でした。

京都の「絞り染め問屋さん」から、

主に帯揚げ絞りの生地を預かり、、、

近所の熟練した技術を持った、おばさん、おばあさんたちに、

指定された方法で「しぼり加工」を依頼していました。

絞り終えた生地をチェックして、京都の問屋さんへ送り返す。

当時、東海道線、大高駅の近くで、飛脚と言う仕事をしている人がいて、

自分で担いで列車で、京都まで持っていってくれました。



ところが、それで終わりではありませんでした。

京都で染めて、ほどいたとき、

きれいに粒がそろっていなかったり・・・

粒がほどけて飛んでいたり・・・

手が悪いと言って、不そろいであったり・・・

このようないわゆる不良品は、

返品され買取をしなければなりませんでした。

それを母親が、近所の方たちに安く買ってもらっていました。

実家の近所は、昔、七軒家と言われ、家がぱらぱらとしかありませんでした。

そんなに沢山売れる筈もありませんでした。


ある時・・・

又、傷物(不良品)の「帯揚げ」が、10本ほど返ってきました。



どうしようと母親は、悩みきってしまいました。

もう近所ではダメ・・・

有松・鳴海の「絞りの本場」の町ではもっとダメと言うことで・・・

名鉄電車で一駅、東の、豊明の前後へ売りに行こうと言うことになりました。

どうして決まったのか、私が、行商に行くことになりました。

私が小学校5年生(昭和28年)の時でした。

その日は土曜日だったと思います。

昼から自転車に、帯揚げをくくりつけて勇んで家をでました。

旧東海道から、前後駅の横の踏切を渡ると住宅街でした。

それまでの自分は、全く知らない、縁もゆかりもないよその家へ

行った事などただの一度もありませんでした。

住宅街の家の前を、行ったりきたり・・

「ごめんください」と言って入る勇気がありません。

何度も繰り返しておりました。

20分も30分も行ったりきたりを繰り返した時、、、

ある家から、奥さんが出てきました。

「今だ!今しかない!!」勇気を振り絞って・・・

「有松から来ました。傷物の帯揚げ買ってください!」

奥さん・・「着る機会がないから、いいわ、、ちょっと出かけるからごめんね」

あっけなく、断られてしまいましたが・・・一言だけですが、話したことによって、

今までとは違う勇気が一気にわいてきました。

「貝のからのように、閉じてしまっていた、口が開くようになりました」

「ごめんください・・有松から来ました。傷物の帯揚げ買ってください」

それから・・・30軒、いや、、50軒以上玄関で断られ続けました。

とうとう、お日様が西に傾いて来てしまいました。

やっと、帯揚げを見てくれた人が、一人か二人、誰も買ってはくれませんでした。

「どうしょう?」 

きっと母親が、楽しみに待っている・・・どんな顔して帰ればよいか。。。

とうとう日が落ちてしまいました。

涙が出て止まりませんでした。

半べそかきながら・・・

必死に、涙声で、、「おばさん!お願いですから、、、傷物ですが帯揚げ買ってください!!」



「もう夜になっちゃうよ、あぁー可愛そうに・・」

「それって、いくらなの」・・・

「あっそぉ」

「ぼくぅ・・2枚買うから、今日はこれで家へ帰りなさいね!」


「ありがとうございました・・」

あの時、、涙がどっとあふれてきたのを今でも忘れられません。



私は、あの日初めて、知らない家へ、モノを売りに行きました。

モノを売ろうとしても、、簡単には、絶対売れることはない!

モノより、一生懸命の自分を買っていただいたのだ、、

と・・・気付きました。

その後、週に一度くらい、、いろんな住宅地へ、、、

傷物帯揚げを売りに行きましたが・・・

一枚も売れなかった日はなかったと記憶しております。




まず第一に、自分を買っていただく・・・・

今でも、ずっと、私の心の中に、生き続けております。



私の販売の原点・・

   つづき又書きます。







販売の天才と言われ・・・

トヨタのセールスマンだった頃から、、

誰が言い出したのかは定かではありませんが、、

私は、販売の天才とよく言われました。

でも自分では、今まで天才だなんて、思ったことは、ただの一度もありませんでした。






写真は、昭和56年頃、ある雑誌の記事です。

昭和51年、国道248号沿い、今のユーズネット豊田のある場所

貸し店舗の一店を借りて「ルート豊田」と言う中古車店をはじめました。

創業後大変な思いを経験させてもらい、何とか立ち直った頃の取材でした。



私は決して天才ではありません。

人並み以上にお客様の為に行動した結果だと言うことだと思います。




昨年秋から、極度に景気が落ち込み

車だけでなくものが売れなくなりました。

車のディーラーでは、年始にあたりトップから、

「車販売の原点に戻れ」とはっぱがかかているとか聞きます。

原点とは、お客様を店で待つのではなく、

お客様の方へ出向けと言うことだと思います。

車の訪問販売は、第一次オイルショック前、

昭和四十年代の販売スタイルです。

そんな話を聴き、自分の物売り、販売の原点を、、

もう一度思いだして、ブログで書いていこうと思いつきました。


これから、何回かにわたり、私が経験してきた、通ってきた・・

販売の道を振り返ってみようと思います。





私の人生で初めて物を売ったという経験は・・・

小学校の4年生の時です。

親の商売がうまくいかず、とても貧乏だった私は、、

鉛筆、消しゴムを買うお金も親からはもらえませんでした。

道路、ゴミ捨て場、空き地、ありとあらゆる場所から

鉄くずを拾ってきては、当時の鉄くずやさんへ売りに行っておりました。

そのとき初めて、あか(銅のこと)や、真鋳(しんちゅう)が高く売れることを知りました。


高く売れるモノを沢山集めたい・・・・

毎日そんなことを考えておりました。

ある日気がつきました。

自宅近くの山に、廃屋があり、そこから、、

スジカイに使っている、長いボルト

電気配線の銅をとることにしました。

毎日、毎日、、廃屋にもぐっては、沢山の売り物を集めてきました。

鉄くずやさんのおじさん、最初の頃は大変喜んでくれました。

お金をもらって、人に喜んでもらうことを初めて経験しました。


でも、しまいに、鉄くずやさんが怪しみ、親に忠告され・・・

「泥棒を育てた覚えはない」と、父親に往復びんたをはられ、、、

この商売はやめることにしました。

このとき、初めて物を売るという経験をしました。

小学校4年生の時、昭和27年のことでした。


今だから言えることでした。



私の販売の原点、、又続きを書きます









仕事始め・・

いよいよ今日から、ユーズネット本部は、仕事始めです。

朝七時半頃、出社しました。

今日から役所も仕事始め、きっと道路は混むことだろう・・・

で、少し早めに、緑区の自宅を出ました。

豊明あたりで通常なら渋滞が始まるのに、、今日はスイスイでした。

まだ、トヨタ自動車が休みなんですね。

結果、予定より、、30分以上早い出社となりました。






文字どうり満開の、アマリリスが、、事務所で迎えてくれました。

今日は、沢山の方が年始のご挨拶に来られると思います。

しゃきっとして・・・お迎えしたいと思います。


わたしの初詣。

いよいよ、2009年の営業開始です。

朝、出かけに、有松の天神様へ遅い初詣。。

少年野球の子供達も来ていました。

一般の人はいませんでした。






去年一年の感謝と、新年を迎えることが出来たお礼に

先祖のお墓にも、お参りしてきました。




有松の、天神様と、清澄院のお墓 歩けば、一時間ほどの、、

よい散歩コースなんですが・・・

つい車で行ってしまいます。


「ゴメンナサイ又参りますからお許しを」 と、

日ごろの不義理に、ご勘弁をお願いして・・・

今日もそのまま、急ぎ出社してしまいました。



いよいよ、今年の営業開始です。






なんと 3億円!!

なんと!!3億円

と非常に目立つ表紙のカタログマガジンが届きました。

つい、3億円に目がいき開けてみました。








。。。この部分をコインで削ってみてね。。。

私のコイン入れには・・

一円玉・十円玉・五十円玉・百円玉・五百円玉 が入っていました。

すかさず、一円玉でこすりました。

最小の投下資金で、最大の効果を!が、

身についているのか・・それとも、ケチなのか・・

たぶん心底から、ケチなのだと思います。



うすく、大吉と出ました。

うすすぎるので、今度は十円玉で、少しきつくこすりました。

今度は、濃くなるどころか、破れてしまいました。

大吉は、カタログの中で、しるしのある商品にかぎり、

3000円引きとのことでした。


カタログの中身を見てみました。

価格 3700円で欲しい商品が見つかりました。

この商品には、しるしはありませんでした。

でも、たまたま欲しいものでしたので、、

すぐさまFAXで申し込みをしました。



私にカタログを開かせ・・

商品を見せ・・

結果思う価格で売れた・・


3億円・・・
と、書いてなかったら・・

ゴミ箱へ直行だったと思います。


買った自分が、

感心してしまいました。





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