創業当時のルート

私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと、豊田の地を選んで、緑区から出てきました。

昭和51年5月、「ルート豊田」の名前で、国道248沿いの貸し店舗で創業しました。

社名のルートは、流通と言う意味からつけました。

オープン早々、当地の同業者から反対の声があがりました。

反対の理由は・・・

①  個人間売買は、今までの中古車屋の仕入れ価格、売り価格を明らかにしてしまい商売がとてもしにくくなる。

②  豊田で自動車屋を営業するなら、〇〇自動車  〇〇モータースのような名前にしてくれ・・・
    でないと、業界秩序が乱れる。                                                          (豊田の自動車屋さんは、自分の姓、または地名のあとに、自動車・・または、モータースとなっていました)

③  自動車屋は地元で営業するもの・・・だから君は名古屋の緑区で開業すべき。

④  自動車屋は広い土地ですべき、貸し店舗で自動車屋をするなんてもってのほか。業界をなめてはいかん!
    (確かに当時の自動車屋はみな広い土地で営業していました。)


  毎日「ルート豊田」へ来て、私の商売をやめさせようとしました。6人ほどの人たちでした。

困った私は、以前から親しかった、自動車新聞の記者に話しました。(今年の1月に亡くなられた、当時の林記者でした)

なんと、このことを、林記者は全国紙、日刊自動車新聞に、見開き2ページにわたって書きました。

あまりに大きな記事に私のほうがびっくりしました。

これによって、地元の同業者は「ルート豊田」へは、直接来なくなりました。

でも、今度は、日刊自動車新聞に対して、不買運動が起きたと聞きました。

この不買運動は、豊田から愛知県全体に拡げようとされたと聞きましたが、まもなく消えてしまいました。

今度は、この新聞を見た全国の同業者から、「個人間売買」とはどんな仕組みなのか?と電話が殺到しました。

電話だけでなく、毎日のように、訪問を受けてしまいこれまた大変な事態となってしまいました。



でも、これだけ、全国の自動車屋さんに興味を持ってもらっているなら・・・・

この機会に、この「個人間売買」をフランチャイズにして伸ばしていこう・・・・



発想が単純、無計画、ではありましたが・・・

ルートのフランチャイズは、2年で全国、北は、釧路・札幌 南は、徳島、宮崎まで、26店舗に広がりました。

本部である、ルート豊田は、創業からたいした仕事も出来ず・・

私は、創業と同時に、地元との反対対策・・その後、全国からの問い合わせの応対・・その後の全国回り・・・
フランチャイズ店の指導と悪戦苦闘・・


結果・・・負債ばかり積み重なり、昭和53年1月になり、とうとう行き詰ってしまいました。

行き詰まってしまう前の半年間は、毎日、お金に追われ、地獄の思いを味わいました。

何とか打開すべく、協力してもらっていた整備工場の社長に相談に行きましたが、良い話はできず、しょぼしょぼ帰ってきました。

その場に事務所の鍵を忘れてきたことなどは、もうろうとしていた私は気がつきませんでした。

7年ほど前になくなった母親に助けを求めましたが、一銭も出してはくれませんでした。
後でわかったことですが、その時母親は、3、000万円持っていました。

その母親は、「憂きことの、尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことばを紙に書いてくれました。

万事休す、もうなんともならない・・・

すべては終わってしまった。

今晩・・死のう!・妻や子供たちには何とか、生命保険で・・ときめました。

その日、見た、人生最後になるはずの夕日は、大きく真っ赤でした。

夕日をゆっくり見たのは何年か振りでした。

三好の森下交差点からの夕日でした。


その夜、ダイハツ、ハイゼットで矢作川を、死に場所を求めて、登っていきました。

昭和53年1月23日・・・月のとてもきれいな夜でした・・・


今だから言えることです・・・    また、時間をみて、つづきを書こうと思います。










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