創業当時のルート

事務所の中は、黒い電話機が一つ床にぽつんとおいてあるだけ。

その電話も切られていました。

家賃は半年間支払いが、たまっていました。

 その大家さん、例の整備工場はじめ支払いができていない先、30~40口でした。

まず、大家さんから始まり、出きるかどうかも確かではない、当時としては、夢のような計画を、頭を下げながら話して回りました。

全く入金の当てがない自分は、何を言われても平気、開き直ることが出来ていました。

必ず払うと言う信念だけは持っており、とても強くなっている自分に気がつきました。



 とは言え、なんとしても仕事は再開しなければすべてが始まりません。自分の命もかかっています。

そのためには、まず電話を開通させなければなりません。そして自分には、生きるための食料が必要です。

以前バイトをしてくれていた、大学生(現在は、愛知トヨタで営業所長をしています)に頼んで、10万円一ヶ月の期限付きで、友達から借りてきてもらいました。

お蔭様で、そのお金で電話は開通・・・自分の命の糧、インスタントラーメンも買えました。

当分の間、家内と子供は両実家へ身を寄せることになりました。

古い机と椅子をめぐんでもらって、曲がりながらではありますが、再建のスタート準備ができました。


 債権者も持っていかなかった、古い車2台を、国道から見える位置に並べました。

価格表なるものもなく、水生マジックでガラスに値段を書きました。

6万円と8万円でした。

値段を書いて、じっと待っていました。

国道を通る車からのぞきはしてくれるものの、降りて来てくれる人はありませんでした。

再建スタートから、待つこと、約2週間・・・

一人の若い人が車を止めて降りてきました。

なんと、6万円の車を見てくれているではありませんか・・・

自分は、この人を離してしまったら・・・立ち上がれない・・・「半殺しにしてでも売るぞ!」文字どうり、命を賭けた商談、になりました。

買ってもらいました!!瀬戸に住んでいる人でした。

早速、その売上金のなかから、現金を5万円程持って、ディラーへ仕入れに行きました。

古い車、でも程度が良い車を、2台を仕入れてきました。

こんなスタートを切った、再建、「ルート豊田」は、その月、昭和53年3月・・・7~8台の販売ができました。

当初、借りた10万円は、約束どうり返すことが出来ました。



超、安い車しか仕入れが出来なく、仕方なく始まった超低価格車の販売でしたが、やってるうちに、この価格帯に、充分マーケットがあることに気がつきました。

競争相手は全くなし・・・
利益率は高い・・・(但し利益そのものは少ないですが)
仕入れが楽(同業は誰も扱っていなかった)

半年も経たずに、月に13台くらいまで売れるようになりました。が、忙しすぎて、まず、電話番がなくては、もうこれ以上は望めなくなりました。

9月から・・・(結果、うそになってしまいましたが)・・・名古屋市名東区からバスを乗り継ぎ2時間かかるため、少しの間だけの約束で、電話番を頼むことにしました。その人は、間もなく、勤続30年になる、ユーズネット本部の苅谷部長でした。


留守番が来てくれたことで、その年の暮れには、20台近く売れるようになっていました。

昭和53年12月31日・・・今年中には何とか仕上げたいと、その夜、スズキの軽クーペのエンジンの乗せ替えをしていました。

近くのお寺から、除夜の鐘が「ごーん・・・ごーん」と聞こえてきました。


ジャッキで上げた、車の下で仰向けのまま聞いた、除夜の鐘には、涙が止まりませんでした。

狭い車の下で、泥と油と涙で、くしゃくしゃになって”昭和54年を、何とか、迎えました。


今だから言えることです。

             つづきは、又時間があるときに書きます。


























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