自己紹介:株式会社ルート くるまのユーズネット 会長 井上政彦

新車・中古車の販売を中心とする株式会社ルート くるまのユーズネット

創業者、会長 井上政彦です。

以下、あらためて自己紹介をさせていただきます。



私は、昭和17年8月、名古屋市緑区に生まれました。

家は、緑区 有松で、絞り加工請負業を営んでいました。

幼い頃から、「自動車屋になりたい」という夢がありました。

家が貧しかったため、高校を卒業してすぐ就職することにしました。

受験したのは、日本交通公社(現、JTB)と愛知トヨタ。

学校の規則により、たまたま合格通知が早くきた愛知トヨタに

勤めることになりました。

両方合格しましたが、もし日本交通公社の方が早く通知がきていたら、

私の人生は違ったものになっていたはずです。




私のブログにメニューボタンをつけて、読み手にわかりやすくしよう

ということになり、メニューの1つである自己紹介を書くことになりました。




以下、自己紹介を、「私の販売の原点」というカテゴリーで

書き溜めたものから抜粋します。

抜粋記事にはリンクを貼りますので、ご興味がありましたら

続きをご覧下さい。

緑の文字だけを追っていただきますと、年譜としてご覧いただけます。





●昭和26年-----初めての販売体験-----

「販売の天才と言われ・・・」


私の人生で初めて物を売ったという経験は・・・

小学校の4年生の時です。

親の商売がうまくいかず、とても貧乏だった私は、、

鉛筆、消しゴムを買うお金も親からはもらえませんでした。

道路、ゴミ捨て場、空き地、ありとあらゆる場所から

鉄くずを拾ってきては、当時の鉄くずやさんへ売りに行っておりました。




●昭和36年-----愛知トヨタに就職-----

「自動車屋になりたい!」


学校の決まりにより、採用通知が先に来た、

愛知トヨタに就職することになりました。


(中略)


    -----スタンド係に配属-----


配属が決まりました。

鉱油部(金ヘンでなく、石ヘンでした)販売課 スタンド係

えぇ!!愛知トヨタにスタンドなんかあるの?

「1番貧乏くじを引いたなー」と心底から思っておりました。




●昭和41年-----セールスに転身-----

「縮められたバネ・・」


多くの先輩セールスから、スタンドマンの私は小ばかにされ、

悔しい思いをさせられてきました。

新人とは言え、やっと、平等に競える場を与えてもらったのです。

今までの悔しい思いをなんとしても実績で、晴らさなければなりません。




●昭和43年-----保険の示談金で独立-----

「上司の態度で部下の人生がかわる。」


鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。

翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。

(中略)

相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。


「今だ!今しかない!!” 」


その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。

私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。


新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。

あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、

トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。


(中略)

新しく設立する、中古車販売会社の社長に就任することになりました。





●昭和43年-----部品会社の子会社 中古車販売店社長に-----

「上司の態度で部下の人生がかわる。」


名古屋市瑞穂区山下通り 

   株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦

この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。

私が、26歳になったばかりの時でした。

私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。

(中略)

2年程勤務した、カローラ愛豊を退社して、お客さんであった自動車部品会社の専務さんの勧めがあって、

その部品会社の子会社として中古車販売会社の代表取締役社長になりました。26歳でした。

カローラ愛豊を退社する時は、強く引き止められましたが夢を達成すべく、振り切って退社しました。


(中略)

設立時、若干26歳の私が率いる中古車販売会社でしたが、どんどん成長して、

間もなく愛知県ではトップクラスの販売台数になっていました。


車検工場を作り、板金工場を吸収して、

5年後には従業員も35名以上の会社に成長しました。

急成長過ぎた為、組織がしっかりしておらず、外部から見ても不安定さは、歴然としていたと思います。

そこで、親会社は、組織を強固にして将来に備えることと、対外的に信用度を増すことを目的として、

親会社の専務が社長に、私を取締役営業部長にと言う人事を決定しました。

今思えばすばらしい戦略的判断だったと思いますが、若かった私は、社長から部長への降格と言うことのみを見て、

会社の全体や将来を見ずに、頭へ来てしまい、辞任、退社してしまいました。

今から36年前のことで、私は31歳でした。




●昭和48年-----辞任、退職、パチプロに-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


社長から、営業部長への降格に腹を立てた私は、

せっかく苦労して立ち上げてきた会社を辞任、退社をしてしまいました。

次のあてがあっての退社ではなかったので、当然収入がなくなりました。

ものすごく忙しかった毎日から、一気に時間が出来てしまいました。

生活費を稼ぐ為に、パチンコのプロにくっついて、パチンコのセミプロを始めました。

毎月、8万円ほど稼げましたので、私の年齢の平均給与ほどは何とか得ることが出来ました。




●昭和48年-----ディーラーからの依頼で取締営業部長に-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


パチンコを始めて、3~4ヶ月経った頃、

某Dマークのディーラーから声がかかりました。

子会社を作り、Dマークを表に出さない、中古車販売会社を立ち上げて欲しいというものでした。

Dディラーの子会社を設立し、私は取締役営業部長に就任しました。

名古屋インター近くで、私の率いる、株式会社「くるま街」と言う中古車販売店がスタッフ6名でオープンしたのは、

48年10月でした。



●昭和49年-----解雇される-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


昭和49年になり、高値のままではありましたが、ガソリンが一気に出回りだしました。

そして、資源高から今まで味わったことのないインフレの世の中になりました。

新車の値上げが相つぎ、つれて中古車も値段が毎日のように上がりました。

売れて売れて、利益もびっくりするほど上がりました。

でも残念ながら、本社の幹部からは、反逆児として常に、にらまれる存在になってしまいました。

(中略)

オープンから2年少しが経ちました。

株式会社くるま街 取締役営業部長 井上 政彦を解雇する決定が申し渡されました




●昭和51年-----ルート豊田 創業-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


やむなく豊田へ来ました。

そして小さな自動車屋さんをはじめることになりました。

当時の国民金融金庫にて、500万円借りて、

国道248沿いの貸し店舗で「ルート豊田」を個人経営で創業しました。

昭和51年5月でした。後に(株)ルートとなり現在に至っています。




ルート創業から先は、以下の記事一覧か、

「私の販売の原点」のカテゴリーをご覧下さい。


●創業当時のルート1
私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと・・・

●創業当時のルート2
月のきれいな夜でした・・・

●創業当時のルート3
事務所の中は、黒い電話機が一つ床にぽつんと・・・

●創業当時のルート4
昭和54年の正月を迎えることが出来ました・・・

●創業当時のルート5
借金返済と、仕入れ・経費支払い、毎日が地獄でした・・・

●創業当時のルート6
54年1月・・・大変なことになってしまいました・・・

●創業当時のルート7
愛知県警、交通指導課、〇〇 と言う名詞を持った人が尋ねてきました・・・

●創業当時のルート8
O氏が入社してくれて、57年12月に、夢であった、月販、100台・・・

●創業当時のルート9
「おとうさん、大変!!裁判所の人が、勝手に、家の中のものに・・・

●創業当時のルート10(最終回)
人生に敗北はない! 自分があきらめてしまった時が、敗北・・・


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