24ページ目   私の販売の原点

地元の大先輩逝く

太田勝美さん

私共と、ご同業であった、

地元の大先輩が亡くなられました。


昭和 8年12月10日

現、豊田市司町で生まれ、

地元で育ち、

地元で商売をし、

地元で悠々自適の生活を送り

76年 9ヶ月の人生を閉じられました。



若い頃、自転車屋さんで自転車修理販売を覚えて独立、

自転車やさんを開業

その後、オートバイ屋さんになり、

そして、自動車の販売会社 (株)太田モータースを設立、

15年前(平成7年)に同社を清算されるまで、

社長として手腕を発揮されました。


葬儀式場で、ナレーションで太田さんの歩まれた人生を聞き、


すごい人だったんだ、と改めて感心いたしました。

時代のうねりをしっかりととらえておられました。

自転車からオートバイ、そして、

自動車販売へ・・・

過ぎ去った過去を語るのは容易です。

でも太田さんの、時代の読みは的確でした。

その上、時代ごとに柔軟に業種転換していかれた行動力は、

すばらしいものがありました。


今、また大変化の時代です。

先輩が現役なら、今の時代をどうとらえ、

そしてどんな行動を起こされたのでしょうか?

聞いてみたい気がします。

先輩太田社長のすごいことは、、、

バブルがはじけて、間もなく、なんと会社を清算してしまわれたことです。

62歳でした。その後は、好きなゴルフと好きな酒という、

悠々自適の人生を送っておられました。

会社は息子さんが、新会社を作ってお客様を引き継ぎ、

現在に至っておられます。

私にはとてもまねは出来ません。

でも太田先輩社長から、

多くを学ばせていただきました。





私が、豊田で創業したのは、今から34年前でした。

国道248号線沿いの、貸し店舗で開店しました。

15坪の事務所と4~5台の展示スペースのみでした。

南となり 約 300メートル先に 先輩の会社(株)太田モータースはありました。

500~600坪の敷地に、展示場と事務所、工場がありました。

当社との比較は、さしずめ、戦艦大和といかだ舟でした。



当社の創業から数年経過した頃、、、

ある夜のお店で、従業員と3人ですっかり出来上がっている

太田社長とぱったり出くわしました。

私を見つけ、いきなりです・・・

「おいっ!井上っ!」

「よそ者がおおきい顔するなよぉ!」

「挨拶がおそいっ!」

「お前なぁ、豊田では新参者だろう・・」

「新参者は、新参者の態度を取れ!」

「新参者には、俺が教えてやる”」

いきなり、私の胸ぐらをつかんできました。

気の短かった私ですが、

酔っ払い社長と、もみ合う気にもなりません。

すぐその店を出てしまいました。


自分は、この豊田の町では、

よそ者・・・

新参者・・・


いくら酔っ払っておられたとはいえ、

私に対して心のどこかにあった事を教えてくれたのだ。

それ以来、

よそから来て、この町で商売をさせていただいている、「よそ者だ」

豊田の町では、まだ数年の「新参者だ」と、、

自分に言い聞かせ、挨拶は、常に先に、、、態度は低く、、、

を徹するようにしました。

その数年後に、住民票を豊田市に移しました。

やっと、晴れて豊田市の住民になることが出来ました。


酔っていなければ言ってもらえなかったことだとは思いますが、

私を厳しく戒めてくれた、先輩の一言、二言でした。


会社を清算されてから、ゴルフ場でお会いすることがありました。

まさしく、先輩が子飼いの後輩を気遣ってくれるような感じで、

「ひさしぶりだなぁー、井上君 頑張っとるかぁ、」と声をかけてくださいました。

いい感じで年を重ねておられるなーと、私は思っておりました。



2年前になくなられた、

八重子奥様のいる天国へ

急いで行かれたようです。

好きなように生き、

好きなように逝かれた

太田先輩の人生、

ドラマよりすばらしいと、

思いました。


           合掌










長者町繊維問屋街



今日の昼です。

名古屋、錦3丁目で約束があり、昼食も一緒にということで行って来ました。

豊田の人たちも、夜、、よく行くよ、と話には聞いていた、、、

かの有名な町・・・錦三(きんさん)です。

蕎麦屋さんへ食事に行ったのは、昼の12時頃でしたが思いのほかすいていました。

昼だけでなく、夜もひと時の賑わいは無いと同行の人が言っていました。


我々の、若かった頃は、名古屋の盛り場と言えば・・・女子大小路だったんですが、

でも、私達の先輩達は・・・今池だったと言います。

盛り場は、時代とともに、20年~25年で移動するんだと納得しました。

とすると、次なる時代、名古屋の盛り場はどこかに移る、今が前兆?

と、勝手に思いながら、錦三丁目一方通行の道を西へ行くと、


次の道はなんと懐かしい・・・
長者町繊維問屋街でした。


今から、35年ほど前の数年間

長者町近くの錦通り北側で、

喫茶「タヒチ」と言う、60席ほどの当時としては、きれいな明るい喫茶店を経営していました。

昼は近所のオフィスから、イッパイ女性が来てくれて並んでいたものでした。

他の時間は、長者町の繊維問屋さんの商談でいつも賑わっていました。

でも責任者の支配人であった私の弟にとっては、初めての仕事でしたので苦労したと思います。

このお店「タヒチ」は、私が豊田で仕事(ルート)をするようになって顔も出せなくなり、

残念ながら手放すことになってしまいました。


「懐かしいなー!」と昔を思い出しながら・・・・

一枚写真を撮ってきました。

古い話なので、今いる私の周囲の人たちでも、、、、

「タヒチ」の話を知っている人は、極わずかと思います。

過ぎ去った、古い、古いお話ですから・・・・・


出会いと別れ・・パートⅢ

昭和48年正月を過ぎてすぐだったと思います。

戦略的で、とても前向きな組織再編であったにもかかわらず、

社長から、営業部長への降格に腹を立てた私は、

せっかく苦労して立ち上げてきた会社を辞任、退社をしてしまいました。

次のあてがあっての退社ではなかったので、当然収入がなくなりました。

ものすごく忙しかった毎日から、一気に時間が出来てしまいました。

生活費を稼ぐ為に、パチンコのプロにくっついて、パチンコのセミプロを始めました。

毎月、8万円ほど稼げましたので、私の年齢の平均給与ほどは何とか得ることが出来ました。


世の中が私をほっておくはずがない・・・

必ずどこかから「是非、井上を」と、声がかかるはずだと信じていました。

だから、お願いして、自分を売りに行くような、就職活動は一切しませんでした。

今思えば、車の販売に対して、無謀なほど、過剰な自信を持っていたのでした。

パチンコを始めて、3~4ヶ月経った頃、

某Dマークのディーラーから声がかかりました。

子会社を作り、Dマークを表に出さない、中古車販売会社を立ち上げて欲しいというものでした。

Dディラーの子会社を設立し、私は取締役営業部長に就任しました。

名古屋インター近くで、私の率いる、株式会社「くるま街」と言う中古車販売店がスタッフ6名でオープンしたのは、

48年10月でした。

数ヶ月でスタッフ集めも企画もすべてをこなしました。

オープン翌月、さあこれからと言う時、第一次オイルショックが襲って来ました。

ガソリンが世の中から消えてしまったのです。

車が売れるどころではありませんでした。車が動けなくなってしまったのです。

あの時の、くるまが全く売れなくなった経験は、

今回の、リーマンショック・トヨタショックの比ではなかったと思います。

親会社からは、こんな時代になってしまったのだから、

展示車は親会社の扱う軽自動車にすべきと、きつく指導が入りました。

でも私は、一気に価格が落ちて安くなった、高級普通車にすべきと対立してしまいました。

親会社の意向を無視して展示場一杯に高級普通車を買って並べはしたものの、

もし私の読みが間違っていたら、と、不安な思いで、、年を越すことになりました。

年が明け、昭和49年になり、高値のままではありましたが、ガソリンが一気に出回りだしました。

そして、資源高から今まで味わったことのないインフレの世の中になりました。

新車の値上げが相つぎ、つれて中古車も値段が毎日のように上がりました。

上がってもあがっても、新車との価格差で、高級中古車はとぶように売れました。

売れて売れて、利益もびっくりするほど上がりました。

でも残念ながら、本社の幹部からは、反逆児として常に、にらまれる存在になってしまいました。


自分達の努力でなく、たまたま訪れたインフレが追い風となっていただけでしたが、

店と私個人の知名度が上がりました。そして順調以上に販売数字もあがりました。


オープンから2年少しが経ちました。

昭和51年の正月の休みに、7人ほどのスタッフとハワイへ行ってきました。

帰ってきて仕事始めの最初の日でした。

緊急役員会開催とのことで、本社の役員室に呼ばれました。

その役員会は私を解雇する為のものでした。

株式会社くるま街 取締役営業部長 井上 政彦を解雇する決定が申し渡されました。

理由、、その一 本社に連絡せず、海外旅行に行った件・・・・

     その二 事務所内及び書類監査をして不正を見つけ、後日連絡・・・ 
           と言うものでした。
           (徹底的な監査が行われたようですが、
                   後日連絡はありませんでした)


せっかく軌道に乗った、(株)「くるま街」の取締役を解雇となり、

やむなく豊田へ来ました。

そして小さな自動車屋さんをはじめることになりました。

当時の国民金融金庫にて、500万円借りて、

国道248沿いの貸し店舗で「ルート豊田」を個人経営で創業しました。

昭和51年5月でした。後に(株)ルートとなり現在に至っています。



今から、10年位前まで、創業してから、23年ほどの間は、、

Dマークの新車は、過去の、逆恨みで、販売を一切お断りしておりました。

でも時代は移り、Dメーカーは、トヨタの子会社となり、

お客様がDマークの車を指名してこられるようになって来ました。

Dマークの車を欲しいのだが・・・と言われるお客様に、無理にSのマークの車をお奨めしておりました。

豊田の街ではDマークの車を扱わないことは、とても大きなハンディーとなっていました。

あるとき、思い切って決断しました。Dマークの車も扱おう・・・

扱う以上は、豊田市で、一番のDマークの代理店になろうと決めました。

Dマークの代理店で、豊田で一番になるのに約3年を要しました。

今では、ユーズネットグループは、豊田市においてはダントツの一番で、

二位の代理店会社との差は、5倍ほどになっていると思います。



豊田市で一番になって間もなくでした、、、

私に解雇を申し渡した、Dマークのディーラーの社長(今は会長でおられます)から、、、

和合ゴルフ場でのゴルフに誘われました。

このゴルフを機会に、わだかまりは一切なくなりました。

愚かにも、自分の非を認め、反省するのに、25年を要してしまいました。

気付きが遅れたことにより、25年遠回りをしてしまいました。




私も立場が変わり、私のもとに複数のグループ会社が出来ました。

あの当時、営業成績が良かったのは、すべて自分の能力と努力の結果だと思い込んでいました。

私は、親会社の大きな器の中で、能力を発揮させてもらう機会を与えてもらっていたのだ、

なのに自分は、「俺が・・俺が」で、すべて自分の力でやったのだと、思っていた、

と、言うことが痛いほどわかりました。

今では、解雇される前の、私の傲慢さの反省と、

ハワイへ行く前に、本社に報告、連絡、相談をしなかったことに対して猛烈に反省をしております。

あの時の親会社の社長が、私を解雇したのは経営者として至極当然だったと思っています。

今、ユーズネットグループで同じようなことが行われれば、私は激怒すると思います。



当時の親会社の社長はきっとこう思っておられると思います。

つらい思いで、解雇した子供のような部下が、外へ出て、豊田市で頭角を現してきた。

「よくやってくれた、あの臨時役員会で、自分がとった決断と行動は間違っていなかった」と。

毎年、新年に有名ホテルで開かれる、全国のDマークの代理展会では、

笑顔で、「おう、、井上君、、元気でやってるな!!」と声をかけてもらっています。


あの時、思い切って、解雇と言う方法で、私を外に出してくれた親会社の社長に対して、、、
 
今は、感謝こそすれ、恨みは一切ありません。


その感謝の心で、Dマークの車を、扱って、、、 

豊田で一番沢山のお客様から、感謝される、ユーズネットグループにならせてもらいました。

これからも、「お蔭様で」と言う謙虚な心で、

もっと、もっと多くのお客様に喜んでもらいたいと、今は願っています。






























出会いと別れ・・パートⅡ

私は、過去に役員をしていた会社から、

出たこと・出されたことが2回あります。

私の人生の大きな屈折点、通過点、として記憶に刻まれております。



2年程勤務した、カローラ愛豊を退社して、お客さんであった自動車部品会社の専務さんの勧めがあって、

その部品会社の子会社として中古車販売会社の代表取締役社長になりました。26歳でした。

カローラ愛豊を退社する時は、強く引き止められましたが夢を達成すべく、振り切って退社しました。


その1・・・

設立時、若干26歳の私が率いる中古車販売会社でしたが、どんどん成長して、

間もなく愛知県ではトップクラスの販売台数になっていました。

車検工場を作り、板金工場を吸収して、

5年後には従業員も35名以上の会社に成長しました。

急成長過ぎた為、組織がしっかりしておらず、外部から見ても不安定さは、歴然としていたと思います。

そこで、親会社は、組織を強固にして将来に備えることと、対外的に信用度を増すことを目的として、

親会社の専務が社長に、私を取締役営業部長にと言う人事を決定しました。

今思えばすばらしい戦略的判断だったと思いますが、若かった私は、社長から部長への降格と言うことのみを見て、

会社の全体や将来を見ずに、頭へ来てしまい、辞任、退社してしまいました。

今から36年前のことで、私は31歳でした。


自動車部品販売の親会社は、10年以上前から、

日本一の自動車部品販売会社として毎年すばらしい業績を出しておられます。

少し年月が経ってから、遅ればせですが・・・

この親会社の当時の専務から学んだことがすばらしいことばかりだったことに気がつきました。

その当時学んだことを、今でも経営に多く生かしております。

現在、ユーズネットグループの自動車部品仕入れの90%以上はこの部品会社からのものです。

今は息子さんが社長になっておられ、ご本人は相談役としてまだまだ元気にしておられます。


私の浅い考えで、一方的に不義理をしてしまった過去ではありましたが、

10年少し前のこと、相談役は、私をハワイのゴルフに招待して下さいました。

とてつもない器の大きさを実感させられました。

その後、今でも私が名古屋の本社へ立ち寄ると、

「井上君はうどんが好きだから」と、夏でも、鍋焼きうどんを取ってご馳走して下さる・・・

と言う親しい関係を続けさせてもらっています。



今だから言えることですが、

「良い出会いと別れ」を経験させてもらいました。
















私の販売の原点、ありがとうございました。

間もなく退社と言う日に、、

初めて知った、仲間達の、喫茶店での、たむろ・・・

みんなが集まって、愚痴を言い合い、なめあって、

結果、業績が良くなるはずもありません。

「弱い人は、群れたがる」

と言うことを発見しました。

その後の人生で、群れたがる人で、成功した人を知りません。


自分の目標に対して挑戦し続ける。

常に、他人を見て競争していると、勝ちたい為に、相手が弱くなることを期待してしまいます。

これでは、自分の成長にはつながりません。

自分の立てた、自分の目標に、強い意識で挑戦する。


「他人との比較に明け暮れない!」

「自分の目標に挑戦する!!」



旅行するのに目的地を決めずに出発する人はいません。

期間と、行き先、目的などを決めて、

事前にしっかり準備をしてからから出発します。

仕事を進めるに当たっても、、

自分で目標を決め、期間を定め、準備をして行動を起こしたいと思います。

自分の目標を、期間の途中で忘れてしまうなどは・・・

旅行中に目的地を忘れてしまうようなもの。

達成するまで、目標から目を離さない!!



目標は必ず紙に書く。

目標を決めたら紙に書き、よく見える複数の場所に貼る。

目標に対して絶対やるぞと意識を強く持つ、、

目標に対して強く意識を持っても、日にちと共に達成意欲が薄らいでしまいます。

目に付くところ、あちこちに目標が書かれていれば、3日坊主には絶対ないはずです。

目標は紙に書いて貼る・・・

これをするしないは、天と地の差になる。



若年寄がなんと多いことか・・・

年を重ねると、肌・髪の毛・に変化が当然出てきます。

これだけでは、人が老いたとは言わないです!

人が老いるとは、夢・理想・情熱を失った時、老いたと言うのです。

20歳代・30歳代の人で、肌、髪の毛のみ元気で、、、

夢・理想・情熱を失った、若年寄がなんと多いことか・・・

もったいないことです。

「青春とは、人生のある期間でなく、心の持ち方を言う。」
(青春と言う名の詩、、サムエル・ウルマンより)


原因のないところに、結果は生まれない!!

並以下の努力では、並以下になり・・

並の努力すれば、並みの結果となる・・

人より抜きん出た結果を求めるならば、抜きん出た努力が必要である・・


人がダメだと思うような、難局に当たった時は、

今最優先で何をなすべきか?

どうしたら出来るか?

どんな方法があるのか?


人より抜きん出た、意識が行動を生む。。。。



自社の商品に、絶対の自信ながなくては、仕事にはならないです。

商品に自信とは、商品がお客さんのためになると信じることから生まれます。

営業成績は、いかに多くのお客さんに、自社の商品で喜んでもらうか?であります。

営業の仕事は・・・

喜んでもらえる人を多く作ることです。

どんどん、その喜びの輪を拡げて、自分の夢を達成していきたいものです。


お客さんに対して、〇 〇 を売って業績を上げようと、先に思わないことだと思います。

先に自分とか自社のことを思わない。

先ずこのお客さんに、自分が今何をしてあげれるか?

何をしたら喜んでいただけるか?これが大切だと思います。


車に対してなら、、、、

ちょっと窓を拭いてあげる・・

灰皿をきれいにして差し上げる・・

足元のマットの砂を払って差し上げる・・

まだまだ、沢山あります。

笑顔でするこんな些細なことがお客さんの期待を越すことになります。


100万円の車の商談で、、1万円は、、1%でしかありません。

「いらっしゃいませ」の、言葉だけしか期待していないお客さんに、、

フロントガラスの掃除だけでも、、期待の数倍にもなります。

「まず先にお客さんに、何かをして差し上げることはないか?」

常にこのことを思っていると、仕事がしやすくなります。

売ろう!売ろう!はやめましょう。

「何か自分が、お客さんの役に立てないか?」

小さな行動が、お客さんの期待値を、何倍も越すことができます。


小さなことから、

「お客さんに貸し作ろう!」(貢献先行です)

貸しは、何倍にもなって必ず返ってきます。



私の歩んだ道をお話しさせていただきました。

今の厳しい時代の販売の原点を見つめ直してもらえたら幸いと思い、

古い時代で恐縮でしたが思い出すまま書かせてもらいました。

時代の違いから、参考にはならない点も多々あったかと思いますが、

一部でも参考になったと言っていただけたら幸いです。

私の人生の、ひと時、25歳までを書かせていただきましたが、、

又、いつの日にか、その後を書かせていただくことがあろうかと思います。

その節はよろしくお願い申し上げます。


私の販売の原点

これで、ひとまず終わらせていただきます。

ありがとうございました。












原因のない結果はない!!

カローラ愛豊を、25歳と11ヶ月の7月末日で退社して、

新しく設立する、中古車販売会社の社長に就任することになりました。


最後の1ヶ月間は、お世話になった、お客さんへの挨拶と、引継ぎを行いました。

後、1週間と言う頃にはほとんどの引継ぎを終えることが出来ました。

ある日の朝、後任の野村君と会社を出てすぐでした。

ちょっと珈琲でもと言って、近くの喫茶店に入りました。



入ってびっくり、、

同じ「係りの仲間」ほぼ全員が、くつろいでゆっくり会話を楽しんでいるではありませんか。

仲間からすれば、私は、別格扱いで、一度も誘われなかったのだと思いました。



もっと驚いたのは、、

夕方はみんな、疲れた顔をして、5時半から6時頃に会社へ帰っておりました。

が、4時半から5時頃には、朝とはちがう喫茶店に集まっていたことでした。

かたまって帰ると疑われるからなんでしょう、最初に帰る人から、最後に帰る人まで、

30分ほどの時差を儲けておりました。そしておのおの疲れた顔をして・・・



全く白々しい!!!!

会話の内容は、、、

お決まりの、愚痴と会社批判ばかり・・・

気持ちが落ち込んで苦しければ、一人で苦しめばよい・・

苦しんで、苦しんでどうにもならないところから、反動的に力がわいてくるものだと思います。

あんな「なめあい」なんかしていて、業績があがるはずがないし、自分達の成長もおぼつかない!

疲れて・・頭の切り替えに・・お客さんとの商談に・・何かを整理するために等、、

喫茶店を利用するなら一人で行けばよいと思いました。

こんな仕事ぶりのみんなを、待っていた、上司がかわいそうに思われました。




「原因のない結果はない!!」

仲間同士、愚痴を言い合い、会社批判に明け暮れて・・

良い結果が出るはずがありません。



仕事をする仲間としては、あの時、とても幻滅を感じてしまいました。

でも、友達として付き合えば非常に良い人ばかりでした。

あれから、42年が過ぎ、途中退社せずとも、全員定年を迎えております。

すでに、時効と判断して書かせてもらいました。


私の販売の原点

又続き書きます。


鬼瓦(鬼所長)のひとこと・・

昭和42年5月2日・・ゴールデンウィークのなか日でした。

いつもの喫茶店で、軽い昼食を取っていました。

「今朝、白馬岳で、名古屋市職員山岳会の、メンバーが足を滑らせ、700メートル滑落・・

現在捜索中!外山林生 24歳・・」ラジオから聞こえてきました。

そのニュースを聞いて、私は全身から、血の気が引いていくのがわかるほどでした。


この外山林生(とやましげお)君は、高校時代から、いつも山へ一緒に行っていた、親友でした。

同じ高校を出て、彼は名古屋市の職員になり、私と同じ、夜間の大学も一緒でした。

この度、山へ行く前、私のところへ、アイゼン(雪/氷の時靴につける金具)を借りに来ました。

冗談に、「自分は死んでも、アイゼンだけは返してくれヨナ”」と言って貸しました。


ラジオを聴いて、仕事は手につかず、いてもたってもいられなくなってしまいました。

すぐ会社に帰り、例の鬼瓦所長に理由を話し、今からすぐ白馬へ行きたい旨了解を求めました。

その時の、鬼瓦所長の言葉は、私にとって終生忘れられないものになりました。


「井上君が行けば、友達は、助かるのか?」 「今から飛んで行くのは、君の気休めでしかない!」

結果は、、、仕事中は行ってはだめ、と言うものでした。



翌日からの3連休を利用して、その日の夜徹夜で、走っていきました。

朝、白馬の麓へたどり着いて、変わり果てた遺体との対面になってしまいました。

現地ですぐ火葬となりました。

彼をのんだ「白馬岳」の麓は桜が満開でした。

真っ青な空に、残雪の白馬岳がまぶしく光っておりました。



彼を天に運んだ、だびの「けむり」に向かって・・・・

我々、山の仲間で唄った、あの「雪山賛歌」


山よ、さよなら、

ごきげんよろしゅう

又来る時にも、

笑っておくれ・・・・


山の仲間みんな、、涙でくしゃくしゃでした。

その、外山君を、私の、2歳年下の妹が好きでした。(この妹は、10年ほど前に脊椎癌で亡くなりました)

少し前、兄の私に、キュウピット役を頼んできたので引き受けておりました。

そのことを伝える前に、彼は、帰らぬ人となってしまいました。


その日以来、弔いのつもりと、寂しさから、山をやめました。

再開したのは、あれから、16年経ってからのことです。



「井上君が行けば友達は助かるのか?」

あの、鬼瓦所長の言葉を、今も忘れられません。




時には鬼になって、

情に流されない・・

冷静な判断が部下を育てる。


「悔しかったら、注文書を束にして俺を、殴ってみろ!」

「700メートル滑落、井上君が行けば、助かるのか?」


鬼瓦、大野 芳春所長・・ 

定年後、平成になってから間もなく、病気でお亡くなりになったとうかがいました。


私の販売の原点

又続き書きます。








高原列車は行く・・

お相撲さんの世界では・・・

高見盛は自分を奮い立たせるため、、立会いの前に独特の、しぐさをします。

横綱 朝青龍は、勝ったあと、独特の態度で、「どうだい・・」と言うしぐさをします。



セールス時代、私はいつも孤独に感じていました。

お相撲さんのように、お客さんの前で、自分を奮い立たせるような行動を取るわけにはまいりません。

車を買ってもらって、お客さんの前で、「どうだい!」なんてことも出来ません。

車が売れた日、会社へ帰ってうれしさを顔に出さないように、

さらっとした顔をするように心がけていました。

「どうだい!」なんて顔は絶対にしないようにしていました。

「係り6人」の目標が達成できた時だけ、喜びを表すように気を使っていました。

成績が上がれば上がるほど、周囲には気を使っていました。

スタンドにいたときに、いやと言うほどえらそうな態度のセールスを見ていたからです。

営業事務の女性、電話交換台の女性、登録事務の人たち、車両配車の人たち、サービススタッフたち、、、

「〇 〇 さんいつもありがとう」を、口癖のように言っていました。

だから、みんな、私を応援してくれました。

セールスが売って稼いで、お前達を食わせているかの態度をとっている人がいました。

そんな人には、「自分で全部やってみろ!」「きっと一台も売れなくなるわ!!」と言ってやりたかったです。




難しい商談に向かう時、

車を降りてから、右手の親指を折って他の4本の指でしっかり握り、

肘を90°に曲げ強く振り下ろす。これを繰り返して、自分を奮い立たせておりました。



難しい商談が決まった時、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。

その商談の帰り、車のなかで、

「高原列車は行く」と言う歌を、目イッパイの声で唄っていました。



汽車の窓から ハンケチ振れば

牧場の乙女が花束投げる

明るい青空 白樺林

山越え 谷越え はるばると

ら・ら・ら・ らららら・ら・ら・ 音符

高原列車は らららら・ 行くよ 
 音符


その日以来、車が売れると、必ずこの「高原列車は行く」を高らかに歌って帰りました。

この歌を、目イッパイの大声で歌う快感が味わいたくて・・・

「よぉーし」、この商談の帰りは絶対「高原列車」を唄うぞと気合を入れたものでした。


売れたら「高原列車」を唄わせてもらえる・・・売れないときは唄わない・・

で、この「高原列車」を、自分へのご褒美にしていました。



月が変わると、新しい月の目標を、大きく墨で書き、自宅に貼っていました。

別に、トイレ、車の中、机の引き出し等、いつも目に付く場所に書いて貼っておりました。

目標を達成して、次の目標を書くのがとても楽しかったです。




「自分ひとりでは何も出来ない」

周囲のスタッフに感謝を・・

自分にもご褒美を!



私の販売の原点

又続き書きます。








理由ではめしは食えない!!


会社から与えられる目標は・・・
自分に対する「最低評価達成義務数字」である。

本当の目標は自分自身が作るものであって、
自分自身との固い約束でなくてはならない。




会社から割り当てられた目標が高すぎると不満を言っている人があります。

自分が思っていたより目標が高ければ、会社は自分を、より高く評価してくれているのであって、

自分を高く評価してもらって、不満を言うのはおかしいのであります。




私がカローラ愛豊のセールスだった時です。

全社のセールス、1人当たり平均 4台でしたが、

私達の「係り」6人の目標は、少し高く1人当たり、5台で30台でした。

私の目標は、8台しかもらえませんでした。

この8台は私にとって非常に低い数字で不満でしたが、

「係り」の目標30台からすると、私の目標を15台にした場合、

他の人の目標が、1人3台になってしまいます。

私の目標ではなく、達成義務と考えればよいわけでした。

自分は目標を、13台とか15台にして達成しておりました。

目標は、自分との約束です。出来なかっても誰も文句は言いません。

自分との約束が守れなかったことで素直に反省出来、すぐに、次はどうしようか、が見つかります。

9時出勤の人は、なんとしても、9時までに出勤しようとします。

要するに、9時に出勤しようとするかどうかが大切だと思います。


会社の決まりは、9時だけど、私は、なんとしても、30分前には出勤しよう。

逆に、9時には出社したいけど、何か理由があれば、仕方がない・・こんな人はよく遅刻すると思います。

これと同じで、「なんとしても、やるぞ!」と自分と硬い硬い約束をしなければなりません。

会社から与えられた目標と自分の目標と一致した場合は、数字は同じでも・・・

約束の相手は、会社とではなく、自分とであるべきだと思っています。

9時には出社しなさい、が、会社から与えられた目標、「最低評価達成義務数字」なのです。

30分前に出社するぞ・・これが本来の、目標だと思います。



会社から与えられた、目標が達成できず(やらなければならない~やりたいなぁー に勝手に変えて)・・・

結果達成できず・・出来ない理由を、探し出し、たらたらと述べる人がいます。

最近・・そんな人が多くなったような気がします。


   

「理由では、めしは食えない!!」

「理由を述べても、自分の成長にはつながらない!!」

「理由は、評論家に任せろ!!」

「理由を考えている暇があったら、やれる方法を探せ!!」



私の販売の原点

続き又書きます。





自分から学ぶしかない。

セールスになって、半年くらいまでは、先輩や上司がいろいろ教えてくれました。

商談の進め方など、悩んでしまうこともありました。

商談の過程では、きっとこのお客さんは、買って下さるだろう感じがしていても、

結果決まらなかったりがあり、自分では「なぜ?」「どうして?」がつかめませんでした。

上司・先輩に商談経過・状況を話して教えてもらおうとしても・・・

「井上君で売れなかったら、誰が商談しても売れないよ、自分は教える立場にない”」

つれなく言われてしまいます。「でもあのお客さんは、商談の進め方では、きっと買ってくださったはず」

「もったいないことをしてしまった。何かがいけなかったんだ・・」



悩んだ挙句、小型のテープレコーダーをかばんの中にしのばせ、商談をテープにとることにしました。

その頃、小牧から朝、1時間半以上かけて通勤していましたので、テープをじっくり聞くことが出来ました。

いろんな商談を何度も聞いていて、ほぼ購入を決められたお客さんからは、必ずと言うくらいに、

「買わせてください」と言うサインが出ていることを発見しました。

それとわからず、今までは商談の最終段階で、念には念を入れて、

商品・支払い方法などを、説明していたのでした。 これは、自己満足でしかありませんでした。



お客さんの「決めようかな」と言う決断、意志決定と、売る側のリズムがあっていなかったのでした。

結果、お客さんから、「ありがとう、良くわかった。検討して後日また連絡するよ・・」と言われてしまっていました。

そして後日、連絡すると、「やっぱり、今回は止めておくよ」「イヤー悪かった、他社で決めたよ・・」

となることが多かったです。

このリズムが良くわかり、商談進行の方法を改善して、商談決定率が格段に上がりました。

自分の商談から、自分が学ぶことが出来たのでした。



それ以来、私の商談は、、、

ピッチャー(お客さん)の投げる変化球・剛速球がバッターの私にとって、、

あたかも、止まっているかのように、良く見えるようになりました。


商談決定率(打率)が上がって、

いっそう安定して販売台数を上げることができるようになりました。



私は通勤する車の中で、いつも・・・

   自分の商談テープを聞くか、

   軍歌を聞いて(歌って)おりました。




反省のないところに・・

成長はない!!

反省があれば・・

自分自身から学ぶこともできる!!




私の販売の原点

続き又書きます。


40年かかっても答えは出ません。


トヨタカローラ愛豊、今思えば、すばらしい会社だったと思います。

退社して、40年になりますが、やめて今の道を選んだ方が良かったのか?

未だに、答えは、はっきりと出ておりません。

両方の道を、歩むことは出来ないからです。



少なくとも、退社して、20年くらいは、、

生活と言う面では、はっきりと、やめなかったら良かったと悔やむ日ばかりでした。

男性で定年まで勤めず、やめて職を変えた人は7割くらいはいるんではないかと推測できます。

人それぞれ価値観がちがいますから、一概には言えませんが、、

少なくとも、中途退職した人の中で、カローラ愛豊及び、愛知トヨタグループを辞めて、

独立して新しく商売を始めた人で・・・

心のそこから良かったと、思っておられるだろう人にはついぞ、お会いした事がありません。

大きな組織は、大きな組織なりに、バックがしっかりしていてやりがいがあります。

外に出て、自分で商売を始めて、頑張った末、どんどん組織が大きくなれば、

その組織は「俺一人のものではなくなります」

俺の好き勝手は出来なくなるし、してはナリマセン。




過去に会社を辞めて、車販売の商売を始めた人は、沢山おられます。

でも、前の会社を辞めてよかったと言える人は、、

数百人に一人、いや数千人に一人なのです。




私自身が、はっきりと、今のほうが良いと思えるようになったのは、

最近になって、「自分は、今でも仕事上の夢を楽しんで描いている、

これは、ユーズネットグループがあるからなんだ!」と思うようになってからです。

と言うことは、ここに至るまでに、40年必要だったと言うことです。



私が、もう一度、カローラ愛豊のセールスマンにタイムスリップしたなら、、、、

いやな上司でも、ひと時冷や飯を食べさせられようと、辛抱して頑張れると思います。

その後に、自分が外で味わった苦労と比較すれば、たやすく耐えられます。

たかだか、ひとりの上司の為に、自分の一度しかない人生を・・

危険な目にさらすことは避けると思います。



大きな夢と、大志があって、会社を辞めようと思った時は、お世話になった組織に、最大限配慮して、

堂々と、スピンアウトしたいものです。

退社した後々も、元の会社、スタッフから、協力が得られる関係でありたいと思います。



そして、後輩達から、◎◎さんは、過去うちの会社にいた先輩です。

と胸を張っていってもらえるような人間になりたいものです。




私自身は、「思い切って退社して、今の道を歩んで来てよかったなぁ」と、

こころから思い、堂々と言えるような人生にしたいと今も願いながら仕事をしています。



自分だけで出来ていると思うな!!

組織の中で、生かされている自分を知れ!!




私の販売の原点

また続き書きます。






上司の態度で部下の人生がかわる。

お客さんのため・・・会社のため・・・自分のため・で頑張ってきた毎日でしたが、、

自分の頑張りが、嫌いな係長の、成果・手柄になるのは許せませんでした。

すっかり、気力をなくしてしまった私は、この先のことを考えていました。

このままですと、この会社で、係長ー課長と役職が上がっていきます。

今、自分の上司である係長を見ていて、とてもあの地位になりたいとは思えません。

でも、今の会社の仕組みからすれば、かならず係長と言う地位を通らなければなりません。




忘れていた、「自分は自動車屋になりたい!」・・が、また目覚めてきました。

この程度でしたから、熱く、熱く、「自動車屋になりたい!」と夢見て、、

車の販売を頑張ったわけではありませんでした。

たまたま、目標が出来て、それを達成したい!!の繰り返しをしていたのでした。

新車のセールスになり、間もなく2年になろうかと言う夏のはじめ・・

今の販売実績が、嫌いな係長の実績にもなってしまうことに耐えられない。

社内で、将来の夢はなくなり、自分の目標もなく、すっかり、やりがいがなくなってしまいました。




住吉町のクラブ「ココボ」で、トヨタ自販の中古車部、功刀(クヌギ)と言う次長と親しくなり、

くるま先進国アメリカの中古車事情の、話を聞かせてもらう機会が良くありました。

その話の中で、近い将来、欧米並みに中古車の販売台数が伸びて、

新車の台数を越すほどの「中古車時代」がやってくると確信が持てました。





間もなく、「独立して中古車会社を経営したい」と言う方向に夢を、描き出しました。

そんな話を、例の「競馬の専務」と話していたら、、、、

井上君が社長になって、中古車会社を一緒に経営しようではないかと言う話が出ました。

いい話だとは思いましたが、資本金になるわずかなお金も自分にはなく、口を濁しておりました。





そんな話が出てから、間もなくのある日・・・

鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。

翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。

車も大きく痛んでしまいました。

幸いにも首の痛いのは、1週間~10日ほどで収まりました。

相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。





「今だ!今しかない!!” 」


その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。

私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。


新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。

あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、

トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。

何度も何度も、専務や部長が引止めるのを振り切って・・・





名古屋市瑞穂区山下通り 

   株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦

この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。

私が、26歳になったばかりの時でした。

私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。

嫌いだったあの係長を「反面教師」とさせてもらったことはいうまでもありません。 


上に立つ者の・・

俺が”俺が”の態度で、、

部下が離れる!!



私の販売の原点

続き又書きます。





















2024

11

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

最新記事

カテゴリー

アーカイブ

ハッシュタグ