屋久島
「お話があります。困っています。コ・子供が産まれるんです。」
予定日は、来年1月、あと5ヶ月とのことです。
昭和54年2月に、募集張り紙を見て、入社してくれた、男性1号スタッフのKクンです。
「社員募集、重労働・低賃金に耐えられる人」と書いた張り紙を見て、入社してきました。
Kクンが私に話したのは、入社して、半年後の朝でした。
「困ることなんか無いじゃないの、おめでとう”じゃない?」
それが、彼女の親には、まだ話してなく、話せば、「すぐ帰って来い”」と、ど叱られる!と、小さくなっていました。
彼女の実家は、鹿児島県の屋久島で、漁業を営んでいるとのことでした。
「よしわかった。俺が一緒に行ってあげるから、彼女と準備をしなさい。」
当時の当社の状況は、くるまを売ることが出来るのは、私だけ・・加えて、多大な借金で、文字どうり「火の車」
の状況でした。
急ぎ準備をし、旅費も何とか工面して、3日後には屋久島の空港に降り立つことが出来ました。
実家は、屋久島の南端、「中間」と言う部落にあり、家の前がすぐ海岸でした。
海側には扉はなく、板縁からあがらせてもらいました。奥に、ござが敷いてありそこに6人用の座卓がおいてありました。
奥側左にお父さん、右にお母さんが座られました。
ゴザに額をすりつけて、まず、監督不行き届きをあやまりました。
Kクンはこれからが期待できる好青年。今後は力を合わせて立派な会社にします。どうか、結婚と豊田での生活を認めてほしい。とお願いしました。
びくびくしながらでしたが、さすがに、娘さんの大きいおなかを前にして、だめとは言われず、すべてを許してもらいました。
その夜は、ゴザの上に布団を敷いてもらい休みました。
直接聞こえる波の音がとてもさわやかに思えました。
その翌日になり台風が接近していることを知りました。今夜、屋久島直撃との予報でした。
とびらのない、あけっぴろげの家に、板を打ちつけたり、家の外のものを片付けたり、台風に備える準備を手伝いました。
その夜、予報どうり台風は直撃でした。早々に停電になりました。
真っ暗な中、荒れ狂う波・・風の音・・雨の音・・とても寝付ける状況ではありませんでした。
翌日の飛行機は欠航になってしまいましたが、何とか役目を果たし、1日遅れで豊田に帰ってきました。
Kクンの結婚式は、急ぎ12月に行われました。
そして、1月か2月に長女が無事誕生しました。
その後Kクンは、岡崎店の店長を最後に退社してしまいました。
岡崎店の業績がいまひとつで、私が厳しい言葉で追い詰めてしまったのが原因だと思います。
もっと、スタッフを思いやる、やさしい指導が出来なかったかと、反省しております。
Kクンの退社から多くを学ばせてもらいました。
あの時の、長女は、今、27歳です。
結婚して、子供さんにも恵まれたと、うわさに聞きました。
Kクンも、今では、いいおじいちゃんになっていることと思います。
今だから言えることでした。