創業当時のルート
愛知県警、交通指導課、〇〇 と言う名詞を持った人が尋ねてきました。
昭和57年初春でした・・・
「明日、あなたの会社の協力整備工場、O自動車整備のO社長と専務を逮捕します。」
容疑は、私文書偽造同行使、その後に、詐欺罪も立件を視野に・・とのことでした。
・・でも・・・・警察の人が、なぜ私のところへ?・・・・
O社長は、ルート豊田が行き詰ってしまったとき、溜まってしまった、支払いを分割でと・・相談に行った社長でした。
結果、助けてくれるどころか、その夜、事務所のものを全部持っていかれてしまいました。
その後、当社は再建に取りかかり、月々とはいえ、順調に支払いは進んでいきました。
間もなくきれいに完済、と言うときに、やっと事務所から持ち出したものを返してくれました。
と同時に、「以前のように、車検などの仕事が欲しい」と言われ、お願いすることにしました。
少しの間は、順調に取引は続きました。
あるときから、納期が遅れだしました。
お願いした車のガソリンが異常に減ってしまっていることが頻繁におきだしました。
走行Kを調べてみると、なんと100キロ以上走っていました。
注意しても、そんなことはありえないと、言い切ります。
今度は、「先払いでしか仕事はしない」と、言って来ました。
「もう取引をやめるしかないな」・・と思っていたとき、県警の刑事さんが来られたのでした。
なぜ?私のところへ?
逮捕が確実となり、「あなたが逮捕されたあと、お母さん、奥さん、子供たちは誰が面倒を見る?」・・と、警察の人が聞いたそうです。
その答えが、なんと、「ルート豊田の、井上さんに頼みます・・」だった、とのことでした。
◎ 私が最悪のとき、O氏は私に何をしてくれた?
◎ 反対に今度はO氏の方が、今、最悪の状態だ!同じ仕打ちを私はしない・・逆に、彼と彼の家族を出来る限り、支援しよう と、即座に決めました。
O氏は、集金したお金を持って、夜な夜な、名古屋の繁華街へ行っていたそうです。
当然、仕事もおろそかになり、資金繰りに詰まってしまったとのことでした。
スタッフは、5~6人いましたが、給料もままならなくなり、通勤のガソリン代も払えなくなっていたようでした。
1番遠い人は、岐阜からでした。その人が、ガソリンが沢山入っていた、当社の車を使ったようでした。
最後は、車検に必要な、重量税・自賠責・証紙代等を先に預かり、使ってしまい、車検をせずのまま返してしまったようです。
フロントガラスに貼るステッカーは、ほかの車のものを再発行。車検証の車検期日は、偽造・・・
(その頃の、車検証の車検期日はゴム印で記載でした。朱肉の陸自印は芋で作って押したそうです)
〇 車検を受けずに、他人のステッカー再交付、車検証偽造が、有印私文書、不実記載同行使なのだそうです。
〇 車検用の諸経費として預かり、他に流用が、詐欺罪にあたるとのことでした。
翌日、O氏と番頭役の専務氏は、逮捕されました。
O氏の自宅近くの、守山署に留置され取調べとなりました。
早速、私は、O氏の奥さんに電話をしました。「出来る限りの支援をする・・と・・」
警察の調べで、車検を取らずに、車検が受かったかのようにして集金だけした車が、100台以上ありました。
残念ながら、当社の車も、3~4台ありました。
弁護士さんから、なんとしても、詐欺罪にはしたくないから、被害者が返金を申し出たら、協力してもらえないだろうか?と要請がありました。
まだまだ弱体の当社でしたが、倒れない限り、と限定付きで引き受けることにしました。
O氏の奥さんには、月に15万円の仕送りをすることになりました。
被害者の返金申し出は、40~50台分、300万~400万だったと記憶しています。
結果詐欺は、まぬがれました。
どうして、私がそこまで支援することにしたか・・・
〇 私の苦しい時にされたこと・・O氏が苦しい時に、私のとる態度・・男の勝負!私の勝ち!!こんなことを密かに思ったこと。
(負けず嫌いの、いい格好し・・のところがありました)
〇 100人以上の人が、信用してしまった!彼は、ほんまものを正直に扱う当社でなら、すごい力が発揮できると思った。
〇 一度失敗してしまった人は、普通の人に比べたら、すごい力を発揮するはず。(自分がそうであったから・・)
〇 今、苦しい中、彼のために出費している金額は、当社の仕事をしてもらいながら、月々返してもらえば、当社としては、業績も上がり、お金もきっと返ってくる。と読んでいた。
〇 何が何でも、月の販売、100台にしたかった。そのために、O氏が必要と思った。
その後O氏は、守山署の取調べが終わり、名古屋拘置所へ移されました。
半年にわたった取調べも終わり、保釈金を用意すれば、拘置所から出られるということで、私に何とかして欲しいと・・弁護士を通じて涙ながらに頼んできました。
まだ当社の、最悪期の借金がやっと終わったか、と言う時、昭和57年の話です。もうすでに能力を超した出費をしてしまっていました。でも、彼の気持ちを思うと・・何とかしてやりたい・・・加えて、当社としても早く、うちで働いて欲しい!
最後の手段、私の母親から、100万借りてきました。
その後の裁判に私も出廷しました。身元引き受けします・・更正は私が責任を持ってさせます、と訴えました。
裁判長の声が今でも忘れられません
O・Y・・・「あなたを・・懲役3年に処す!」 「尚、その刑の執行を、4年間猶予する!」
彼は、すぐ当社に着任しました。
昭和57年10月のことでした。
その年の、12月・・当社は、5台の展示で・・・・悲願の、100台を達成しました。
今だから言えることです。
その後、O氏は何度も問題を起こすことになります。
(O氏本人は、今は全く連絡が取れていません。本人がこのブログを見たときの事を考え、事実を曲げないよう、気を使って書きました)
又、つづきを書きます。