27ページ目   私の販売の原点

創業当時のルート

愛知県警、交通指導課、〇〇 と言う名詞を持った人が尋ねてきました

昭和57年初春でした・・・

 「明日、あなたの会社の協力整備工場、O自動車整備のO社長と専務を逮捕します。」

容疑は、私文書偽造同行使、その後に、詐欺罪も立件を視野に・・とのことでした。

・・でも・・・・警察の人が、なぜ私のところへ?・・・・

 O社長は、ルート豊田が行き詰ってしまったとき、溜まってしまった、支払いを分割でと・・相談に行った社長でした。

結果、助けてくれるどころか、その夜、事務所のものを全部持っていかれてしまいました。

その後、当社は再建に取りかかり、月々とはいえ、順調に支払いは進んでいきました。

間もなくきれいに完済、と言うときに、やっと事務所から持ち出したものを返してくれました。

と同時に、「以前のように、車検などの仕事が欲しい」と言われ、お願いすることにしました。


 少しの間は、順調に取引は続きました。

あるときから、納期が遅れだしました。

お願いした車のガソリンが異常に減ってしまっていることが頻繁におきだしました。

走行Kを調べてみると、なんと100キロ以上走っていました。

注意しても、そんなことはありえないと、言い切ります。

今度は、「先払いでしか仕事はしない」と、言って来ました。

「もう取引をやめるしかないな」・・と思っていたとき、県警の刑事さんが来られたのでした。


なぜ?私のところへ?

 逮捕が確実となり、「あなたが逮捕されたあと、お母さん、奥さん、子供たちは誰が面倒を見る?」・・と、警察の人が聞いたそうです。

その答えが、なんと、「ルート豊田の、井上さんに頼みます・・」だった、とのことでした。

◎ 私が最悪のとき、O氏は私に何をしてくれた?

◎ 反対に今度はO氏の方が、今、最悪の状態だ!同じ仕打ちを私はしない・・逆に、彼と彼の家族を出来る限り、支援しよう と、即座に決めました。


 O氏は、集金したお金を持って、夜な夜な、名古屋の繁華街へ行っていたそうです。

当然、仕事もおろそかになり、資金繰りに詰まってしまったとのことでした。

スタッフは、5~6人いましたが、給料もままならなくなり、通勤のガソリン代も払えなくなっていたようでした。

1番遠い人は、岐阜からでした。その人が、ガソリンが沢山入っていた、当社の車を使ったようでした。

最後は、車検に必要な、重量税・自賠責・証紙代等を先に預かり、使ってしまい、車検をせずのまま返してしまったようです。

フロントガラスに貼るステッカーは、ほかの車のものを再発行。車検証の車検期日は、偽造・・・
(その頃の、車検証の車検期日はゴム印で記載でした。朱肉の陸自印は芋で作って押したそうです)

〇 車検を受けずに、他人のステッカー再交付、車検証偽造が、有印私文書、不実記載同行使なのだそうです。

〇 車検用の諸経費として預かり、他に流用が、詐欺罪にあたるとのことでした。


翌日、O氏と番頭役の専務氏は、逮捕されました。

O氏の自宅近くの、守山署に留置され取調べとなりました。

早速、私は、O氏の奥さんに電話をしました。「出来る限りの支援をする・・と・・」


 警察の調べで、車検を取らずに、車検が受かったかのようにして集金だけした車が、100台以上ありました。

残念ながら、当社の車も、3~4台ありました。

弁護士さんから、なんとしても、詐欺罪にはしたくないから、被害者が返金を申し出たら、協力してもらえないだろうか?と要請がありました。

まだまだ弱体の当社でしたが、倒れない限り、と限定付きで引き受けることにしました。


O氏の奥さんには、月に15万円の仕送りをすることになりました。

被害者の返金申し出は、40~50台分、300万~400万だったと記憶しています。

結果詐欺は、まぬがれました。


 どうして、私がそこまで支援することにしたか・・・

〇 私の苦しい時にされたこと・・O氏が苦しい時に、私のとる態度・・男の勝負!私の勝ち!!こんなことを密かに思ったこと。
   (負けず嫌いの、いい格好し・・のところがありました)

〇 100人以上の人が、信用してしまった!彼は、ほんまものを正直に扱う当社でなら、すごい力が発揮できると思った。

〇 一度失敗してしまった人は、普通の人に比べたら、すごい力を発揮するはず。(自分がそうであったから・・)

〇 今、苦しい中、彼のために出費している金額は、当社の仕事をしてもらいながら、月々返してもらえば、当社としては、業績も上がり、お金もきっと返ってくる。と読んでいた。

〇 何が何でも、月の販売、100台にしたかった。そのために、O氏が必要と思った。


その後O氏は、守山署の取調べが終わり、名古屋拘置所へ移されました。

半年にわたった取調べも終わり、保釈金を用意すれば、拘置所から出られるということで、私に何とかして欲しいと・・弁護士を通じて涙ながらに頼んできました。


まだ当社の、最悪期の借金がやっと終わったか、と言う時、昭和57年の話です。もうすでに能力を超した出費をしてしまっていました。でも、彼の気持ちを思うと・・何とかしてやりたい・・・加えて、当社としても早く、うちで働いて欲しい!

最後の手段、私の母親から、100万借りてきました。

その後の裁判に私も出廷しました。身元引き受けします・・更正は私が責任を持ってさせます、と訴えました。



  裁判長の声が今でも忘れられません

O・Y・・・「あなたを・・懲役3年に処す!」 「尚、その刑の執行を、4年間猶予する!」


彼は、すぐ当社に着任しました。

昭和57年10月のことでした。

その年の、12月・・当社は、5台の展示で・・・・悲願の、100台を達成しました。


今だから言えることです。

   
      その後、O氏は何度も問題を起こすことになります。

(O氏本人は、今は全く連絡が取れていません。本人がこのブログを見たときの事を考え、事実を曲げないよう、気を使って書きました)


又、つづきを書きます。

















創業当時のルート

54年1月・・・大変なことになってしまいました。

 130万ほどで買った、セリカリフトバックの支払いが、約束の日に出来なくなってしまいました。

その車の代金は、あるお客さんが、トヨタカローラ名古屋で新車に乗り換えるための頭金でした。

お客さんは、真っ青・・困惑するディーラーは・・新車が納まらず、大変な問題になってしまいました。

お客さんの代理で、ディーラーの課長さんが支払いの催促に来られました。

どなたが来られようが、お金がないので払えません。一週間待ってほしいと頼みましたが、答えは、「NO」でした。

ディーラーの課長さん、らちがあかないと思い、「明日中に支払ってもらえなければ、ここの商品車全部もらって行く!」

なかば、捨て台詞のように言われました。その時当社には、安い車ばかり7台ほどありました。

私は、その課長さんの話に「しめた!全部持っていってもらおう」と、心の中で決めました。

翌日、課長さん率いる、何人かのスタッフが、私を見下したような態度を取りながら、意気揚々と全部の車を持っていきました。

一日にして、7台の車が、130万円で売れました!!!



一台も商品車はなくなりましたが・・・支払う予定にしていた、130万円は2~3日後に用意できました。


お蔭様で、願ってもないチャンス・・・いやな思いはしましたが、再出発することが出来ました。


よし!再出発だ・・・
〇 売値の幅を、昨年のヒトケタ車に加え十万円台のものまで拡げました。

〇 男性スタッフを入れて、3人体制にしました。

〇 クレジットが取り扱えるようにしました。

〇 折り込み広告を出すことにしました。


売値の幅は、毎年10万円ずつ上げていこうと、計画しました。(この計画で、新しい商品車を入れることにしました。)

取り扱い車種も毎年拡げていこうと思い、軽・ライトバン・クラウンクラスは来年以降に温存しました。

黄色いちらしで、赤一色の写真と文字、片面のチラシを月に3回、地域を絞って折り込むことにしました。
(裏は、メモにお使いくださいと書きました。)

このチラシ作戦は、お金の用意があってしたものではなく、全くの「ばくち」でした。

田岡信夫著、ランチェスター戦略を読み、参考にして勝負をかけたものでした。

外れれば、もとのもくあみでした。

一回目、反応なし・・

二回目、3~4人の来場・・売り上げ 0台

3回目、なんと、20人ほどのご来場で、10台売れました。


この成功によって、この年、月の売り上げ12~13台から始まって、12月には40台ほどに成長できました。


今だから言えることです。


   又、つづきをかきます。










創業当時のルート

借金返済と、仕入れ・経費支払い、毎日が地獄でした。

約束した日に支払いが出来ないことが、たびたびでした。

 約束の支払いが出来ないときは、朝一番で謝りの電話をするようにしていました。

いやな・・言いにくいことは先に済まさないと、一日中憂鬱で仕事になりません。

そんな苦しい時、ある人から、楽になるからと、シャブ(麻薬)を薦められました。

楽になりたい!でも・・・

シャブには手を出しませんでしたが、とても良い、勇気の出ることを発見しました。


 それは・・・

言いにくいことを、言う前・電話する前に、「冷や酒」をコップ一杯グィッと一気に飲み干します。

すると、顔が暖かくなる寸前に非常に勇気が出るということでした。

あの頃は常に、一升瓶を用意しておりました。


 商談している最中に、電話が鳴り、支払いの催促されると、商談はこわれてしまいます。

考えて、電話機のベルにテープを巻きつけ、音は出ない・・かすかに振動するのみにしました。

電話のベルが鳴らなくなって、商談に力が入るようになりました。


 お客様から犬をもらってきました。

事務所の中において、私が裏で整備などしている時、表にお客様がいらっしゃったら、「ワン、ワン」とほえる・・・

私がその鳴き声で、来客を知り、事務所に入ると、ぴたっと、鳴き止むようにしつけました。

一人の人件費が節約できました。名前は、ナッキーといいました。

13~14年生きて亡くなりましたが、その時の悲しみから、もう・・犬を飼うのは絶対いやだと思いました。

ナッキーには、仕事上と、癒しの両面で助けてもらいました。



 必死の日々を送っていましたが、その頃、自宅へは一円も持ってはいけませんでした。

妻は子供たちに食べさせるため・・・

朝、3時か4時に家をでて・・牛乳配達・それを済ませてすぐに新聞配達・・

家へ帰って、子供たちを学校に出し・・スーパーでレジのパート・・

いくら頑張ったとはいえ・・・

子供たちには、とても人並みにはしてやれなかったはずです。

おかげでそんな中にありながら、子供たちはまっすぐ以上に育ってくれているようでした。

迷惑だけかけて何にもしてあげれていない、だめな父親に、「お父さん、いつもお仕事ありがとう!」の手紙・・・

涙なくして読めませんでした。

時折もらう手紙が励みとなり、歯を食いしばることが出来ました。



 数日の電話番、と言うことで来て貰い、間もなく30年になる、苅谷部長

初めの頃は、約束の給料も一度には支払えませんでした。

支払えるときに1万・2万と支払っていました。

その少ないお金から、最初に買ったのは、お米ではなく・・

通勤のバスの回数券であったと聞き、ジーンと来てしまいました。




お客様に恵まれ、周囲に支えられて、最悪から1年経ちました・・・


54年2月~3月で一気に勝負に出ることにしました。

文字どうり、「ダメもと!で」


    今だから言えることです。


              つづきはまたかきます。





















創業当時のルート

昭和54年の正月を迎えることが出来ました。


元旦の夜・・
事務所2階の寝起きしている部屋に、なかばやけっぱちで、大きな文字を3枚書きました。

   「命かけて」


   「今に見ておれ、俺は日本一」


   「この道より、我を生かす道なし、この道を歩く。 この道は、日本一への道」            (これは、武者小路実篤の言葉に日本一を加えたものです)


 自分で書いた3枚をじっと見つめながら、今の夢を、4つ書きました。


① 借金を完済する  (目標期限、4年後・・昭和58年末)

② 月に100台売れる店にする  (達成期限、9年後・・昭和63年末)

③ 豊田まつり(現、おいでんまつり)に仕掛け花火を出す  (実行期限、9年後・・昭和63年)

④ 社員旅行で海外へ行く  (実行期限、9年後・・昭和63年)

その時の自分からすれば、夢の夢を書いたのでした。


4つの夢を目標に、行動を開始しようと熱く、熱く思いました。

すべての夢の達成は、販売台数アップにかかっていました。

今年中に、30台を達成させよう!

燃えに燃えて、54年の仕事が始まりました。


すべてのもと販売台数を上げるには、人が必要だと言うことで、店の前に張り紙を出しました。

「社員募集・・低賃金、重労働に耐えられる人」と・・


2月にK君、7月に整備のI君が入社してくれ、月販30台の体制は何とか整い、販売に勢いがついてきました。

この年(昭和54年)の暮れには、なんと、月の販売台数、40台まで売れるようになリました。



この販売台数増を振り返ると・・・

〇  昨年は、ヒトケタ万円(9万円まで)の商品だけであったものを、ヒトケタに加えて、最高販売金額、10万円台(19万円)まで拡げたことが大きく貢献しました。

〇  3月からクレジット会社と契約が出来、オートローンで買ってもらえるようになったこと。(ジャックスには今でも感謝をしています)

〇  スタッフがそろい、私の販売対応時間が確保された。

〇  ランチェスター戦略(田岡信夫著)に出会い、ルート豊田のように、弱い企業でも、地域・商品・お客様を絞れば勝てると信じて行動した。


54年年初に立てた目標は、すべて期日どうりとは行きませんでしたが、すべてを達成することが出来ました。


①  借金を完済する・・・昭和58年末期限    53年1月時点での借金は、56年末までには、ほぼ完済。
    3年前倒しで達成、(一日16時間労働、3年近くの1、000日無休、毎月200万~300万返済を続けました。)

②  月に100台売れる店にする。・・・昭和63年末期限   57年12月、100台達成
    6年前倒しで達成、(後に問題は起きましたが、非常に売ることがうまい男が入社)

③  おいでん祭りに、「仕掛け花火」を出す・・・昭和63年期限  平成4年に初めて「仕掛け花火」を協賛
    (昭和53年夏、他社の打ち上げ花火を見て、俺は仕掛け花火だ!と誓って、15年かかりました)

④  社員旅行で海外へ行く・・・昭和63年期限    平成4年末、スタッフとその家族をグアムへ招待
    (家族が一緒のため、旅行はまとまりがなく・・その後はお客様招待に変えました。)


期日はまちまちに達成しましたが、熱く思い・・目標をきちんと定め・・目標から目を離さなければ、必ず達成できるものだとつくづく思います。


100台達成したとき、大きく貢献してくれたのは、当社の最悪時、事務所から、すべてを運び出した、当時の整備工場の社長でした。

当社が、その整備工場に借金を返し終わった頃から、経営状態がおかしくなり、ついには、警察に捕まるような悪いことをしてしまいました。

その社長、O氏に保釈金を出して、入社させ、100台達成に貢献してもらったのでした。


今だから言えることです。

               創業当時のルート・・もう少し続けたいと思います。








創業当時のルート

事務所の中は、黒い電話機が一つ床にぽつんとおいてあるだけ。

その電話も切られていました。

家賃は半年間支払いが、たまっていました。

 その大家さん、例の整備工場はじめ支払いができていない先、30~40口でした。

まず、大家さんから始まり、出きるかどうかも確かではない、当時としては、夢のような計画を、頭を下げながら話して回りました。

全く入金の当てがない自分は、何を言われても平気、開き直ることが出来ていました。

必ず払うと言う信念だけは持っており、とても強くなっている自分に気がつきました。



 とは言え、なんとしても仕事は再開しなければすべてが始まりません。自分の命もかかっています。

そのためには、まず電話を開通させなければなりません。そして自分には、生きるための食料が必要です。

以前バイトをしてくれていた、大学生(現在は、愛知トヨタで営業所長をしています)に頼んで、10万円一ヶ月の期限付きで、友達から借りてきてもらいました。

お蔭様で、そのお金で電話は開通・・・自分の命の糧、インスタントラーメンも買えました。

当分の間、家内と子供は両実家へ身を寄せることになりました。

古い机と椅子をめぐんでもらって、曲がりながらではありますが、再建のスタート準備ができました。


 債権者も持っていかなかった、古い車2台を、国道から見える位置に並べました。

価格表なるものもなく、水生マジックでガラスに値段を書きました。

6万円と8万円でした。

値段を書いて、じっと待っていました。

国道を通る車からのぞきはしてくれるものの、降りて来てくれる人はありませんでした。

再建スタートから、待つこと、約2週間・・・

一人の若い人が車を止めて降りてきました。

なんと、6万円の車を見てくれているではありませんか・・・

自分は、この人を離してしまったら・・・立ち上がれない・・・「半殺しにしてでも売るぞ!」文字どうり、命を賭けた商談、になりました。

買ってもらいました!!瀬戸に住んでいる人でした。

早速、その売上金のなかから、現金を5万円程持って、ディラーへ仕入れに行きました。

古い車、でも程度が良い車を、2台を仕入れてきました。

こんなスタートを切った、再建、「ルート豊田」は、その月、昭和53年3月・・・7~8台の販売ができました。

当初、借りた10万円は、約束どうり返すことが出来ました。



超、安い車しか仕入れが出来なく、仕方なく始まった超低価格車の販売でしたが、やってるうちに、この価格帯に、充分マーケットがあることに気がつきました。

競争相手は全くなし・・・
利益率は高い・・・(但し利益そのものは少ないですが)
仕入れが楽(同業は誰も扱っていなかった)

半年も経たずに、月に13台くらいまで売れるようになりました。が、忙しすぎて、まず、電話番がなくては、もうこれ以上は望めなくなりました。

9月から・・・(結果、うそになってしまいましたが)・・・名古屋市名東区からバスを乗り継ぎ2時間かかるため、少しの間だけの約束で、電話番を頼むことにしました。その人は、間もなく、勤続30年になる、ユーズネット本部の苅谷部長でした。


留守番が来てくれたことで、その年の暮れには、20台近く売れるようになっていました。

昭和53年12月31日・・・今年中には何とか仕上げたいと、その夜、スズキの軽クーペのエンジンの乗せ替えをしていました。

近くのお寺から、除夜の鐘が「ごーん・・・ごーん」と聞こえてきました。


ジャッキで上げた、車の下で仰向けのまま聞いた、除夜の鐘には、涙が止まりませんでした。

狭い車の下で、泥と油と涙で、くしゃくしゃになって”昭和54年を、何とか、迎えました。


今だから言えることです。

             つづきは、又時間があるときに書きます。


























創業当時のルート

月のきれいな夜でした。

 右手に見えかくれする、矢作川の川面は、月の明かりで、キラキラと輝いていました。

自分を死に至らしめるための、ひも・ホースなど、すべを持っていないことに気づき、通りにあったガソリンスタンドへ乗り入れました。

「待てよ、俺は今、びた一文、持っていない!」

あわててスタンドを出て又走り出しました。

月原の手前か、藤沢あたりだったか・・・道路と矢作川の間に竹やぶがありました。

その空地に車を止めて、矢作の川面を、ぼうと眺めておりました。

今まで、本物でなかった自分のために、迷惑をかけてしまった、いろいろな人々が、浮かんでは消えていきました。

まるで、走馬灯のように・・・

 家では、満足な食事もない子供たちが、今夜もさみしく”ひもじい食卓”についていることだろう。

「ごめんなさい」「がんばって立派な大人になって・・・」




 車ごとダムに突っ込むか・・高い場所を見つけて車ごと・・

死に至るための、方法がきまりました。

いざと思い、バックしようと思った・・その時・・私の後ろから、「お・と・う・さーん!!」

子供たちの、「呼び声」が聞こえてきました。


「はっと」・・・・この呼び声で・・・われに帰ることができました。


「そうだ、俺には、子供たちがいる・・・文字どうり、死んだつもりで・・子供たちのためにがんばろう!」

「死んだつもりで・向かえば怖いものはないはずだ!」

「ようし!どんなことがあろうが・・・何年かかろうが・・・」


 来た道を今度は、下っていきました。

帰り着いた「ルート豊田」の事務所は、もぬけの殻になっていました。

15坪の事務所には、床に、黒い電話機がぽつんと置いてあるだけになっていました。

助けを求めて、相談に行った協力会社の整備工場が、トラックで来て、すべてを持って行ってしまったのでした。

相談に行ったとき、事務所のキーを忘れて来てしまいました。



外には、だれも持っていかなかった、車が2台だけありました。


翌日、義理の兄の紹介で弁護士さんに、この先のことを相談に行きました。

私の話を一通り聞いた弁護士さん、「あんたのケースは、ことが小さくて、いわゆる倒産の仲間には入らないよ」

「3000万や、5000万は頑張って仕事をして行けばどうにでもなる筈。」

「ましてや、債権者が、30人そこそこなら、明日から、いや、今からでも謝って回ればいいではないか。」

「そして、頑張った中から、少しづつ返していけばいい・・」

3000万・5000万は計算ができていなかった数字で、結果は、8000万から9000万の返済になりました。

あまり取り合ってももらえませんでした。


帰り際に、「一本吸っていきなさい」と、確かロングピースを差し出されました。

「今日のこのタバコの味を忘れないようにしなさいよ」といわれました。

おいしいピースでした・・・味は忘れましたが・・・おいしかったことは忘れられません。


今だから言えることです・・     

・・・・・・・・また、時間が許されるときを見計らって、  つづきをかきます。・・・・・・・・















創業当時のルート

私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと、豊田の地を選んで、緑区から出てきました。

昭和51年5月、「ルート豊田」の名前で、国道248沿いの貸し店舗で創業しました。

社名のルートは、流通と言う意味からつけました。

オープン早々、当地の同業者から反対の声があがりました。

反対の理由は・・・

①  個人間売買は、今までの中古車屋の仕入れ価格、売り価格を明らかにしてしまい商売がとてもしにくくなる。

②  豊田で自動車屋を営業するなら、〇〇自動車  〇〇モータースのような名前にしてくれ・・・
    でないと、業界秩序が乱れる。                                                          (豊田の自動車屋さんは、自分の姓、または地名のあとに、自動車・・または、モータースとなっていました)

③  自動車屋は地元で営業するもの・・・だから君は名古屋の緑区で開業すべき。

④  自動車屋は広い土地ですべき、貸し店舗で自動車屋をするなんてもってのほか。業界をなめてはいかん!
    (確かに当時の自動車屋はみな広い土地で営業していました。)


  毎日「ルート豊田」へ来て、私の商売をやめさせようとしました。6人ほどの人たちでした。

困った私は、以前から親しかった、自動車新聞の記者に話しました。(今年の1月に亡くなられた、当時の林記者でした)

なんと、このことを、林記者は全国紙、日刊自動車新聞に、見開き2ページにわたって書きました。

あまりに大きな記事に私のほうがびっくりしました。

これによって、地元の同業者は「ルート豊田」へは、直接来なくなりました。

でも、今度は、日刊自動車新聞に対して、不買運動が起きたと聞きました。

この不買運動は、豊田から愛知県全体に拡げようとされたと聞きましたが、まもなく消えてしまいました。

今度は、この新聞を見た全国の同業者から、「個人間売買」とはどんな仕組みなのか?と電話が殺到しました。

電話だけでなく、毎日のように、訪問を受けてしまいこれまた大変な事態となってしまいました。



でも、これだけ、全国の自動車屋さんに興味を持ってもらっているなら・・・・

この機会に、この「個人間売買」をフランチャイズにして伸ばしていこう・・・・



発想が単純、無計画、ではありましたが・・・

ルートのフランチャイズは、2年で全国、北は、釧路・札幌 南は、徳島、宮崎まで、26店舗に広がりました。

本部である、ルート豊田は、創業からたいした仕事も出来ず・・

私は、創業と同時に、地元との反対対策・・その後、全国からの問い合わせの応対・・その後の全国回り・・・
フランチャイズ店の指導と悪戦苦闘・・


結果・・・負債ばかり積み重なり、昭和53年1月になり、とうとう行き詰ってしまいました。

行き詰まってしまう前の半年間は、毎日、お金に追われ、地獄の思いを味わいました。

何とか打開すべく、協力してもらっていた整備工場の社長に相談に行きましたが、良い話はできず、しょぼしょぼ帰ってきました。

その場に事務所の鍵を忘れてきたことなどは、もうろうとしていた私は気がつきませんでした。

7年ほど前になくなった母親に助けを求めましたが、一銭も出してはくれませんでした。
後でわかったことですが、その時母親は、3、000万円持っていました。

その母親は、「憂きことの、尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことばを紙に書いてくれました。

万事休す、もうなんともならない・・・

すべては終わってしまった。

今晩・・死のう!・妻や子供たちには何とか、生命保険で・・ときめました。

その日、見た、人生最後になるはずの夕日は、大きく真っ赤でした。

夕日をゆっくり見たのは何年か振りでした。

三好の森下交差点からの夕日でした。


その夜、ダイハツ、ハイゼットで矢作川を、死に場所を求めて、登っていきました。

昭和53年1月23日・・・月のとてもきれいな夜でした・・・


今だから言えることです・・・    また、時間をみて、つづきを書こうと思います。










今だから言えること・第8弾・

「〇〇君が、昨夜亡くなったんだって・・・」

「自殺だそうだよ・・家で首をつったんだって!」



これは、5年ほど前の話です。

彼は、今から28年前、昭和54年7月、当社にとって、2人目の男性スタッフとして入社しました。

整備士ということで、入社2~3年は、「当社の初期躍進」に大いに貢献してくれました。

入社当時、月間20台ほどだった販売台数は、5年後には、100台程になっていました。

この5年間の成長に、彼は大きく貢献してくれました。

ところが私が、整備の面で、頼れば頼るほど勤務態度は悪くなってきました。

昭和59年のあるとき、大型自動車の免許が取りたいとのことで、費用は負担することにしました。

免許が取れて間もなく新入社員の歓迎会がありました。

お酒が出るから、車では来ないように、と、皆に注意をしてありました。

当日、彼は車で行こうとしたので、注意したところ、「飲まないから大丈夫・・」とふてくされた態度・・

彼の「酒好き」を良く知っていた私は「飲まないなら、場がしらけるから、来るな!」ときつく言い渡しました。

プッ”とした態度で彼はどこかへ行ってしまい、歓迎会には、出てきませんでした。

翌朝・・彼が出社するなり、「やめさせてもらいます」・・

「今日中に荷物を片付けて出て行け!!」

これが、彼の第一回目の退社となりました。

彼はすぐ、トラックの運転手として働き出しました。

当社の費用で取った免許証で・・・それが私にとっては、とても悔しくて許せませんでした。


運送会社で3年ほど勤めたある日、「土、日バイトでよいので働かせてほしい」と言ってきました。

以前と違って、柔和な感じで言って来たので、バイトに来てもらうことにしました。

よく働き、感じも良く非常に助かりました。

バイトを2年ほど続けたあと、運転手を辞めてフルに勤めたいと申し入れがありました。

願ってもないと喜んで、再度きてもらうことにしました。

最初の頃はとてもよく働き、お客様の受けもよく、喜んでおりました。

3~4年経った頃又様子が変わってきました。

私の車が朝から置いてない日は必ず、友達と思われる人が数名・たむろ・するようになってきました。

私以外のスタッフは無視して、知人の車をさわっていたようです。

私が帰ってきてそれを見つけ、知人と思われる人々に出入り禁止を言い渡しました。

そのことが発端となり、第2回目の退社となりました。

その後は、以前と同じ運送会社に又、勤めるようになりました。


4~5年経って、また私のところへ来ました。

「年齢も40歳を越して、運転手は危険であるし、身体が付いていけない。」
「以前とは違って、ルートのため、家族のために、まじめに働かせてもらうから・・・」
家族のためと言われ・ほろり・としてしまいました。

今度こそは大丈夫とは、思いましたが・・・
社員としてではなく、「今度は請負の出来高払い」ということで来てもらうことにしました。
私には、請負だから、今度は大丈夫と言う思いがありました。

又数年たって、請負と言うことで、私の注意も及ばなくなって結果は・・・・
今までの、悪い状態に輪をかけた状態となってしまいました。

家族のため・・で始まった今回でしたので・・・注意をして・・半年後までの猶予を与えました。

半年たった時、もっと状況は悪くなっていました。

出て行ってもらうことに決定はしましたが、生活もあることだろうから、と、もう半年の猶予を与え出て行ってもらいました。

これが、第3回目の退社でした。



その後は、当社でしていたように、ある整備工場で出来高払いの請負で仕事をしていたようです。

冒頭の「彼が自殺した!」の話が私に伝わったのは・・・彼が当社を出て行った、一年後の夏でした・・・


葬儀に出させてもらって、奥さんと別れてしまっていたことをはじめて知りました。

あれだけ、「家庭が大切」と彼は行っていたのに・・・

家庭が大切なら・・・やはり仕事を大切にすべき・・・と・つくづく思いました。


遺影に手をあわせながら・・・
当社が彼を出さなかったら、この事態にはならなかった・・

でも・・・彼を、そのまま、おいていたら・・・
当社の方が、持たなくなってしまったのでは・・・

私の、決断は・・間違っていなかったはず・・・

・・私の、指導力がもっとあったなら・・など・・いろいろ、考えさせられました・・・


今だから言えることでした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合掌・・・



















伝説の人??

カローラ・ルミオン店頭発表会に、トヨタカローラ愛豊・豊田店へ行ってきました。

カローラ愛豊は、私が昭和41年から43年まで、2年だけですが、新車セールスとして勤めていた会社です。

ショウルームの入り口で、豊田地区の営業部長が私を見つけ、笑顔で迎えてくれました。

今日は本社から、専務が来ているから紹介すると言われ、紹介してもらいました。

専務さんの顔を見てびっくり、私の在籍時代の後輩だったのです。約40年ぶりの、懐かしい再会でした。

その専務さんが今度は、私をたまたま来られていた、トヨタ自動車の、カローラ店営業本部長に紹介してくれました。

「カローラ愛豊の、伝説の人」と私を紹介してくれました。

勝手にやめて、しかも40年も経った今、私を「伝説の人」と言ってもらえた事に、私は非常にうれしく思いました。



愛知トヨタに入社して、ガソリンスタンド勤務5年
グループ会社のトヨタカローラ愛豊が、パブリカ・カローラの新車の販売を始めると言うことで、転籍となりました。
愛知トヨタから新車販売経験者と私のような、未経験者含め、約120名で販売が始まりました。
 その120名の中で、自分は根拠もなく、絶対1番になろう・いや、なるんだと・とおもってい
ました。

〇 昭和41年8月  トヨタカローラ愛豊の新車販売、第1ヶ月目に新人の私が13台で、1番になりました。
  先輩セールスの人たちは、「あんなものは、”線香花火だ”続くはずがない!」と、陰で言っていたようです。  

〇 翌月、9月から、3ヶ月間の、「オールトヨタ、ハワイキャンペーン」が始まりました。
   

全国のトヨタ販売店から優秀セールスを選抜して、初めて海外へ招待するキャンペーンでした。
   全国から、約100名ほどと聞きました。
   当時ハワイへ行くには、1,000ドル必要でした。1ドル360円の時代です。36万円・当時の私の年収分です。
   発表されて即座に私は、「ハワイへ行くぞ!」と、勝手に決めていました。
   


  ● 9月からキャンペーンは始まりました。
   
 がんばり過ぎた私は、25日頃、急性腎炎で倒れてしまいました。
    見舞いに来てくれた人の話で、9月も14台販売した私が1番だったと聞きました。
    10月は1ヶ月間寝たきりでした。
    11月10日頃、出勤の許可がやっとでました。短時間のデスクワークなら、との、条件付きでした。
    キャンペーンが終わって、10日ほどで発表になりました。
    期間中37台達成で、私のハワイ行きが決まりました。
    愛知県のカローラ店5社、セールスマン数、1、300人の中から4人が憧れのハワイへ行くことになりました。


  ● ハワイで他社のセールスマンの引き抜きに成功!
    ハワイで同室になったのは、私と同じ地域を担当していた、他社の優秀セールスマンでした。
    私にとっては、死んでほしいくらいの「敵」でした。
    ハワイでの一週間でその「敵」を引き抜くことに成功して、会社への「おみあげ」にしました。
    会社ではびっくりされ・・・わたしにとっては、昨日までの敵が味方に変わって、おおいに、協力して貰いました。


〇  3月1ヶ月間の社内キャンペーン開催
  ● ハワイから帰ってすぐ、3月に販売キャンペーンを行うと発表がありました。
  ● 1番・・・8万円  2番・・・5万円 と言うものでした。(当時私は、基本給3万円手当て込み8万円位でした。)
    早速その夜、私は、高校当時の同級生が勤めていた、住吉町の、クラブ「ココボ」へ行きました。
    4月〇日に必ず支払うと言う約束で・・すいていたお店ほぼ貸切で、8万円使ってしまいました。
  ● 1番になり約束どうり、支払いをすることはできました。でも次の給料で多額の所得税には悩 まされました。


〇  1年が終わり年間順位が発表されました。
  ● 年間160台で私が1番でした。2位は確か、110台にも達していなく、差は、50台以上ついたと思います。


翌年、昭和43年春、出勤途上、鶴舞交差点で追突事故にあってしまいました。
その時の、保険会社からの賠償金、と、退職金をもって退社して、中古車会社を設立しました。
バックアップしてくれる親会社があってのことでした。
    
    
あんな、こんなで・・・私は「伝説の人」なのです。
  
   
 今だから、言えることでした。 








屋久島

「お話があります。困っています。コ・子供が産まれるんです。」


予定日は、来年1月、あと5ヶ月とのことです。

昭和54年2月に、募集張り紙を見て、入社してくれた、男性1号スタッフのKクンです。

「社員募集、重労働・低賃金に耐えられる人」と書いた張り紙を見て、入社してきました。

Kクンが私に話したのは、入社して、半年後の朝でした。

「困ることなんか無いじゃないの、おめでとう”じゃない?」

それが、彼女の親には、まだ話してなく、話せば、「すぐ帰って来い”」と、ど叱られる!と、小さくなっていました。

彼女の実家は、鹿児島県の屋久島で、漁業を営んでいるとのことでした。

「よしわかった。俺が一緒に行ってあげるから、彼女と準備をしなさい。」

当時の当社の状況は、くるまを売ることが出来るのは、私だけ・・加えて、多大な借金で、文字どうり「火の車」
の状況でした。

急ぎ準備をし、旅費も何とか工面して、3日後には屋久島の空港に降り立つことが出来ました。

実家は、屋久島の南端、「中間」と言う部落にあり、家の前がすぐ海岸でした。

海側には扉はなく、板縁からあがらせてもらいました。奥に、ござが敷いてありそこに6人用の座卓がおいてありました。

奥側左にお父さん、右にお母さんが座られました。

ゴザに額をすりつけて、まず、監督不行き届きをあやまりました。

Kクンはこれからが期待できる好青年。今後は力を合わせて立派な会社にします。どうか、結婚と豊田での生活を認めてほしい。とお願いしました。

びくびくしながらでしたが、さすがに、娘さんの大きいおなかを前にして、だめとは言われず、すべてを許してもらいました。

その夜は、ゴザの上に布団を敷いてもらい休みました。
直接聞こえる波の音がとてもさわやかに思えました。

その翌日になり台風が接近していることを知りました。今夜、屋久島直撃との予報でした。

とびらのない、あけっぴろげの家に、板を打ちつけたり、家の外のものを片付けたり、台風に備える準備を手伝いました。

その夜、予報どうり台風は直撃でした。早々に停電になりました。

真っ暗な中、荒れ狂う波・・風の音・・雨の音・・とても寝付ける状況ではありませんでした。

翌日の飛行機は欠航になってしまいましたが、何とか役目を果たし、1日遅れで豊田に帰ってきました。


Kクンの結婚式は、急ぎ12月に行われました。

そして、1月か2月に長女が無事誕生しました。

その後Kクンは、岡崎店の店長を最後に退社してしまいました。
岡崎店の業績がいまひとつで、私が厳しい言葉で追い詰めてしまったのが原因だと思います。

もっと、スタッフを思いやる、やさしい指導が出来なかったかと、反省しております。
Kクンの退社から多くを学ばせてもらいました。


あの時の、長女は、今、27歳です。
結婚して、子供さんにも恵まれたと、うわさに聞きました。
Kクンも、今では、いいおじいちゃんになっていることと思います。


今だから言えることでした。

















今だから言えること・第5弾

「●●さんが、四国で死亡事故を起こしました。」


車が横転して、同乗していた女性が社外に放り出されて、車の下敷きになって亡くなった・・・

忘れもしません。昭和53年8月・・トヨタ自動車の夏休みの出来事でした。

当時のルートは、スタッフなし、私一人ですべてをこなしておりました。

あの日、夕方までの1~2時間、親しい人に留守番をたのんで、書類の仕事か、仕入れのため、外出しておりました。

●●さんのお車は、翌日がお渡しの予定で準備はできておりました。

当時のルートは、自動車保険の代理店資格は無く、保険加入はお金のみ預かり、正規の代理店にお願いしておりました。

対人1億・対物200万・搭乗者傷害500万という内容でお金は事前にお預かりしておりました。

お渡し予定の明日、保険の加入手続きはお願いしようと思っておりました。

留守番の人の報告も無く、そのお客さんが乗って行ったなんて思ってもいませんでした。

翌日の朝・・「●●さんが死亡事故を起こした!」と言う代理人からの電話でびっくり!!

まさかと思って、裏へ車を確認に行き、初めて乗っていかれたことを知り、血の気が引きました。

「500万円の搭乗者保険に加入しているはず。すぐ手続きをしてほしい・・・」

保険加入が出来ていなかった旨をはなし、平謝りの上、何とか月々の支払いで堪忍してもらうのに1ヶ月を要しました。

この一件が無くとも、当時の自分にとっては、天文学的金額の借金を負っていました。

その上、搭乗者保険の賠償分、月々 170、000円、30ヶ月払いが、づっしりと、のしかかりました。

「憂きことの、尚、この上に積もれかし、限りある身の力試さん」

この事故の約半年前、どうにもお金が回らなくなり、亡くなった母親に、お金を借りに行きました。
(後でわかったことですが、当時母親は、3、000万円以上持っていました。)

その時母親は、頑として1円のお金も貸してくれませんでした。でもお金のかわりに、この言葉をくれたのでした。

これは、江戸時代の、熊沢蕃山という人の言葉だそうです。

この、憂きことの・・・を唱えながら歯を食いしばったものでした。


あの時の、私のつらかった経験から学んだ、保険に対する心がグループ全体に受け継がれております。

そして、今では・・・
くるまは、ユーズネット・・・保険もユーズネット・・・として、お客様に安心をしていただいております。

今朝、母親のお墓参りをしてきました。
私に力を与えてくれた、「憂きことの・・」に改めて感謝をささげました。

今だから言えることでした。


今だから言えること・第4弾

「おとうさん!ゆうべ、誰と、どこへ行っていたの?」



株式会社ルートを設立するまでは、こんな電話が、自宅からよく掛かりました。


株式会社ルートを設立したのは、創業から7年後の、昭和58年10月でした。

会社設立までは、すべてに個人(井上政彦)の名前が出てきました。

銀行・警察の古物営業許可・車の登録等々・・・

今は、くるまを買ってきたり、下取りをしたりすると、全車両(株) ルートの名義にしております。

個人営業の当時は、すべて、井上政彦名義にしており、住所は緑区の自宅でした。

車検、修理などでお貸しする代車もすべて、私、個人の名義になっていました。

駐車違反・放置車輌・スピード自動取り締まり等、すべて自宅へまず電話が掛かりました。



あの事件も、まず自宅へ掛かった静岡県警の電話からでした。

昭和57年12月26日だったと思います。
妻から、電話が掛かってきました。

「お父さん、ゆうべ誰と、どこへ行っていたの?」と言う電話でした。


「昨日、自分がどこでどんな仕事をしていようが、いらんこった!」と、思いはしたものの、何か疑われているな、と直感で分かりました。


電話の内容をよく聞くと・・・

愛知県との県境に近い国道1号線沿いのラブホテルを利用したカップルが、帰りにテレビを持ち帰った!
ナンバー照会をしたところ、井上政彦さんのくるまでした。というものでした。

「本人との連絡が取りたい」・・・と言うことで、びっくりした妻から私への電話となったのでした。

一生懸命働いていると信じていた夫が、どこかの女性とラブホテルへ・・・

事もあろうに、そのホテルから、テレビを盗んで逃げた!

警察から電話を受けた、妻がびっくりするのも当然です。

テレビを盗んだ車は、当社が代車としてお客さんに貸したものでした。

静岡県警にはお客さんの、名前と連絡先を教え、間も無く逮捕となりました。

お客さんの中にはひどい人もあります。

すべてのお客様が神様であって欲しいと願ってはいますが・・・思いどうりにはなりません。

お客様はよい店を選ばれます。
当社もよいお客様のために、「お客様を選ばなくては」と、思っています。

「ラブH・テレビ窃盗事件の犯人」に対し、私は厳しく対応しました。

このような人は必ず言います。

「お客に向かって、どういう言い方をするんだ!」・と・・

お客さんは何しても、店側はぺこぺこするものだとでも思っているのでしょう。

その後、例の犯人の顔を見た事は一度もありません。


「ラブH・テレビ窃盗事件」



今だから言えることでした。



















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