23ページ目   私の販売の原点

私の信条9 「俺が俺がの(我)を捨てて・・」

私の信条(9)

「俺が俺がの(我)を捨てて、お陰お陰の(下)で生きる」

先祖があり、親がありその親に大切に育てられて、
今の自分があります。
決して自分ひとりで、ここまで来れたのではありません。

先輩の指導、上司の指導、お取引先、お客様の協力があって
今、会社での自分が成り立っています。
決して自分ひとりで、ここまで来れたのではありません。

なのに感謝の気持ちを忘れて、
自分ひとりの力だと言わんばかりに、
俺が俺がの態度を取る人がいます。

自分の会社内であっても良くないのに、
大勢のお客様が集まる場で
ふんぞり返って腕組みしているような、
大バカ者がいました。
俺が俺がの態度を見事に出していた
反面教師の典型のような人物でした。
注意をしてもその場限りでした。

おそらく脳みそが風船のように軽いので、
頭が上がってしまったのだと思っています。

世の中で、立派な人と言われて最期を迎えた人はすべて、
お陰さまでという感謝の心をもっておられたと思います。
「俺が俺が」の気持ちを持った人が世の中で認められ、
成功者と人に認められると言うことは、あり得ないことだと思います。

今、回りを見渡すと、
お陰さまでと思えることばかりです。

お陰さまでと言う感謝の心で、
日々過ごしていれば、
必ず自分も、回りからお陰さまでと
感謝される人になれると思います。


「お陰様でと言う感謝の心」
  を持ちながら、
「ありがとう!お陰さまで」
  とお客様や、周囲から
言っていただける毎日を送りたいものです。







私の信条8 「諸悪の根源我にあり」

私の信条(8) 

「諸悪の根源我にあり」

母親が、自分の子供の成績が悪いのを、
学校のせいにする・学校でなければ先生のせい、先生がよければ
父親のDNAが悪いと言い始める。

私が豊田で創業した35年程前のことです・・
あの頃の私は・・
仕事がうまくいかないのは、
豊田の街の人たちの商品、サービスに対して理解度が低いためだ、
同業者がグループで私の営業を妨げるから、
豊田で採用したスタッフのレベルが低いから・・
自分はうぬぼれに満ちていました。
自分の仕事の進め方、考え、行動すべて間違っていない!
間違っているのは、すべて周囲の他人だ、と決めつけていました。

結果、創業から2年ももたず
行き詰ってしまいました。
でも自分には、この経験があったからこそ、
気付くことができ、
反省することができて、
変わることができました。


・・これは、森繁久弥さんが、何かで話されたことです・・・
人は転ぶと坂道のせいにする・坂がないと石ころのせいに・石がなければ靴のせいに、
人はなかなか転んだことを自分のせいにしない。

痛い経験をしたから、この言葉が身にしみます。


市場が悪いからと、他悪の考え方に凝り固まっている人がとても多いです。
たとえば、
計画通り売れないのは、
いくら、経済情勢がよくない、市場が悪い、と言っても
自分の店のマーケットシェアーが、40%、50%ならともかく
1~5%と低く、90%以上のお客様が、他店で買っているのです。
明らかに消費者であるお客様との間にギャップがあるのです。
自善・他悪の考え方を捨てて、
問題は、自店と自分にあるという観点から、、、
自店とお客様とのギャップを早急に埋めなければなりません。

1%~5%の全く少数派のお客様の声に満足していませんか?
他店で買われた、大多数のお客様の方が間違った人達だと思っていませんか?
買わない、または他社を選んだ、多くのお客様の声を聞くこと、知ることです。
間違っているのは、お客様ではなくあなたの店だ、あなただと言われる筈です。

自分の店より多く販売できている他社に学ぶことです。

自分よりたくさん成績を上げている人に学ぶことです。

自店より多く販売できているということは、
自分よりたくさんの人々に高評価されている証拠なのですから。

あの店は・・・だからきっとだめになる
あの販売員は・・だからだめだ

と言いながら、多くのお客様に評価(商品を買っていただく)されないなら
評論家にでもなりなさい!
とは言っても、
評論家の世界はもっと厳しいから、
だれも話を聞いてくれないでしょう。


お客様が来てくれない!
商品が売れない!
すべては、買われるお客さまとのギャップです。
売れないお店や
売れない自分と、お客様とのギャップが大きいのです。

まだ、売れないのはお客様が悪いと思っていますか???
「自分が一番見えていないのは自分自身です」
「自分がよく見えているのはお客様です」
他人からはよく見えているのです。
自分で自己評価を上げて納得し、
他人に押し付けてみたところで何もなりません。

お客様とのギャップが見えないのも自分です。
たとえ見えても、自分が悪いと思わなければギャップを埋めようとはしません。

「自善・他悪と考える自分」から、
すべてに,「自責の対応ができる人」に変わりましょう。

お店の商品が売れないのも、
部下が成長しないのも、
すべて自分が悪いと思えたときから、
自分の成長が始まります。








私の信条7 「原因のない結果はない!」

私の信条(7)

「原因のない結果はない!」

今日の自分・・
現在の会社・・
すべて、過去に起きた、起こした原因によって成り立っています。

そして、今行動していることを原因として、
将来の自分・会社は、結果として出来上がります。

自分の人生は、すべて原因と結果の繰り返しです。
良し悪しさまざまですが、すべての結果には原因があります。

現在の自分を変えることはできません。
それは、過去から現在までの結果なのですから・・
過去の原因となる行動は、塗りかえれませんが、
将来に起こるだろう結果を見据えて、
行動を決めることはできます。

「こんなはずではなかったのに・・」
と思ってしまう結果を生むことがあります。
それも、すべて自分に原因があります。

ほしい結果の原因づくり行動のつもりが
こんな筈ではなかった結果になる原因を作ってしまったのです。
読み間違えたという原因が、結果を生んだのです。

将来、良い結果がほしいなら、
過去の失敗や成功の経験を生かし、
また、いろいろな経験者から学び、
書物などから情報を集めて判断します。

将来ほしい結果にいたる原因となる、
確かな行動を起こさねばなりませんから。

他人の性格は変えられません。
自分の性格もそんなに簡単には変えられません。
しかし、
自分自身の行動や振る舞いは、
その気になればすぐにでも変えれるはずです。


新しく原因づくりをすればすぐ結果に結びつく場合と、
将来結果に結びつく場合があります。

桃・栗3年、柿8年と昔から言われます。
柿の種をまいた原因から、カキを収穫するのには
8年間かけて大切に育てるという原因を積み重ねて、
結果を生むのです。


良い結果を求めるなら、
「良い結果を生む原因づくりの行動」を、
取らなければなりません。

「原因のない結果はないのですから・・」








私の信条6 「出来ない理由では、メシは食えない!」

私の信条(6)

「出来ない理由では、メシは食えない!」

仕事が思うように進まなかったとき・・
突発的な事故が発生したとき・・
計画時に想定しなかった環境の変化に遭遇してしまったとき・・
そのほか、事前には想定出来なかった問題が発生したとき・・

しきりにうまくいかなかった「理由」を述べる人がいます。
それは自分をかばうことを最優先しているだけで、
なんら解決には至りません。

「だから・・・どうする?」がない!!

必要なのは、、
理由より、だからどうしたらよいのか?
と言う、対処法、対策なのにである。


出来ない理由をどれだけ述べても、
解決にはなりません。
当然、成果を得るには至りません。

お客様のための・・
対処法、対策を実行に移して初めて、
結果が成果として得られるのです。


私の信条5 「プラス、マイナスは表裏一体、プラス側を見よ」

私の信条(5)

「プラス、マイナスは表裏一体、プラス側を見よ」

物には、必ず裏と表があります。
物事には、プラス面とマイナス面が必ずあります。
どんな物・事にも、必ずうらとおもて、プラス面とマイナス面はあるものです。

マイナス思考の人は、たとえ良い事柄が身の回りで起きても、
驚くほど器用にマイナス面だけを見ています。
そういう人は、「へぇーそんな風にとらえるの?」と、
びっくりするほどうら側のマイナスだけを見ています。

・・・たとえば・・
スタッフが一人やめてしまった・・・
マイナス思考氏「大切な人が辞めてしまった、あのスタッフ分の仕事は
         どうしよう、困った、困ったもうお先真っ暗だ・・」

プラス思考氏 「おっ!、やめたか。次はもっと良い人を採用するぞ、
         やめた彼が、チャンスをくれたありがたいことだ」

事業に失敗して、ホームレスになってしまった・・・
マイナス思考氏「すべてを失ってしまった。もうだめだ・・・」

プラス思考氏 「おぅ!、もう経費はかからない、ありがたいことだ。
         苦しめられた赤字は出したくても、出ようがない。
         今がどん底か、だったらもう下はない」
         「さぁ”これからは上りだけの人生を行けるぞ!」


マイナス思考する人の周りには、マイナス思考の人が集まりますが、
プラス思考の人は離れていきます。
常にプラス思考する人とは、長い年月で雲泥の差が付きます。


表裏一体、マイナスの裏には必ずプラスがついています。
裏側にあるプラスを見つけることは容易にできます。
マイナス思考の人は、訓練を繰り返すことにより、
プラス思考の人に変わることが出来るのです。



・・・これから毎日・・・
マイナスの考え方から⇒⇒プラスの考え方に変える訓練に励みましょう。

風邪をひいてしまった・・・
  プラス氏。。。もっと大きな病気にならないようにとの警鐘だ、
          これを機会に身体には気をつけよう!
  マイナス氏。。もう行かん、仕事にならない。風邪がもとで
          もっとひどい病気になってしまうのでは・・

会社から高い目標を与えられた・・・
  プラス氏。。。会社は今回自分を高く評価してくれた。期待されているんだ。
          期待にこたえるようにがんばろう!
  マイナス氏。。こんな高い目標できるわけないよ、会社は何考えてるのだ。
          一所懸命やっているのに、もういいや一時、
          月末にいやな思いをするだけだ。

近くに、同業の競合店が進出・・・
  プラス氏。。。いい刺激だ、これを機会にすべてを見直して迎撃だ、
         がんばるぞ!
  マイナス氏。。今まででも、楽でなかったのにまたお客さんが減ってしまう。
         もうだめかもしれない。




思い方、考え方を変えれば

行動が変わります。
周りの人も変わります。
結果が変わります。

大きく、
人生が変わります。
         
           



私の信条4 「被害者づらするな、真の加害者は・・」

私の信条(4)

「被害者づらするな、真の加害者は自分なのだ」

被害者の心が強い人は相手を責めたり、恨んだりの心を強く持ちます。
結果、成長はありません。

反面、加害者の心を持つ人は、反省して次に生かそうとします。
反省が成長の糧となります。

何かトラブルがあったり、うまく事が運ばなかったりはよくあることです。
そんなとき当事者は・・・
① 〇〇が ×× してくれたならこんなことにならなかったのに
  (他人を責める被害者の心)

② 自分があの時気をつけて、〇〇していればこのようにはならなかった
  (自分を責めて反省する加害者の心)


何か事があると
本来自分に責任があっても、部下、上司、他人に責任転嫁して、
常に被害者になる人がいます。

明らかに責任は、他人にあっても、
事前に自分で手が打てたことは多いのにです。



昔から「猫を追うより、皿を引け」と言われています。
食卓に並べられた魚を取って食べてしまったら、
猫が悪いのは明らかですが・・・

猫から見えるテーブルに、魚を乗せた皿を置かなければよかったのです。
ひと時、猫を違う場所に移しておけばよかったのです。

猫に魚をとられて、猫を恨み、
猫に「きついお仕置き」をいつもしていたり、
料理をして魚をテーブルに乗せた人を攻撃したりでは、
愛猫家の楽しい家庭は望んでも築けません。


気づいていて知らぬ顔とか・・
気づける位置にいながら気付かなかったのに、
人を責め、あれは誰々のせいだ、
ひどいやつだ、自分は被害者だと主張する人。

私で何か出来たはず。
気づいてあげればよかった申し訳なかった。
真の加害者は自分なのだと反省する人。

心が加害者になれたとき初めて・・・
反省と成長が訪れます。


そのような人は必ず成長します。
そのような人が多くいる組織は
必ず成長します。





  


私の信条3 「何をしたかでなく、どう感じて・・・」

私の信条(3

「何をしたかでなく、どう感じていただけたか」

お客さまに対して・・「あの方には特別、サービスしてあげたのに」

社内で上司に・・・・「これだけ頑張っているのにわかってくれない」

上司が部下に・・・ 「あの部下にはいつも気を使って、目をかけているのに」

家庭で   ・・・ 「家族のために、仕事でこんなに頑張っているのに」

すべて自分の気持ちが、相手の心に届いていないのです。
自分の気持ちと行動が相手に理解されて、初めて喜んでいただけます。


たとえば・・・
100万円の商品が、1万円安くなって、喜ばれるかもしれませんが、
もっと安くなるのではという不信感が芽生えるかもしれません。
そして、1万円安くなったことは、その日限りで忘れられてしまいます。



同じく100万円の商品を買われたお客様に、笑顔と、たった一つの気配りからの行動で、
感動していただけることがあります。
感動されたお客様は、何年も覚えていてくださり、リピーターになってくださるし、
周囲の人に話してくださいます。
広告しなくてもお客様の輪はどんどん拡がります。


今は心の時代です。

物を介して、喜びを買っていただくのが我々の仕事です。
だから喜んでいただくのは当たり前なのです。

感動をしていただいて、
お客様の心の中に「喜びの貯金」をしていただきましょう。

将来、リピーターとしてまた買っていただく・・
ご家族友人を紹介してくださる・・
などで、貯金を使っていただきましょう。


「商品に喜びを乗せて」までで
満足していませんか?

感動していただいて・・
初めて合格点なのです。







私の信条2 「人は憎まない、憎むのは・・」

私の信条(2) 
   
「人は憎まない、憎むのはその人の悪い行為のみ!」

あんなことをしたやつは許せない!と思いがちですが・・・
悪いことをしたその行為は、その人のほんの一部です。

長い人生です。
憎む相手が、その行為を反省してやめたり、
環境が変わって出来なくなったりはよくあることです。

自分自身の環境が変わったり
自分の立場、考え方、器が変わり
自分にとって悪い行為と言えなくなったりもします。



行為を見て、時期を見て、

良い関係に早く戻りたいものです。

人は憎まず・・です。


私の信条1 「出来ない理由を探すより・・・」

私がブログを書く目的の一つに、
ユーズネットグループのスタッフに対して、
ブログ記事の中から
日々の言動を理解してもらうことにより、
考え方、方針などを伝えたいという思いが含まれています。

ならば、ストレートに、私がいままでかたくなに信条としてきた事柄を、
思いつくまま書いて、より理解をしてもらおうと言う思いに至りました。


私個人が今までの人生のいろんな過程で、
自分のものとして取り込み、
「私の信条」としてきたことばかりです。

人それぞれですので正解であるとか、
間違いであるとかの判断を求めるものではありません。

道は種々ありますが、
そのような「私の信条」から選択された道であり、
その信条から発せられた言動なのだと理解してほしいと願っています。

ただし私自身強く意識すれど、
いまだに行動として出来ていないことも多々ありますので、
このシリーズを改めて書くことにより、
「信条」に沿った行動を一層強めて行きたいと思っている次第です。


ブーログと言う公の場を使っての発信です。
スタッフ以外の方々には、
ユーズネットグループをご理解いただく一助にしていただければと思っています。





私の信条(1)

「出来ない理由を探すより、やれる方法を探せ!」

新しい何かに挑戦するとき、
× × だから・・・
〇 〇 だから・・と、先に出来ない、やれない理由を探して時間と労力を使うより
 そんな暇があったら、まず先に、やれる、できる方策を考える。

新しいことに挑戦するとき、必ず先に見えてくるのが出来ない、やれない壁です。
どこかに、何かの方法で、
その壁を打ち破る方法は必ずあると信じて探し出すのです。
「何が何でも探す」・・・の心構えが大切と思います。

出来ない理由は、誰でもわかります。
それを問うているのではありません。
やれる方法を考えましょう。

それが仕事なのです。


他社のイベントに学ぶ・・

豊田スタジアムで開催中の
「大陶器市」
昨日と今日 2回
行ってきました。

昨日は、とても風が強かったです。

この強い風の中、どのように、開催されているか?

とても興味があり、勉強になりました。





寒い中、たくさんの来場者にまず驚きました。

テントの設営、捨て看板の配置、のぼり旗の出し方など、

たくさん学ばせていただきました。





3月に開催を予定している

ユーズネットグループ主催

第11回「軽大会」

の設営などに、
参考にさせていただこうと思っています。


赤紙をもらった犬~を観て

18日(土曜日)21時から
NHKスペシャルを観ました。

[さようなら アルマ~ 赤紙をもらった犬]
と言うタイトルでした。

戦時中とは言え、穏やかな生活を引き裂かれ、
戦争という運命に巻き込まれ・・・
軍犬として、旧満州の戦場へ出兵ーーー

生き延びて、役目を果たし、終戦となりましたが、
最後の引き上げ船には余裕がなく、
故国へ帰れずに置き去りにされた。
無言の兵士「アルマ」の実際にあった話をもとにした
戦時ドラマでした。





靖国神社には、当時日本のために活躍した軍犬の慰霊像があるそうです。

出兵時の写真、本物アルマの雄姿 です。


シェパードを主とした軍犬は
戦場の第一線で兵士のために活躍したが、
地雷を踏んだり・・・
敵狙撃手の標的となり・・・
あるいは傷病に死したり・・・
大半は、命を捧げることになった。
運よく生き残っても、戦地に置き去りにされ、
遂に一頭すら故国の土を踏むことはなかった
と言われている。





テレビで活躍した、アルマ役のシェパード





テレビを見ながら、、

30年以上前、
当社の創業まもない、とても苦しい時に、
当社の戦時犬として一緒に活躍してくれた、
「ナッキー」を思い出していました。

貸店舗で営業をしていた頃、
国道沿いの貸店舗前駐車場に5台展示していました。
整備は、事務所裏で行っていました。
仕入、販売、納車整備、登録、アフター、
すべてを一人でこなさなければなりませんでした。
裏で、私が整備をしていますと、
事務所が空のことがよくありました。

営業時間中、ナッキーは事務所の中にいつもいて、
展示車を見にお客さんが来られると吠えて教えてくれました。
電話が鳴っても教えてくれました。
当時ナッキーのおかげもあって、
月に15台から20台売ることができました。

常連のお客様に遊んでもらうことにより、
接客係りも勤めてくれました。

私は、事務所の2階で寝起きしておりましたので、
夜は、いつも一緒でした。
私とナッキーは夜いつも腹ぺこでした。
夜遅くナッキーの食糧(残飯)をもらいに
お客さんであった居酒屋さんへ行きました。
食料を手に入れて帰るととても喜んでくれました。
寒い日は、私の布団へ入れてこたつの代わりをしてもらいました。
でも朝気がつくと、必ず布団から出ていました。
私が寝付くまでが仕事であり、
どうも私と寝るのはいやだったようです。

当時、ナッキーをとてもかわいがってくれたお客様。
峰松さん
岡村さん
お二方とも、30年以上たった今でもお客様としてお付き合いいただいています。

そのナッキーも、10歳になったころから体調が悪くなり、、
17年前の8月11日(日曜日)大安の日でした。
14年の命を閉じました。
その亡くなる前夜は少しでも楽にしてあげようと、
腕にナッキーの頭を抱えて朝まで過ごしました。

自分の仕事上うまくいかない時など、
一方的にいじめてしまったことなどを謝りながら・・・


軍犬  ・・・アルマ

仕事犬 ・・・ナッキー

人に尽くすことしか知りませんでした。
苦境に立った人を癒してくれました。


テレビで軍犬アルマを見ながら、
私の心は、ナッキーへ行ってしまっていました。

軍犬、アルマは日本を支える仕事をしました。

仕事犬、ナッキーはまさしく、
(株)ルートの根幹を支えてくれました。






自己紹介:株式会社ルート くるまのユーズネット 会長 井上政彦

新車・中古車の販売を中心とする株式会社ルート くるまのユーズネット

創業者、会長 井上政彦です。

以下、あらためて自己紹介をさせていただきます。



私は、昭和17年8月、名古屋市緑区に生まれました。

家は、緑区 有松で、絞り加工請負業を営んでいました。

幼い頃から、「自動車屋になりたい」という夢がありました。

家が貧しかったため、高校を卒業してすぐ就職することにしました。

受験したのは、日本交通公社(現、JTB)と愛知トヨタ。

学校の規則により、たまたま合格通知が早くきた愛知トヨタに

勤めることになりました。

両方合格しましたが、もし日本交通公社の方が早く通知がきていたら、

私の人生は違ったものになっていたはずです。




私のブログにメニューボタンをつけて、読み手にわかりやすくしよう

ということになり、メニューの1つである自己紹介を書くことになりました。




以下、自己紹介を、「私の販売の原点」というカテゴリーで

書き溜めたものから抜粋します。

抜粋記事にはリンクを貼りますので、ご興味がありましたら

続きをご覧下さい。

緑の文字だけを追っていただきますと、年譜としてご覧いただけます。





●昭和26年-----初めての販売体験-----

「販売の天才と言われ・・・」


私の人生で初めて物を売ったという経験は・・・

小学校の4年生の時です。

親の商売がうまくいかず、とても貧乏だった私は、、

鉛筆、消しゴムを買うお金も親からはもらえませんでした。

道路、ゴミ捨て場、空き地、ありとあらゆる場所から

鉄くずを拾ってきては、当時の鉄くずやさんへ売りに行っておりました。




●昭和36年-----愛知トヨタに就職-----

「自動車屋になりたい!」


学校の決まりにより、採用通知が先に来た、

愛知トヨタに就職することになりました。


(中略)


    -----スタンド係に配属-----


配属が決まりました。

鉱油部(金ヘンでなく、石ヘンでした)販売課 スタンド係

えぇ!!愛知トヨタにスタンドなんかあるの?

「1番貧乏くじを引いたなー」と心底から思っておりました。




●昭和41年-----セールスに転身-----

「縮められたバネ・・」


多くの先輩セールスから、スタンドマンの私は小ばかにされ、

悔しい思いをさせられてきました。

新人とは言え、やっと、平等に競える場を与えてもらったのです。

今までの悔しい思いをなんとしても実績で、晴らさなければなりません。




●昭和43年-----保険の示談金で独立-----

「上司の態度で部下の人生がかわる。」


鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。

翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。

(中略)

相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。


「今だ!今しかない!!” 」


その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。

私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。


新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。

あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、

トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。


(中略)

新しく設立する、中古車販売会社の社長に就任することになりました。





●昭和43年-----部品会社の子会社 中古車販売店社長に-----

「上司の態度で部下の人生がかわる。」


名古屋市瑞穂区山下通り 

   株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦

この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。

私が、26歳になったばかりの時でした。

私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。

(中略)

2年程勤務した、カローラ愛豊を退社して、お客さんであった自動車部品会社の専務さんの勧めがあって、

その部品会社の子会社として中古車販売会社の代表取締役社長になりました。26歳でした。

カローラ愛豊を退社する時は、強く引き止められましたが夢を達成すべく、振り切って退社しました。


(中略)

設立時、若干26歳の私が率いる中古車販売会社でしたが、どんどん成長して、

間もなく愛知県ではトップクラスの販売台数になっていました。


車検工場を作り、板金工場を吸収して、

5年後には従業員も35名以上の会社に成長しました。

急成長過ぎた為、組織がしっかりしておらず、外部から見ても不安定さは、歴然としていたと思います。

そこで、親会社は、組織を強固にして将来に備えることと、対外的に信用度を増すことを目的として、

親会社の専務が社長に、私を取締役営業部長にと言う人事を決定しました。

今思えばすばらしい戦略的判断だったと思いますが、若かった私は、社長から部長への降格と言うことのみを見て、

会社の全体や将来を見ずに、頭へ来てしまい、辞任、退社してしまいました。

今から36年前のことで、私は31歳でした。




●昭和48年-----辞任、退職、パチプロに-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


社長から、営業部長への降格に腹を立てた私は、

せっかく苦労して立ち上げてきた会社を辞任、退社をしてしまいました。

次のあてがあっての退社ではなかったので、当然収入がなくなりました。

ものすごく忙しかった毎日から、一気に時間が出来てしまいました。

生活費を稼ぐ為に、パチンコのプロにくっついて、パチンコのセミプロを始めました。

毎月、8万円ほど稼げましたので、私の年齢の平均給与ほどは何とか得ることが出来ました。




●昭和48年-----ディーラーからの依頼で取締営業部長に-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


パチンコを始めて、3~4ヶ月経った頃、

某Dマークのディーラーから声がかかりました。

子会社を作り、Dマークを表に出さない、中古車販売会社を立ち上げて欲しいというものでした。

Dディラーの子会社を設立し、私は取締役営業部長に就任しました。

名古屋インター近くで、私の率いる、株式会社「くるま街」と言う中古車販売店がスタッフ6名でオープンしたのは、

48年10月でした。



●昭和49年-----解雇される-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


昭和49年になり、高値のままではありましたが、ガソリンが一気に出回りだしました。

そして、資源高から今まで味わったことのないインフレの世の中になりました。

新車の値上げが相つぎ、つれて中古車も値段が毎日のように上がりました。

売れて売れて、利益もびっくりするほど上がりました。

でも残念ながら、本社の幹部からは、反逆児として常に、にらまれる存在になってしまいました。

(中略)

オープンから2年少しが経ちました。

株式会社くるま街 取締役営業部長 井上 政彦を解雇する決定が申し渡されました




●昭和51年-----ルート豊田 創業-----

「出会いと別れ・・パートⅢ」


やむなく豊田へ来ました。

そして小さな自動車屋さんをはじめることになりました。

当時の国民金融金庫にて、500万円借りて、

国道248沿いの貸し店舗で「ルート豊田」を個人経営で創業しました。

昭和51年5月でした。後に(株)ルートとなり現在に至っています。




ルート創業から先は、以下の記事一覧か、

「私の販売の原点」のカテゴリーをご覧下さい。


●創業当時のルート1
私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと・・・

●創業当時のルート2
月のきれいな夜でした・・・

●創業当時のルート3
事務所の中は、黒い電話機が一つ床にぽつんと・・・

●創業当時のルート4
昭和54年の正月を迎えることが出来ました・・・

●創業当時のルート5
借金返済と、仕入れ・経費支払い、毎日が地獄でした・・・

●創業当時のルート6
54年1月・・・大変なことになってしまいました・・・

●創業当時のルート7
愛知県警、交通指導課、〇〇 と言う名詞を持った人が尋ねてきました・・・

●創業当時のルート8
O氏が入社してくれて、57年12月に、夢であった、月販、100台・・・

●創業当時のルート9
「おとうさん、大変!!裁判所の人が、勝手に、家の中のものに・・・

●創業当時のルート10(最終回)
人生に敗北はない! 自分があきらめてしまった時が、敗北・・・


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