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創業当時のルート

「おとうさん、大変!!裁判所の人が、勝手に、家の中のものに紙をぺたぺた貼っていった!」

最悪時から、3年経ち、当時の負債はほとんど終わったつもりでいた、昭和56年のことでした。

ある、県外の同業者から仕入れた、車両代金500万円を手形で支払っておりました。

その手形代金を不渡りにしてしまっていましたが、その買戻し金は、数回にわたりましたが、全額支払いは終わっていました。

その手形と、買戻しの現金とを引き換えにせず、自分としては終わったものと思っておりました。

ところが、その同業者は、長野日産からの仕入れにその手形を使い、私の買い戻し金を他に流用してしまっていました。

結果、その同業者は、倒産してしまい夜逃げをしてしまったのでした。

長野日産から請求はありましたが、支払い済みだからと、放置していたものが、欠席裁判となり、差し押さえとなってしまったのでした。

娘からの電話で、自宅へ帰ってみてみました。

たんす、テレビ、テーブル家の中のありとあらゆる物に、差し押さえの紙が張ってありました。

全部持って行って貰おうかとも思いましたが、泣いている娘にとっては大切なものばかりです。

かと言って、とても、500万なんて現金はないし・・・途方にくれてしまいました。

ちょうどその頃、岡信の上挙母支店がオープンして、私の事情など知らない支店長があいさつに来ていました。

普通預金・積み立てなどと言っておられましたが、そのままになっていたことを思い出しました。

支店へ行ってその支店長に、すべてを話し、500万の融資を、と言ってみました。全く、ダメもとのつもりでした。

「事情はよくわかりました。協力しましょう」

2・3日して、融資をしますから、印鑑を持ってきてください。

お願いした私のほうが、びっくりしてしまいました。

500万の融資を受け、差し押さえは解除されました。

岡崎信用金庫、上挙母支店、初代の支店長、簗瀬さんでした

足を向けて寝れない、とは、こういうことだと思いました。

その後支店長は変わり、取引は発展しませんでした。



最悪期53年1月には、多分、5,000万円くらいの負債だったものが・・・

〇 53年に、保険の手続き前、死亡事故で、保険金500万円払ったり・・・

〇 以前勤めていたものが、給料の未払いのみならず、賞与の未払いなんていうことを言ってきて支払ったり・・

〇 未払い先の同業相手より、当方が経営上元気になり、高い利息を支払わされたり・・・

〇 今回のように、ダブル支払いをしたり・・・

その他もろもろで、結果、8、000万~9、000万円支払うことになってしまいました。


いろいろありましたが、おかげをもって、56年には、岡信分を除き、すべてを返し終わることが出来ました。


今だから言えることです。

      「創業当時のルート」は次回でとりあえず終えます。







創業当時のルート

O氏が入社してくれて、57年12月に、夢であった、月販、100台を達成することが出来ました。

IT時代の今は、少ない展示車で、ネットを使って販売と言うことが多くなりました。

あの当時は、沢山の展示車から選んでいただく時代でした。

最高の回転は、一ヶ月1回転といわれておりましたので、当社の、5台展示100台販売は驚異的といわれました。

復活ルートは、また、全国的に有名になり、全国から、沢山の見学者が訪れました。


O氏が入社してから、O自動車整備の債権者が、入れ替わりおとづれるようになりました。

大きな声で、威喝する人。何時間もひそひそ話をしていく人。

どうにも避けられない返済は、私が立て替えておりました。


月々の給料から返済してはもらっていましたが、一年目は増える一方でした。

入社から、1年経った頃、ついに800万円を越してしまいました。

もうこれ以上だめ!ルートがだめになってしまう!とても、心配になってきました。

その頃から、他のスタッフから、O氏の行動に不審がある旨の情報が、よく私の耳に入るようになってきました。

でも、車はよく売ってくれていましたし、ここまでお金を貸し込むと、貸したほうが弱くなっていました。


1年6ヶ月勤務した、59年2月のことです・・・・

経理から・・社長ちょっと、おかしいです。

「車を買わせてもらった、保見町の〇〇さんの支払い口座が、中京(その頃は、相互銀行でした)の豊田になっています。」

個人の方の、口座は、自宅近くか・勤務地近くがほとんどでしたので、保見の方が、ルート近くの口座はおかしいのではと言うことでした。

私は、それを聞いて、確かにおかしいから確認が済むまで入金はしないように、と指示しました。

お客様に問い合わせの電話を入れたところ・・・

「えっ!」「息子は数日前に交通事故で亡くなりました。」「お宅へ車を売っていたのですか?」

「息子の口座は、中京相互にはないですよ!」の返事でした。

当時は、認印一つで口座が出来た時代でした。口座の番号は、前日に発行されたもの、本人がなくなってから作製されたものとわかりました。O氏に問いただしたところ・・「申し訳ない」と白状しました。


犯罪にはなりませんでしたが・・・・O氏にはやめてもらうことにしました。「次の仕事が見つかってから、返済は続けなさい」と言うのが精一杯でした。

O氏のお母さん・奥さん・子供さんのことを思うと、胸が痛くなりました。

でも絶対許すことは出来ない・・夜、家族そろって、私のところへ来たらなんと言おう。突っぱねることができるか?

悩んだ末、その夜は、ホテル豊田キャッスルへ身を隠すことにしました。

その後彼は、名古屋でタクシーの運転手をしていました。給料から少しづつは返してくれていました。


それから2年近く経った頃当社は岡崎に営業所を設けることにしました。

もう改心したはず。そして私としては、どうしても又彼の販売力が必要と思うようになりました。

まるで、私は、彼に対して、麻薬中毒患者のようになっていました。

今度は、Gと言う偽名で仕事をしてもらうことにしました。これ以上立替は増やせない。以前の債権者にわからないようにするために・・・

次の事件は、1年6ヵ月後に発覚しました。

お客様、一人から35万円、もう一人から10万円返す当てのないお金を借りていることが発覚しました。

第2回目やめてもらいました。又彼は同じタクシーの仕事を始めました。


それから、4年が経ちました。私の、彼に対する、麻薬中毒症状がでていました。

彼も、50歳に近くなっていました。

「タクシーは身体にこたえる。今度こそ、身体の続く限り、社長にお返しする・・」

中毒症状と言葉にほだされて、再・再度来てもらうことにしました。

今度は自分では売らない。営業マン指導ということで・・・(今度こそ、お金で失敗しないぞ!)・・と思っていました。


2年勤めてくれました。

部下と2人だけの、夜の岡崎店で、部下の集金したばかりのお金が、金庫からなくなってしまいました。

岡崎店に部下の人から呼ばれていきました。

いきさつを聞いて、Oにお前だろうと、激しく迫りました。

Oには又やめてもらいました。

これで3度目・・・「もう麻薬の禁断症状には耐えるぞ!!自分がしっかりしなくては!」と反省しました。

残念なことに、一緒にいた部下氏も、絶対O氏だという証拠がない限り、私も責任を取ると言って退社してしまいました。


あれからすでに14年、O氏は65歳・・今何をしているか?・・・立て替え金の残額は、180万円迄減っていました。

その後は、私の「禁断症状」が起きないように、社員教育に力を入れるようにしています。


O氏は、当社の成長に本当に力になってくれました。

まずかった行為の分を差し引いても、大きなプラスを残してくれたと、今では感謝さえしています。

美人には、トゲがある・・・


良く売る人には、悪が潜んでいる、ということなのでしょうか?


今だから言えることです。

        つづき、又書きます。








創業当時のルート

愛知県警、交通指導課、〇〇 と言う名詞を持った人が尋ねてきました

昭和57年初春でした・・・

 「明日、あなたの会社の協力整備工場、O自動車整備のO社長と専務を逮捕します。」

容疑は、私文書偽造同行使、その後に、詐欺罪も立件を視野に・・とのことでした。

・・でも・・・・警察の人が、なぜ私のところへ?・・・・

 O社長は、ルート豊田が行き詰ってしまったとき、溜まってしまった、支払いを分割でと・・相談に行った社長でした。

結果、助けてくれるどころか、その夜、事務所のものを全部持っていかれてしまいました。

その後、当社は再建に取りかかり、月々とはいえ、順調に支払いは進んでいきました。

間もなくきれいに完済、と言うときに、やっと事務所から持ち出したものを返してくれました。

と同時に、「以前のように、車検などの仕事が欲しい」と言われ、お願いすることにしました。


 少しの間は、順調に取引は続きました。

あるときから、納期が遅れだしました。

お願いした車のガソリンが異常に減ってしまっていることが頻繁におきだしました。

走行Kを調べてみると、なんと100キロ以上走っていました。

注意しても、そんなことはありえないと、言い切ります。

今度は、「先払いでしか仕事はしない」と、言って来ました。

「もう取引をやめるしかないな」・・と思っていたとき、県警の刑事さんが来られたのでした。


なぜ?私のところへ?

 逮捕が確実となり、「あなたが逮捕されたあと、お母さん、奥さん、子供たちは誰が面倒を見る?」・・と、警察の人が聞いたそうです。

その答えが、なんと、「ルート豊田の、井上さんに頼みます・・」だった、とのことでした。

◎ 私が最悪のとき、O氏は私に何をしてくれた?

◎ 反対に今度はO氏の方が、今、最悪の状態だ!同じ仕打ちを私はしない・・逆に、彼と彼の家族を出来る限り、支援しよう と、即座に決めました。


 O氏は、集金したお金を持って、夜な夜な、名古屋の繁華街へ行っていたそうです。

当然、仕事もおろそかになり、資金繰りに詰まってしまったとのことでした。

スタッフは、5~6人いましたが、給料もままならなくなり、通勤のガソリン代も払えなくなっていたようでした。

1番遠い人は、岐阜からでした。その人が、ガソリンが沢山入っていた、当社の車を使ったようでした。

最後は、車検に必要な、重量税・自賠責・証紙代等を先に預かり、使ってしまい、車検をせずのまま返してしまったようです。

フロントガラスに貼るステッカーは、ほかの車のものを再発行。車検証の車検期日は、偽造・・・
(その頃の、車検証の車検期日はゴム印で記載でした。朱肉の陸自印は芋で作って押したそうです)

〇 車検を受けずに、他人のステッカー再交付、車検証偽造が、有印私文書、不実記載同行使なのだそうです。

〇 車検用の諸経費として預かり、他に流用が、詐欺罪にあたるとのことでした。


翌日、O氏と番頭役の専務氏は、逮捕されました。

O氏の自宅近くの、守山署に留置され取調べとなりました。

早速、私は、O氏の奥さんに電話をしました。「出来る限りの支援をする・・と・・」


 警察の調べで、車検を取らずに、車検が受かったかのようにして集金だけした車が、100台以上ありました。

残念ながら、当社の車も、3~4台ありました。

弁護士さんから、なんとしても、詐欺罪にはしたくないから、被害者が返金を申し出たら、協力してもらえないだろうか?と要請がありました。

まだまだ弱体の当社でしたが、倒れない限り、と限定付きで引き受けることにしました。


O氏の奥さんには、月に15万円の仕送りをすることになりました。

被害者の返金申し出は、40~50台分、300万~400万だったと記憶しています。

結果詐欺は、まぬがれました。


 どうして、私がそこまで支援することにしたか・・・

〇 私の苦しい時にされたこと・・O氏が苦しい時に、私のとる態度・・男の勝負!私の勝ち!!こんなことを密かに思ったこと。
   (負けず嫌いの、いい格好し・・のところがありました)

〇 100人以上の人が、信用してしまった!彼は、ほんまものを正直に扱う当社でなら、すごい力が発揮できると思った。

〇 一度失敗してしまった人は、普通の人に比べたら、すごい力を発揮するはず。(自分がそうであったから・・)

〇 今、苦しい中、彼のために出費している金額は、当社の仕事をしてもらいながら、月々返してもらえば、当社としては、業績も上がり、お金もきっと返ってくる。と読んでいた。

〇 何が何でも、月の販売、100台にしたかった。そのために、O氏が必要と思った。


その後O氏は、守山署の取調べが終わり、名古屋拘置所へ移されました。

半年にわたった取調べも終わり、保釈金を用意すれば、拘置所から出られるということで、私に何とかして欲しいと・・弁護士を通じて涙ながらに頼んできました。


まだ当社の、最悪期の借金がやっと終わったか、と言う時、昭和57年の話です。もうすでに能力を超した出費をしてしまっていました。でも、彼の気持ちを思うと・・何とかしてやりたい・・・加えて、当社としても早く、うちで働いて欲しい!

最後の手段、私の母親から、100万借りてきました。

その後の裁判に私も出廷しました。身元引き受けします・・更正は私が責任を持ってさせます、と訴えました。



  裁判長の声が今でも忘れられません

O・Y・・・「あなたを・・懲役3年に処す!」 「尚、その刑の執行を、4年間猶予する!」


彼は、すぐ当社に着任しました。

昭和57年10月のことでした。

その年の、12月・・当社は、5台の展示で・・・・悲願の、100台を達成しました。


今だから言えることです。

   
      その後、O氏は何度も問題を起こすことになります。

(O氏本人は、今は全く連絡が取れていません。本人がこのブログを見たときの事を考え、事実を曲げないよう、気を使って書きました)


又、つづきを書きます。

















創業当時のルート

54年1月・・・大変なことになってしまいました。

 130万ほどで買った、セリカリフトバックの支払いが、約束の日に出来なくなってしまいました。

その車の代金は、あるお客さんが、トヨタカローラ名古屋で新車に乗り換えるための頭金でした。

お客さんは、真っ青・・困惑するディーラーは・・新車が納まらず、大変な問題になってしまいました。

お客さんの代理で、ディーラーの課長さんが支払いの催促に来られました。

どなたが来られようが、お金がないので払えません。一週間待ってほしいと頼みましたが、答えは、「NO」でした。

ディーラーの課長さん、らちがあかないと思い、「明日中に支払ってもらえなければ、ここの商品車全部もらって行く!」

なかば、捨て台詞のように言われました。その時当社には、安い車ばかり7台ほどありました。

私は、その課長さんの話に「しめた!全部持っていってもらおう」と、心の中で決めました。

翌日、課長さん率いる、何人かのスタッフが、私を見下したような態度を取りながら、意気揚々と全部の車を持っていきました。

一日にして、7台の車が、130万円で売れました!!!



一台も商品車はなくなりましたが・・・支払う予定にしていた、130万円は2~3日後に用意できました。


お蔭様で、願ってもないチャンス・・・いやな思いはしましたが、再出発することが出来ました。


よし!再出発だ・・・
〇 売値の幅を、昨年のヒトケタ車に加え十万円台のものまで拡げました。

〇 男性スタッフを入れて、3人体制にしました。

〇 クレジットが取り扱えるようにしました。

〇 折り込み広告を出すことにしました。


売値の幅は、毎年10万円ずつ上げていこうと、計画しました。(この計画で、新しい商品車を入れることにしました。)

取り扱い車種も毎年拡げていこうと思い、軽・ライトバン・クラウンクラスは来年以降に温存しました。

黄色いちらしで、赤一色の写真と文字、片面のチラシを月に3回、地域を絞って折り込むことにしました。
(裏は、メモにお使いくださいと書きました。)

このチラシ作戦は、お金の用意があってしたものではなく、全くの「ばくち」でした。

田岡信夫著、ランチェスター戦略を読み、参考にして勝負をかけたものでした。

外れれば、もとのもくあみでした。

一回目、反応なし・・

二回目、3~4人の来場・・売り上げ 0台

3回目、なんと、20人ほどのご来場で、10台売れました。


この成功によって、この年、月の売り上げ12~13台から始まって、12月には40台ほどに成長できました。


今だから言えることです。


   又、つづきをかきます。










創業当時のルート

借金返済と、仕入れ・経費支払い、毎日が地獄でした。

約束した日に支払いが出来ないことが、たびたびでした。

 約束の支払いが出来ないときは、朝一番で謝りの電話をするようにしていました。

いやな・・言いにくいことは先に済まさないと、一日中憂鬱で仕事になりません。

そんな苦しい時、ある人から、楽になるからと、シャブ(麻薬)を薦められました。

楽になりたい!でも・・・

シャブには手を出しませんでしたが、とても良い、勇気の出ることを発見しました。


 それは・・・

言いにくいことを、言う前・電話する前に、「冷や酒」をコップ一杯グィッと一気に飲み干します。

すると、顔が暖かくなる寸前に非常に勇気が出るということでした。

あの頃は常に、一升瓶を用意しておりました。


 商談している最中に、電話が鳴り、支払いの催促されると、商談はこわれてしまいます。

考えて、電話機のベルにテープを巻きつけ、音は出ない・・かすかに振動するのみにしました。

電話のベルが鳴らなくなって、商談に力が入るようになりました。


 お客様から犬をもらってきました。

事務所の中において、私が裏で整備などしている時、表にお客様がいらっしゃったら、「ワン、ワン」とほえる・・・

私がその鳴き声で、来客を知り、事務所に入ると、ぴたっと、鳴き止むようにしつけました。

一人の人件費が節約できました。名前は、ナッキーといいました。

13~14年生きて亡くなりましたが、その時の悲しみから、もう・・犬を飼うのは絶対いやだと思いました。

ナッキーには、仕事上と、癒しの両面で助けてもらいました。



 必死の日々を送っていましたが、その頃、自宅へは一円も持ってはいけませんでした。

妻は子供たちに食べさせるため・・・

朝、3時か4時に家をでて・・牛乳配達・それを済ませてすぐに新聞配達・・

家へ帰って、子供たちを学校に出し・・スーパーでレジのパート・・

いくら頑張ったとはいえ・・・

子供たちには、とても人並みにはしてやれなかったはずです。

おかげでそんな中にありながら、子供たちはまっすぐ以上に育ってくれているようでした。

迷惑だけかけて何にもしてあげれていない、だめな父親に、「お父さん、いつもお仕事ありがとう!」の手紙・・・

涙なくして読めませんでした。

時折もらう手紙が励みとなり、歯を食いしばることが出来ました。



 数日の電話番、と言うことで来て貰い、間もなく30年になる、苅谷部長

初めの頃は、約束の給料も一度には支払えませんでした。

支払えるときに1万・2万と支払っていました。

その少ないお金から、最初に買ったのは、お米ではなく・・

通勤のバスの回数券であったと聞き、ジーンと来てしまいました。




お客様に恵まれ、周囲に支えられて、最悪から1年経ちました・・・


54年2月~3月で一気に勝負に出ることにしました。

文字どうり、「ダメもと!で」


    今だから言えることです。


              つづきはまたかきます。





















創業当時のルート

昭和54年の正月を迎えることが出来ました。


元旦の夜・・
事務所2階の寝起きしている部屋に、なかばやけっぱちで、大きな文字を3枚書きました。

   「命かけて」


   「今に見ておれ、俺は日本一」


   「この道より、我を生かす道なし、この道を歩く。 この道は、日本一への道」            (これは、武者小路実篤の言葉に日本一を加えたものです)


 自分で書いた3枚をじっと見つめながら、今の夢を、4つ書きました。


① 借金を完済する  (目標期限、4年後・・昭和58年末)

② 月に100台売れる店にする  (達成期限、9年後・・昭和63年末)

③ 豊田まつり(現、おいでんまつり)に仕掛け花火を出す  (実行期限、9年後・・昭和63年)

④ 社員旅行で海外へ行く  (実行期限、9年後・・昭和63年)

その時の自分からすれば、夢の夢を書いたのでした。


4つの夢を目標に、行動を開始しようと熱く、熱く思いました。

すべての夢の達成は、販売台数アップにかかっていました。

今年中に、30台を達成させよう!

燃えに燃えて、54年の仕事が始まりました。


すべてのもと販売台数を上げるには、人が必要だと言うことで、店の前に張り紙を出しました。

「社員募集・・低賃金、重労働に耐えられる人」と・・


2月にK君、7月に整備のI君が入社してくれ、月販30台の体制は何とか整い、販売に勢いがついてきました。

この年(昭和54年)の暮れには、なんと、月の販売台数、40台まで売れるようになリました。



この販売台数増を振り返ると・・・

〇  昨年は、ヒトケタ万円(9万円まで)の商品だけであったものを、ヒトケタに加えて、最高販売金額、10万円台(19万円)まで拡げたことが大きく貢献しました。

〇  3月からクレジット会社と契約が出来、オートローンで買ってもらえるようになったこと。(ジャックスには今でも感謝をしています)

〇  スタッフがそろい、私の販売対応時間が確保された。

〇  ランチェスター戦略(田岡信夫著)に出会い、ルート豊田のように、弱い企業でも、地域・商品・お客様を絞れば勝てると信じて行動した。


54年年初に立てた目標は、すべて期日どうりとは行きませんでしたが、すべてを達成することが出来ました。


①  借金を完済する・・・昭和58年末期限    53年1月時点での借金は、56年末までには、ほぼ完済。
    3年前倒しで達成、(一日16時間労働、3年近くの1、000日無休、毎月200万~300万返済を続けました。)

②  月に100台売れる店にする。・・・昭和63年末期限   57年12月、100台達成
    6年前倒しで達成、(後に問題は起きましたが、非常に売ることがうまい男が入社)

③  おいでん祭りに、「仕掛け花火」を出す・・・昭和63年期限  平成4年に初めて「仕掛け花火」を協賛
    (昭和53年夏、他社の打ち上げ花火を見て、俺は仕掛け花火だ!と誓って、15年かかりました)

④  社員旅行で海外へ行く・・・昭和63年期限    平成4年末、スタッフとその家族をグアムへ招待
    (家族が一緒のため、旅行はまとまりがなく・・その後はお客様招待に変えました。)


期日はまちまちに達成しましたが、熱く思い・・目標をきちんと定め・・目標から目を離さなければ、必ず達成できるものだとつくづく思います。


100台達成したとき、大きく貢献してくれたのは、当社の最悪時、事務所から、すべてを運び出した、当時の整備工場の社長でした。

当社が、その整備工場に借金を返し終わった頃から、経営状態がおかしくなり、ついには、警察に捕まるような悪いことをしてしまいました。

その社長、O氏に保釈金を出して、入社させ、100台達成に貢献してもらったのでした。


今だから言えることです。

               創業当時のルート・・もう少し続けたいと思います。








創業当時のルート

事務所の中は、黒い電話機が一つ床にぽつんとおいてあるだけ。

その電話も切られていました。

家賃は半年間支払いが、たまっていました。

 その大家さん、例の整備工場はじめ支払いができていない先、30~40口でした。

まず、大家さんから始まり、出きるかどうかも確かではない、当時としては、夢のような計画を、頭を下げながら話して回りました。

全く入金の当てがない自分は、何を言われても平気、開き直ることが出来ていました。

必ず払うと言う信念だけは持っており、とても強くなっている自分に気がつきました。



 とは言え、なんとしても仕事は再開しなければすべてが始まりません。自分の命もかかっています。

そのためには、まず電話を開通させなければなりません。そして自分には、生きるための食料が必要です。

以前バイトをしてくれていた、大学生(現在は、愛知トヨタで営業所長をしています)に頼んで、10万円一ヶ月の期限付きで、友達から借りてきてもらいました。

お蔭様で、そのお金で電話は開通・・・自分の命の糧、インスタントラーメンも買えました。

当分の間、家内と子供は両実家へ身を寄せることになりました。

古い机と椅子をめぐんでもらって、曲がりながらではありますが、再建のスタート準備ができました。


 債権者も持っていかなかった、古い車2台を、国道から見える位置に並べました。

価格表なるものもなく、水生マジックでガラスに値段を書きました。

6万円と8万円でした。

値段を書いて、じっと待っていました。

国道を通る車からのぞきはしてくれるものの、降りて来てくれる人はありませんでした。

再建スタートから、待つこと、約2週間・・・

一人の若い人が車を止めて降りてきました。

なんと、6万円の車を見てくれているではありませんか・・・

自分は、この人を離してしまったら・・・立ち上がれない・・・「半殺しにしてでも売るぞ!」文字どうり、命を賭けた商談、になりました。

買ってもらいました!!瀬戸に住んでいる人でした。

早速、その売上金のなかから、現金を5万円程持って、ディラーへ仕入れに行きました。

古い車、でも程度が良い車を、2台を仕入れてきました。

こんなスタートを切った、再建、「ルート豊田」は、その月、昭和53年3月・・・7~8台の販売ができました。

当初、借りた10万円は、約束どうり返すことが出来ました。



超、安い車しか仕入れが出来なく、仕方なく始まった超低価格車の販売でしたが、やってるうちに、この価格帯に、充分マーケットがあることに気がつきました。

競争相手は全くなし・・・
利益率は高い・・・(但し利益そのものは少ないですが)
仕入れが楽(同業は誰も扱っていなかった)

半年も経たずに、月に13台くらいまで売れるようになりました。が、忙しすぎて、まず、電話番がなくては、もうこれ以上は望めなくなりました。

9月から・・・(結果、うそになってしまいましたが)・・・名古屋市名東区からバスを乗り継ぎ2時間かかるため、少しの間だけの約束で、電話番を頼むことにしました。その人は、間もなく、勤続30年になる、ユーズネット本部の苅谷部長でした。


留守番が来てくれたことで、その年の暮れには、20台近く売れるようになっていました。

昭和53年12月31日・・・今年中には何とか仕上げたいと、その夜、スズキの軽クーペのエンジンの乗せ替えをしていました。

近くのお寺から、除夜の鐘が「ごーん・・・ごーん」と聞こえてきました。


ジャッキで上げた、車の下で仰向けのまま聞いた、除夜の鐘には、涙が止まりませんでした。

狭い車の下で、泥と油と涙で、くしゃくしゃになって”昭和54年を、何とか、迎えました。


今だから言えることです。

             つづきは、又時間があるときに書きます。


























創業当時のルート

月のきれいな夜でした。

 右手に見えかくれする、矢作川の川面は、月の明かりで、キラキラと輝いていました。

自分を死に至らしめるための、ひも・ホースなど、すべを持っていないことに気づき、通りにあったガソリンスタンドへ乗り入れました。

「待てよ、俺は今、びた一文、持っていない!」

あわててスタンドを出て又走り出しました。

月原の手前か、藤沢あたりだったか・・・道路と矢作川の間に竹やぶがありました。

その空地に車を止めて、矢作の川面を、ぼうと眺めておりました。

今まで、本物でなかった自分のために、迷惑をかけてしまった、いろいろな人々が、浮かんでは消えていきました。

まるで、走馬灯のように・・・

 家では、満足な食事もない子供たちが、今夜もさみしく”ひもじい食卓”についていることだろう。

「ごめんなさい」「がんばって立派な大人になって・・・」




 車ごとダムに突っ込むか・・高い場所を見つけて車ごと・・

死に至るための、方法がきまりました。

いざと思い、バックしようと思った・・その時・・私の後ろから、「お・と・う・さーん!!」

子供たちの、「呼び声」が聞こえてきました。


「はっと」・・・・この呼び声で・・・われに帰ることができました。


「そうだ、俺には、子供たちがいる・・・文字どうり、死んだつもりで・・子供たちのためにがんばろう!」

「死んだつもりで・向かえば怖いものはないはずだ!」

「ようし!どんなことがあろうが・・・何年かかろうが・・・」


 来た道を今度は、下っていきました。

帰り着いた「ルート豊田」の事務所は、もぬけの殻になっていました。

15坪の事務所には、床に、黒い電話機がぽつんと置いてあるだけになっていました。

助けを求めて、相談に行った協力会社の整備工場が、トラックで来て、すべてを持って行ってしまったのでした。

相談に行ったとき、事務所のキーを忘れて来てしまいました。



外には、だれも持っていかなかった、車が2台だけありました。


翌日、義理の兄の紹介で弁護士さんに、この先のことを相談に行きました。

私の話を一通り聞いた弁護士さん、「あんたのケースは、ことが小さくて、いわゆる倒産の仲間には入らないよ」

「3000万や、5000万は頑張って仕事をして行けばどうにでもなる筈。」

「ましてや、債権者が、30人そこそこなら、明日から、いや、今からでも謝って回ればいいではないか。」

「そして、頑張った中から、少しづつ返していけばいい・・」

3000万・5000万は計算ができていなかった数字で、結果は、8000万から9000万の返済になりました。

あまり取り合ってももらえませんでした。


帰り際に、「一本吸っていきなさい」と、確かロングピースを差し出されました。

「今日のこのタバコの味を忘れないようにしなさいよ」といわれました。

おいしいピースでした・・・味は忘れましたが・・・おいしかったことは忘れられません。


今だから言えることです・・     

・・・・・・・・また、時間が許されるときを見計らって、  つづきをかきます。・・・・・・・・















創業当時のルート

私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと、豊田の地を選んで、緑区から出てきました。

昭和51年5月、「ルート豊田」の名前で、国道248沿いの貸し店舗で創業しました。

社名のルートは、流通と言う意味からつけました。

オープン早々、当地の同業者から反対の声があがりました。

反対の理由は・・・

①  個人間売買は、今までの中古車屋の仕入れ価格、売り価格を明らかにしてしまい商売がとてもしにくくなる。

②  豊田で自動車屋を営業するなら、〇〇自動車  〇〇モータースのような名前にしてくれ・・・
    でないと、業界秩序が乱れる。                                                          (豊田の自動車屋さんは、自分の姓、または地名のあとに、自動車・・または、モータースとなっていました)

③  自動車屋は地元で営業するもの・・・だから君は名古屋の緑区で開業すべき。

④  自動車屋は広い土地ですべき、貸し店舗で自動車屋をするなんてもってのほか。業界をなめてはいかん!
    (確かに当時の自動車屋はみな広い土地で営業していました。)


  毎日「ルート豊田」へ来て、私の商売をやめさせようとしました。6人ほどの人たちでした。

困った私は、以前から親しかった、自動車新聞の記者に話しました。(今年の1月に亡くなられた、当時の林記者でした)

なんと、このことを、林記者は全国紙、日刊自動車新聞に、見開き2ページにわたって書きました。

あまりに大きな記事に私のほうがびっくりしました。

これによって、地元の同業者は「ルート豊田」へは、直接来なくなりました。

でも、今度は、日刊自動車新聞に対して、不買運動が起きたと聞きました。

この不買運動は、豊田から愛知県全体に拡げようとされたと聞きましたが、まもなく消えてしまいました。

今度は、この新聞を見た全国の同業者から、「個人間売買」とはどんな仕組みなのか?と電話が殺到しました。

電話だけでなく、毎日のように、訪問を受けてしまいこれまた大変な事態となってしまいました。



でも、これだけ、全国の自動車屋さんに興味を持ってもらっているなら・・・・

この機会に、この「個人間売買」をフランチャイズにして伸ばしていこう・・・・



発想が単純、無計画、ではありましたが・・・

ルートのフランチャイズは、2年で全国、北は、釧路・札幌 南は、徳島、宮崎まで、26店舗に広がりました。

本部である、ルート豊田は、創業からたいした仕事も出来ず・・

私は、創業と同時に、地元との反対対策・・その後、全国からの問い合わせの応対・・その後の全国回り・・・
フランチャイズ店の指導と悪戦苦闘・・


結果・・・負債ばかり積み重なり、昭和53年1月になり、とうとう行き詰ってしまいました。

行き詰まってしまう前の半年間は、毎日、お金に追われ、地獄の思いを味わいました。

何とか打開すべく、協力してもらっていた整備工場の社長に相談に行きましたが、良い話はできず、しょぼしょぼ帰ってきました。

その場に事務所の鍵を忘れてきたことなどは、もうろうとしていた私は気がつきませんでした。

7年ほど前になくなった母親に助けを求めましたが、一銭も出してはくれませんでした。
後でわかったことですが、その時母親は、3、000万円持っていました。

その母親は、「憂きことの、尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことばを紙に書いてくれました。

万事休す、もうなんともならない・・・

すべては終わってしまった。

今晩・・死のう!・妻や子供たちには何とか、生命保険で・・ときめました。

その日、見た、人生最後になるはずの夕日は、大きく真っ赤でした。

夕日をゆっくり見たのは何年か振りでした。

三好の森下交差点からの夕日でした。


その夜、ダイハツ、ハイゼットで矢作川を、死に場所を求めて、登っていきました。

昭和53年1月23日・・・月のとてもきれいな夜でした・・・


今だから言えることです・・・    また、時間をみて、つづきを書こうと思います。










ゴルフコンペ













第21回、ルート会ゴルフコンペは昨日、京和カントリーで無事開催できました。

32組、126名のご参加でした。

ご参加者のマナーのよさ、スコアーのレベルの高さは当地区一番だとの声を参加者の皆さんからいただきました。




写真は、パーティーであいさつをしているところです。

こんなに沢山の皆様に参加いただいたことに主催者として本当にうれしく思いました。


次回、第22回は、来年4月7日(月)  中京ゴルフ倶楽部を予定いたしております。

皆様のご参加を期待いたしております。


尚、私のスコアーは  93で  126名中、59番でした。
目標の、90を切る・・はできませんでした。





ゴルフコンペ

明日は、いよいよ・・第21回ルート会ゴルフコンペです。

このコンペは、10年半前から、春と秋、年2回開催してきました。

お客様、お取引先の懇親と「輪を拡げる」ことを目的に、はじめました。

私は、55歳で始めてクラブを握り、「ようしやるぞ!」まだ55歳・・「Go!”Go!”」と張り切っていました。



でも現実は、厳しいものがありました。
まず、参加者が集まりませんでした。
自分のゴルフは、運を天に任せて、クラブを振っているようなものでした。

参加者は、20名の予定だったのですが、18名しか集まりませんでした。

スタート記念のスモークボールをなんと””チョロ・!してしまい、ティーグランド前15M~20M位の位置で・・・
シュウ・・シュウと煙を出していました。
恥ずかしかったこと・・・・恥ずかしかったこと・・・・言葉では言い表せませんでした。

第1回目のコンペの成績は、146でした。

明日の、第21回は、参加者・・128名を予定しております。
沢山の皆さんが、平日にもかかわらずご参加くださり感謝しております。

加えて、沢山のご協賛もいただき感謝に耐えません。

今では、10年半前、無理やりながら、コンペを始めてよかったなーと思っております。


又、ルート会のコンペで、特筆できることがあります。

「ルート会は晴れる・・・」ということです。天気も味方してくれています。

21回の開催で、雨が降ったのは、確か、半日だけでした。

明日も、天気予報は・・・・晴れ!・・です。


話は、自分のことになり恐縮です。
私のスコアーは、今年の夏以降・・100が切れません。

直近、2回は・・109・・105でした。

明日のコンペは、好きなコース、京和カントリーなので・・・

何とか、90を切りたいと密かに思っています。
いつも、ゴルフに行くときは、「今日こそは!」と思っていくのですが・・・


明日は、天気も良いし、自分の欲は、二の次にして・・・・・・・・



ご参加くださる皆様が・・・・・

「楽しかった!」と言ってくださることを、楽しみに、参加したいと思っています。










本社・移動?



15年ぶりに事務所がかわります。


本社事務所は、ユーズネット豊田の二階にありました。


写真のように狭い事務所でした。

ここに7名が、デスクに向かって仕事をしていました。

何とかならないか?

となりの小さい会議室を事務所にしてしまおうか?

結論は、同一敷地内、西隣の「ユーズネット豊田錦」の事務所を使うことにしました。

「ユーズネット豊田錦」のお客様との商談は、国道248沿いの「ユーズネット豊田」ですることにしました。


今月7日(水)に引越しを予定しています。

「この日は、ちょっと予定があるんだけど・・」と言ったら、「いいですよ」と、すぐ返事が返ってきました。

引越しに、私はきっと邪魔なんでしょう。。。「口だけでは引越しは出来ない!」なんて言われそうです。

私がいなくても、引越しは充分できるはず・・・・

でもなんとなく・・さみしいものです。

次の週末には是非新しい事務所へいらしてください。

お待ちいたしております。







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