上司の態度で部下の人生がかわる。
お客さんのため・・・会社のため・・・自分のため・で頑張ってきた毎日でしたが、、
自分の頑張りが、嫌いな係長の、成果・手柄になるのは許せませんでした。
すっかり、気力をなくしてしまった私は、この先のことを考えていました。
このままですと、この会社で、係長ー課長と役職が上がっていきます。
今、自分の上司である係長を見ていて、とてもあの地位になりたいとは思えません。
でも、今の会社の仕組みからすれば、かならず係長と言う地位を通らなければなりません。
忘れていた、「自分は自動車屋になりたい!」・・が、また目覚めてきました。
この程度でしたから、熱く、熱く、「自動車屋になりたい!」と夢見て、、
車の販売を頑張ったわけではありませんでした。
たまたま、目標が出来て、それを達成したい!!の繰り返しをしていたのでした。
新車のセールスになり、間もなく2年になろうかと言う夏のはじめ・・
今の販売実績が、嫌いな係長の実績にもなってしまうことに耐えられない。
社内で、将来の夢はなくなり、自分の目標もなく、すっかり、やりがいがなくなってしまいました。
住吉町のクラブ「ココボ」で、トヨタ自販の中古車部、功刀(クヌギ)と言う次長と親しくなり、
くるま先進国アメリカの中古車事情の、話を聞かせてもらう機会が良くありました。
その話の中で、近い将来、欧米並みに中古車の販売台数が伸びて、
新車の台数を越すほどの「中古車時代」がやってくると確信が持てました。
間もなく、「独立して中古車会社を経営したい」と言う方向に夢を、描き出しました。
そんな話を、例の「競馬の専務」と話していたら、、、、
井上君が社長になって、中古車会社を一緒に経営しようではないかと言う話が出ました。
いい話だとは思いましたが、資本金になるわずかなお金も自分にはなく、口を濁しておりました。
そんな話が出てから、間もなくのある日・・・
鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。
翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。
車も大きく痛んでしまいました。
幸いにも首の痛いのは、1週間~10日ほどで収まりました。
相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。
「今だ!今しかない!!” 」
その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。
私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。
新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。
あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、
トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。
何度も何度も、専務や部長が引止めるのを振り切って・・・
名古屋市瑞穂区山下通り
株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦
この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。
私が、26歳になったばかりの時でした。
私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。
嫌いだったあの係長を「反面教師」とさせてもらったことはいうまでもありません。
上に立つ者の・・
俺が”俺が”の態度で、、
部下が離れる!!
私の販売の原点
続き又書きます。