3ページ目   私の販売の原点

〇〇君が亡くなった・自殺だった「今だから言えること」

今月 3日 17時大阪南港溌 新門司行きに乗りました。

19時発の新門司行き フェリー大阪Ⅱ が待機していました。









2007年10月19日 20:30

今だから言えること
「〇〇君が、昨夜亡くなったんだって・・・」

「自殺だそうだよ・・家で首をつったんだって!」




これは、5年ほど前の話です。

彼は、今から28年前、昭和54年7月、当社にとって、2人目の男性スタッフとして入社しました。

整備士ということで、入社2~3年は、「当社の初期躍進」に大いに貢献してくれました。

入社当時、月間20台ほどだった販売台数は、5年後には、100台程になっていました。

この5年間の成長に、彼は大きく貢献してくれました。

ところが私が、整備の面で、頼れば頼るほど勤務態度は悪くなってきました。

昭和59年のあるとき、大型自動車の免許が取りたいとのことで、費用は負担することにしました。

免許が取れて間もなく新入社員の歓迎会がありました。

お酒が出るから、車では来ないように、と、皆に注意をしてありました。

当日、彼は車で行こうとしたので、注意したところ、「飲まないから大丈夫・・」とふてくされた態度・・

彼の「酒好き」を良く知っていた私は「飲まないなら、場がしらけるから、来るな!」ときつく言い渡しました。

プッ”とした態度で彼はどこかへ行ってしまい、歓迎会には、出てきませんでした。

翌朝・・彼が出社するなり、「やめさせてもらいます」・・

「今日中に荷物を片付けて出て行け!!」

これが、彼の第一回目の退社となりました。

彼はすぐ、トラックの運転手として働き出しました。

当社の費用で取った免許証で・・・それが私にとっては、とても悔しくて許せませんでした。


運送会社で3年ほど勤めたある日、「土、日バイトでよいので働かせてほしい」と言ってきました。

以前と違って、柔和な感じで言って来たので、バイトに来てもらうことにしました。

よく働き、感じも良く非常に助かりました。

バイトを2年ほど続けたあと、運転手を辞めてフルに勤めたいと申し入れがありました。

願ってもないと喜んで、再度きてもらうことにしました。

最初の頃はとてもよく働き、お客様の受けもよく、喜んでおりました。

3~4年経った頃又様子が変わってきました。

私の車が朝から置いてない日は必ず、友達と思われる人が数名・たむろ・するようになってきました。

私以外のスタッフは無視して、知人の車をさわっていたようです。

私が帰ってきてそれを見つけ、知人と思われる人々に出入り禁止を言い渡しました。

そのことが発端となり、第2回目の退社となりました。

その後は、以前と同じ運送会社に又、勤めるようになりました。


4~5年経って、また私のところへ来ました。

「年齢も40歳を越して、運転手は危険であるし、身体が付いていけない。」
「以前とは違って、ルートのため、家族のために、まじめに働かせてもらうから・・・」
家族のためと言われ・ほろり・としてしまいました。

今度こそは大丈夫とは、思いましたが・・・
社員としてではなく、「今度は請負の出来高払い」ということで来てもらうことにしました。
私には、請負だから、今度は大丈夫と言う思いがありました。

又数年たって、請負と言うことで、私の注意も及ばなくなって結果は・・・・
今までの、悪い状態に輪をかけた状態となってしまいました。

家族のため・・で始まった今回でしたので・・・注意をして・・半年後までの猶予を与えました。

半年たった時、もっと状況は悪くなっていました。

出て行ってもらうことに決定はしましたが、生活もあることだろうから、と、もう半年の猶予を与え出て行ってもらいました。

これが、第3回目の退社でした。



その後は、当社でしていたように、ある整備工場で出来高払いの請負で仕事をしていたようです。

冒頭の「彼が自殺した!」の話が私に伝わったのは・・・彼が当社を出て行った、一年後の夏でした・・・


葬儀に出させてもらって、奥さんと別れてしまっていたことをはじめて知りました。

あれだけ、「家庭が大切」と彼は行っていたのに・・・

家庭が大切なら・・・やはり仕事を大切にすべき・・・と・つくづく思いました。


遺影に手をあわせながら・・・
当社が彼を出さなかったら、この事態にはならなかった・・

でも・・・彼を、そのまま、おいていたら・・・
当社の方が、持たなくなってしまったのでは・・・

私の、決断は・・間違っていなかったはず・・・

・・私の、指導力がもっとあったなら・・など・・いろいろ、考えさせられました・・・


今だから言えることでした・・・・・・・・・・・合掌・・・




私は伝説の人??今だから言えること

30年以上お付き合いいただいている
ある会社の会長さんの別荘にご招待をいただき行ってきました。

別荘は浜名湖畔にあり
一日、非日常を 堪能させていただくことが出来ました。











2007年10月13日 18:05

伝説の人??「今だから言えること」

カローラ・ルミオン店頭発表会に、トヨタカローラ愛豊・豊田店へ行ってきました。

カローラ愛豊は、私が昭和41年から43年まで、2年だけですが、新車セールスとして勤めていた会社です。

ショ--ルームの入り口で、豊田地区の営業部長が私を見つけ、笑顔で迎えてくれました。

今日は本社から、専務が来ているから紹介すると言われ、紹介してもらいました。

専務さんの顔を見てびっくり、私の在籍時代の後輩だったのです。約40年ぶりの、懐かしい再会でした。

その専務さんが今度は、たまたま来られていた、トヨタ自動車の、カローラ店営業本部長に

「カローラ愛豊の、伝説の人」と私のことを紹介してくれました。

勝手にやめて、しかも40年も経った今、私を「伝説の人」と言ってもらえた事に、非常にうれしく思いました。



愛知トヨタに入社して、ガソリンスタンド勤務5年
グループ会社のトヨタカローラ愛豊が、パブリカ・カローラの新車の販売を始めると言うことで、転籍となりました。
愛知トヨタから新車販売経験者と私のような、未経験者含め、約120名で販売が始まりました。
 その120名の中で、自分は根拠もなく、絶対1番になろう・いや、なるんだと・とおもってい
ました。

〇 昭和41年8月  トヨタカローラ愛豊の新車販売、第1ヶ月目に新人の私が13台で、1番になりました。
  先輩セールスの人たちは、「あんなものは、”線香花火だ”続くはずがない!」と、陰で言っていたようです。  

〇 翌月、9月から、3ヶ月間の、「オールトヨタ、ハワイキャンペーン」が始まりました。
   
全国のトヨタ販売店から優秀セールスを選抜して、初めて海外へ招待するキャンペーンでした。
   全国から、約100名ほどと聞きました。
   当時ハワイへ行くには、1,000ドル必要でした。1ドル360円の時代です。36万円・当時の私の年収分です。
   発表されて即座に私は、「ハワイへ行くぞ!」と、勝手に決めていました。
   


  ● 9月からキャンペーンは始まりました。
   
 がんばり過ぎた私は、25日頃、急性腎炎で倒れてしまいました。
    見舞いに来てくれた人の話で、9月も14台販売した私が1番だったと聞きました。
    10月は1ヶ月間寝たきりでした。
    11月10日頃、出勤の許可がやっとでました。短時間のデスクワークなら、との、条件付きでした。
    キャンペーンが終わって、10日ほどで発表になりました。
    期間中37台達成で、私のハワイ行きが決まりました。
    愛知県のカローラ店5社、セールスマン数、1、300人の中から4人が憧れのハワイへ行くことになりました。


  ● ハワイで他社のセールスマンの引き抜きに成功!
    ハワイで同室になったのは、私と同じ地域を担当していた、他社の優秀セールスマンでした。
    私にとっては、死んでほしいくらいの「敵」でした。
    ハワイでの一週間でその「敵」を引き抜くことに成功して、会社への「おみあげ」にしました。
    会社ではびっくりされ・・・わたしにとっては、昨日までの敵が味方に変わって、おおいに、協力して貰いました。


〇  3月1ヶ月間の社内キャンペーン開催
  ● ハワイから帰ってすぐ、3月に販売キャンペーンを行うと発表がありました。
  ● 1番・・・8万円  2番・・・5万円 と言うものでした。(当時私は、基本給3万円手当て込み8万円位でした。)
    早速その夜、私は、高校当時の同級生が勤めていた、住吉町の、クラブ「ココボ」へ行きました。
    4月〇日に必ず支払うと言う約束で・・すいていたお店ほぼ貸切で、8万円使ってしまいました。
  ● 1番になり約束どうり、支払いをすることはできました。でも次の給料で多額の所得税には悩 まされました。


〇  1年が終わり年間順位が発表されました。
  ● 年間160台で私が1番でした。2位は確か、110台にも達していなく、差は、50台以上ついたと思います。


翌年、昭和43年春、出勤途上、鶴舞交差点で追突事故にあってしまいました。
その時の、保険会社からの賠償金、と、退職金をもって退社して、中古車会社を設立しました。
バックアップしてくれる親会社があってのことでした。
    
    
あんな、こんなで・・・私は 「トヨタカローラ愛豊」で「伝説の人」なのです。
  
   
 「今だから言えること」
でした。 



お店に勤めているO君を逮捕します・・!今だから言えること


昨日も 「ちょいCam」のお渡しがありました。

お客様にとっては 長い間 描いてこられた
「大人の夢」実現の 今日がスタートとなります。












株式会社ルートは創業から45年です。
その間 数多くのスタッフが 駅伝のごとくタスキをつないでくれました。
今回の「今だから言えることで登場する O君もそのうちの一人です。


2007年09月15日 19:57
今だから言えること・第8弾
「あなたのお店に勤めている、O君を逮捕します・・・」


今まで当社には、いろんな人がスタッフとして入り、そして出て行きました。

でも、社内で逮捕されたのは彼だけでした。


今から28年前・・・・

当時の当社は、販売台数がどんどん伸びておりました。

「雇っていただけませんか?」まだ二十歳位の小柄な感じの良い子でした。

履歴書と免許証、そして彼の感じの良さのみで、採用を決めました。

名古屋にいて、こちらでは住むところが無いとのことでアパートも手当てしました。

「住所を変えて住民票をください」と言っておきましたが、なかなか持ってきません。

きつく催促してやっと住所が変わりました。

住所が変わって数日後に、あえなく、「社内での逮捕劇」となってしまいました。

名古屋にいた頃、同居していた男友達の健康保険証を使ってサラ金10社程から
借りれるだけ借りて、ドロンをしてきたのでした。

以前自衛隊にいたとかで非常に行動的で快活な子でした。
私が、O君と呼ぶと、「ハイッ」と快活な返事と共に、両手を腰にきちっとあてがい、
必ず駆け足で来てくれました。私はO君が大好きになりました。

逮捕後警察から連絡がありました。
金融会社各社と、名前を使われた友達は、「勤務先がお金を立て替えてくれれば告訴を取り下げる」
とのことでした。

本人からは「助けてください・・・お願いします!お願いします!!」の手紙も届けられました。

私は名古屋の町の金融やさんを、お金を払いながら回りました。合計170~180万円だったと思います。
苦しいときでしたが、彼のために・・・が、自分にとって、とてもさわやかな気持ちにしてくれました。

その後、1年か1年半で、立て替えたお金は、がんばって返してくれました。

そして間もなく残念なことに、彼は実家へ帰ると言うことで退社してしまいました。

実家のある神奈川県で運送会社に就職したとの手紙が最後でした。

その後の連絡はまったくありません。


両手を腰に駆け足をしている・・彼が・・今でも懐かしく思い出されます。


今だから言えること
でした。







お客様の車30台水没! 今だから言えること

昨日 9月10日 ユーズネット豊田
日没直後の空です。

平和そうな空ですが・・・

明日9月11日は 魔の日 9・11 です。





2021年9月11日の今日 21年前の 
2,000年9月11日 あの悪魔の日を思い出して
7年後 2007年9月11日のブログに書きました。

ブーログが開設されたのは2007年

開設当初 「今だから言えること」をシリーズで書いていました。
思い出して再度原文のまま投稿しました。

2007年09月11日 19:19

「今だから言えること」・第7 弾
平成12年9月11日・ 忘れもしないこの日、当社を豪雨が襲いました。

東海豪雨でした。

当社の西の展示場(現在の、ユーズネット錦)が、すっかり、濁流に浸かってしまいました。

すぐ西を流れる、安永川が氾濫してしまったのでした。

その日、夜11頃、心配で、見回った時は、一番低い位置の車でもタイヤ幅の半分くらいでした。

これくらいなら大丈夫、と思ったのが大きな間違いでした。

うとうとして、激しい雨の音で目を覚まし、恐る恐る展示場を見てびっくり!

な・なんと!屋根が少ししか見えていないくるま・・・窓の半分までつかったくるま・・・

もう手のつけようがありませんでした。
 
お客様から預かったくるまが30台ありました。

買っていただいて、お渡し待ちのくるま・・車検でお預かりしたくるま・・修理でのお預かりのくるまなどなど・・でした。

展示していた、中古車も20台~30台水に浸かってしまいました。

お客様のくるまをどうしようか・・・一番の悩みでした。

ちょうどその頃、雪印が不祥事を起こし、経営者の姿勢が厳しく問われていました。

そうだ、天災とは言え、お客様にとっては大切なくるま・・・

決断しました・・・買っていただいてから何年経過していようが、買っていただいた値段で引き取ろう・・・

その中には、200万円で買っていただき、5~6年経過していたくるまもありました。

計算したら、お客様のくるまのみで、約3、000万円の負担になります。

ちょうど、この年の秋に、ユーズネット豊田北、翌年1月に、ユーズネット美里の出店計画とかさなってしまいました。

「こんな時期だから、2店の計画を白紙に戻すべきではないか」・・・お金はどうする?・・・大変悩みました。
 
被害にあって、悩んでいた私のところに、朗報が届きました。

豊田市から、水害の被害を受けた企業に緊急融資の話でした。

感謝をしながら融資を、3、000万円受けることになりました。

難産ではありましたが、おかげさまで、ユーズネット4号店のユーズネット豊田北、5号店ユーズネット美里は産まれました。

今ではこの時に産まれた2店が核となり、ユーズネットグループは成長することが出来ました。
 
緊急融資で早い対応をしてくれた、豊田市にいまでも大変感謝しております。


豊田市民にとって無くてはならない、良い会社にすることが、「恩返しになること」と思っております。

今日は9月11日、あの日からちょうど7年の今日・・・

・・・今夜も、あの日を思い出させるように、雨が激しくなってきました・・・・

もう、浸水はまっぴらです・・・・


今だから言えることでした・・・・



お話があります 彼女に こ・子供が! 今だから言えること

九州 長崎道 大村湾パーキングエリア

8月から9月にかけて 九州各地を異常な豪雨が襲いましたが

私が通った 9月6日

この日は さわやかな空が拡がっていました。







ブーログが始まった2007年7月から 私はブ ログに
「今だから言えること」をシリーズで書いていました。

42年前の出来事を 14年前 のブログ
「今だから言えること」第6弾で書きました。
その時は大変な思いをしましたが、今ではとても懐かしい話として思い出されます


屋久島
「お話があります。困っています。コ・子供が産まれるんです。」


予定日は、来年1月、あと5ヶ月とのことです。

昭和54年2月に、募集張り紙を見て、入社してくれた、男性1号スタッフのKクンです。

「社員募集、重労働・低賃金に耐えられる人」と書いた張り紙を見て、入社してきました。

Kクンが私に話したのは、入社して、半年後の朝でした。

「困ることなんか無いじゃないの、おめでとう”じゃない?」

それが、彼女の親には、まだ話してなく、話せば、「すぐ帰って来い”」と、ど叱られる!と、小さくなっていました。

彼女の実家は、鹿児島県の屋久島で、漁業を営んでいるとのことでした。

「よしわかった。俺が一緒に行ってあげるから、彼女と準備をしなさい。」

当時の当社の状況は、くるまを売ることが出来るのは、私だけ・・加えて、多大な借金で、文字どうり「火の車」
の状況でした。

急ぎ準備をし、旅費も何とか工面して、3日後には屋久島の空港に降り立つことが出来ました。

実家は、屋久島の南端、「中間」と言う部落にあり、家の前がすぐ海岸でした。

海側には扉はなく、板縁からあがらせてもらいました。奥に、ござが敷いてありそこに6人用の座卓がおいてありました。

奥側左にお父さん、右にお母さんが座られました。

ゴザに額をすりつけて、まず、監督不行き届きをあやまりました。

Kクンはこれからが期待できる好青年。今後は力を合わせて立派な会社にします。どうか、結婚と豊田での生活を認めてほしい。とお願いしました。

びくびくしながらでしたが、さすがに、娘さんの大きいおなかを前にして、だめとは言われず、すべてを許してもらいました。

その夜は、ゴザの上に布団を敷いてもらい休みました。
直接聞こえる波の音がとてもさわやかに思えました。

その翌日になり台風が接近していることを知りました。今夜、屋久島直撃との予報でした。

とびらのない、あけっぴろげの家に、板を打ちつけたり、家の外のものを片付けたり、台風に備える準備を手伝いました。

その夜、予報どうり台風は直撃でした。早々に停電になりました。

真っ暗な中、荒れ狂う波・・風の音・・雨の音・・とても寝付ける状況ではありませんでした。

翌日の飛行機は欠航になってしまいましたが、何とか役目を果たし、1日遅れで豊田に帰ってきました。


Kクンの結婚式は、急ぎ12月に行われました。

そして、1月か2月に長女が無事誕生しました。

その後Kクンは、岡崎店の店長を最後に退社してしまいました。
岡崎店の業績がいまひとつで、私が厳しい言葉で追い詰めてしまったのが原因だと思います。

もっと、スタッフを思いやる、やさしい指導が出来なかったかと、反省しております。
Kクンの退社から多くを学ばせてもらいました。


あの時の、長女は、今、27歳です。
結婚して、子供さんにも恵まれたと、うわさに聞きました。
Kクンも、今では、いいおじいちゃんになっていることと思います。


今だから言えることでした。




四国で死亡事故!「今だから言えること」



4日(土)・5日(日) 久留米キャンピングカーフェアに出展してきました。

フェアの翌日、長崎県島原しの販売店さんと 長崎市の販売店さんを訪問してきました。

販売店さんからは ご意見や、ご質問を多くいただき 「ちょいCam」に対する熱意を

ひしひしと感じました。

そして 7日(火)昼頃 帰ってきました。


9月3日大阪南港 夕方発の新門司行きフェリーに乗船。
京都近くまで ものすごい雨でしたが やっと雨も上がった大阪南港の景色です。
 

大阪南港を出港して約1時間ほどで 明石海峡大橋の下をくぐります。
明日の朝 5時半着、2時間走って 朝のオープンに間に合わせなければいけません。
朝が早いのでそろそろ寝ます。



久留米に近くの 九州道で事故渋滞が発生 どうしようと 焦りましたが
何とか 9時半のオープンに間に合いました。天気は良いが 今日は暑い1日となりそうです。
熱中症にならないように、水分補給を。



キャンピングカー人気は、全国どこでも相変わらずで ありがたいことです。
「ちょいCam」コーナーには たくさんのご来場者が集まりました。
左隅、電話をしているのは 同行した 美鹿社長。




イベント終了で 美鹿社長を 久留米駅まで送り 私は明日早朝 熊本から 島原へフェリーで渡ります。
北熊本サービスエリヤで車中泊です。
コロナ禍で多くの人が外出を抑えているからでしょう、乗用車駐車場には 私の車が さみしそうに「ぽつん」と・・・
後の トラック駐車場はぎっしりです。



7時半 熊本港発 島原行き フェリーです。
高速フェリーです。 時速60キロで走ります。 カッコいい形の船です。




7時半熊本発 島原には 30分で到着します。
通常のフェリーの半分の時間で済みます。
大きなフェリーにお客は 私以外 数名しか乗っていません、しかも軽ばっかりでした。
出発からほどなく 島原半島が近くなってきました。

こんなことでは フェリー会社の経営は苦しいのでは・・・
早くコロナが収まってください!と祈る気持ちで 船を降りました。




長崎市の販売店さん訪問を終え
九州長崎道の 大村湾パーキングエリア。
大村湾の見える 「恋人の聖地」 
私は「聖地」独り占めでした。 
ここにも人の姿はありません。



高速のパーキングエリアの静けさ・・・
熊本フェリーの静かさ・・・
「恋人の聖地」の静かさ・・・

対照的な キャンピングカーフェアの賑わい
この業界に携わることのありがたさをしみじみ感じました。






2007年8月18日

「今だから言えること」第5弾


「●●さんが、四国で死亡事故を起こしました。」



車が横転して、同乗していた女性が社外に放り出されて、車の下敷きになって亡くなった・・・

忘れもしません。昭和53年8月・・トヨタ自動車の夏休みの出来事でした。

当時のルートは、スタッフなし、私一人ですべてをこなしておりました。

あの日、夕方までの1~2時間、親しい人に留守番をたのんで、書類の仕事か、仕入れのため、外出しておりました。

●●さんのお車は、翌日がお渡しの予定で準備はできておりました。

当時のルートは、自動車保険の代理店資格は無く、保険加入はお金のみ預かり、正規の代理店にお願いしておりました。

対人1億・対物200万・搭乗者傷害500万という内容でお金は事前にお預かりしておりました。

お渡し予定の明日、保険の加入手続きはお願いしようと思っておりました。

留守番の人の報告も無く、そのお客さんが乗って行ったなんて思ってもいませんでした。

翌日の朝・・「●●さんが死亡事故を起こした!」と言う代理人からの電話でびっくり!!

まさかと思って、裏へ車を確認に行き、初めて乗っていかれたことを知り、血の気が引きました。

「500万円の搭乗者保険に加入しているはず。すぐ手続きをしてほしい・・・」

保険加入が出来ていなかった旨をはなし、

平謝りの上、代理人との話を重ね

何とか月々の支払いで堪忍してもらうのに1ヶ月を要しました。

この一件が無くとも、当時の自分にとっては、天文学的金額の借金を負っていました。

その上、搭乗者保険の賠償分、月々 170、000円、30ヶ月払いが、づっしりと、のしかかりました。

「憂きことの、尚、この上に積もれかし、限りある身の力試さん」

この事故の約半年前、どうにもお金が回らなくなり、亡くなった母親に、お金を借りに行きました。
(後でわかったことですが、当時母親は、3、000万円以上持っていました。)

その時母親は、頑として1円のお金も貸してくれませんでした。

でもお金のかわりに、この言葉をくれたのでした。

これは、江戸時代の、熊沢蕃山という人の言葉だそうです。

この、憂きことの・・・を唱えながら歯を食いしばったものでした。


あの時の、私のつらかった経験から学んだ、保険に対する心が グループ全体に受け継がれております。

そして、今では・・・
くるまは、ユーズネット・・・保険もユーズネット・・・として、お客様に安心をしていただいております。

今朝、母親のお墓参りをしてきました。
私に力を与えてくれた、「憂きことの・・」に改めて感謝をささげました。

「今だから言えることでした」


ラブホ テレビ窃盗事件 今だから言えること

今週末・・9月4日(土)・5日(日)
久留米キャンピングカーフェア 開催です。

今日(3日)昼頃 豊田を出発
大阪南港から 17時発のフェリーに乗ります。
新門司港に翌日(4日)早朝着
開場の久留米までは 120キロほど走って 
開場に搬入 9時半の開場に間に合わせます。

今回は、美鹿社長と同行ですので 
多少の時間的無理は 承知の上です。


持っていく展示車は エブリィワゴンベースの
「ちょいCam豊」です。
屋外の展示ですので 穏やかな天気になることを祈っています。
九州地区のお客様のご来場をお待ちいたしております。




14年前 ブーログが始まったころに
シリーズで書いていた「今だから言えること」
原文のまま掲載します。

2007年8月9日
ラブホ テレビ窃盗事件
  今だから言えること 第4弾

「おとうさん!ゆうべ、誰と、どこへ行っていたの?」



株式会社ルートを設立するまでは、こんな電話が、自宅からよく掛かりました。


株式会社ルートを設立したのは、創業から7年後の、昭和58年10月でした。

会社設立までは、すべてに個人(井上政彦)の名前が出てきました。

銀行・警察の古物営業許可・車の登録等々・・・

今は、くるまを買ってきたり、下取りをしたりすると、全車両(株) ルートの名義にしております。

個人営業の当時は、すべて、井上政彦名義にしており、住所は緑区の自宅でした。

車検、修理などでお貸しする代車もすべて、私、個人の名義になっていました。

駐車違反・放置車輌・スピード自動取り締まり等、すべて自宅へまず電話が掛かりました。



あの事件も、まず自宅へ掛かった静岡県警の電話からでした。

昭和57年12月26日だったと思います。
妻から、電話が掛かってきました。

「お父さん、ゆうべ誰と、どこへ行っていたの?」と言う電話でした。


「昨日、自分がどこでどんな仕事をしていようが、いらんこった!」と、思いはしたものの、何か疑われているな、と直感で分かりました。


電話の内容をよく聞くと・・・

愛知県との県境に近い国道1号線沿いのラブホテルを利用したカップルが、帰りにテレビを持ち帰った!
ナンバー照会をしたところ、井上政彦さんのくるまでした。というものでした。

「本人との連絡が取りたい」・・・と言うことで、びっくりした妻から私への電話となったのでした。

一生懸命働いていると信じていた夫が、どこかの女性とラブホテルへ・・・

事もあろうに、そのホテルから、テレビを盗んで逃げた!

警察から電話を受けた、妻がびっくりするのも当然です。

テレビを盗んだ車は、当社が代車としてお客さんに貸したものでした。

静岡県警にはお客さんの、名前と連絡先を教え、間も無く逮捕となりました。

お客さんの中にはひどい人もあります。

すべてのお客様が神様であって欲しいと願ってはいますが・・・思いどうりにはなりません。

お客様はよい店を選ばれます。
当社もよいお客様のために、「お客様を選ばなくては」と、思っています。

「ラブH・テレビ窃盗事件の犯人」に対し、私は厳しく対応しました。

このような人は必ず言います。

「お客に向かって、どういう言い方をするんだ!」・と・・

お客さんは何しても、店側はぺこぺこするものだとでも思っているのでしょう。

その後、例の犯人の顔を見た事は一度もありません。


「ラブH・テレビ窃盗事件」



今だから言えることでした。



犬の留守番なら 人件費無し 「今だから言えること」

昨日の昼
いつものように、元宮町のセブンイレブンへ行きました。

顔見知りの店員さん、仕事を終えて 自分の買い物をしていました・・・

軽い会話で、「今日は私の誕生日だよ」 

「おめでとう!」「ところで井上さんおいくつになられた?」

「79歳だよ」

「お茶飲まれる?」

「飲みますよ」

店員さん 冷えた「おーいお茶」を持ってきて
レジーで他の店員さんに支払って

井上さん「誕生日祝い!」
「えっ!ありがとう」

意外な場所で、意外な方から、意外なプレゼント
とても心に残る、誕生祝となりました。





 

2007年8月2日 犬の留守番なら人件費無し
「今だから言えること」・・・ 第3弾


私の席の後ろに、犬の写真が飾ってあります。

昭和54年2月にお客様から生まれたばかりのオスの小犬をもらってきました。

ナッキーと言う名前をつけてもらいました。

いじめたり、可愛がったり、自分自身の気分で付き合っていました。

お風呂も一緒に入りました。嫌がっていたようですが、きれいに洗ってあげました。

そして、夜はいつもいっしょの布団で寝ていました。

でも必ず朝になると彼は布団の外にでていました。

きっと、私のねぞうが悪かったのを嫌ったのだと思います。

夜、喫茶店や食堂へ残飯をもらいに行っておりました。

残飯をもらって帰ってくると、しっぽを振って、喜んで食べてくれました。




昭和54年2月生まれ

平成5年8月11日没、享年14歳





当時「ルート豊田」と言う名前で、貸し店舗の前に数台のくるまを並べて営業していました。

くるまの整備は、店舗裏の空き地でしておりました。

裏で整備をしている時に、お客様が来られてもわかりませんでした。

昼間、ナッキーは事務所の中にいてもらいました。

お客様が来られたら「わん、わん」と、吠えて知らせてもらうように教え込みました。

私が事務所の中にいる時は絶対に吠えないようにする。

私が外にいて、吠える声を聞いて事務所へ入ったら吠えるのを必ず止める。

私がお客様と商談している時は、伏せているようにも教えました。

ナッキーは犬とは思えないほど利口でした。

ナッキー本人も自分が犬だとは思っていなかったようです。

その彼が亡くなる少し前に、住み慣れた貸し店舗を壊して、今の店舗を作り、引越ししました。

新店舗に彼はなじめず、嫌がっておりました。

環境の変化が元で、以前から患っていた癌が進行して、間も無く亡くなってしまいました。

亡くなる前日の夜、「くーん・くーん」と私を呼びました。

頭を抱いてやるとほっとするのか泣き止みました。その夜は一睡もせず彼を抱いていました。

抱いてやりながら、ナッキーとの14年間を思い出し、涙があふれて止まりませんでした。

ナッキーの目からも涙があふれていました。

次ぎの日は私の長男の結婚式でした。

朝心配しながら来てくれた苅谷部長に後を頼み、後ろ髪を引かれる思いで結婚式に臨みました。

ナッキーが亡くなったと聞いたのは結婚式が終わった後でした。

長男の結婚式に、仲人がドタキャンと言う前代未聞の、考えられないことがおきました。

結婚式はなんとか、代理の仲人で、とどこうりなく終えることは出来ました。

今思えば、ナッキーが亡くなる時、必死に私をそばにいさせようとしたのだろうか?・・・・

今年8月11日・・・
15回忌を迎えるに当たり、天国のナッキーに改めて、感謝の意を届けたいと思います。

合掌


人件費も払えない、苦しい時、犬に「店番」をしてもらっていた!


「今だから言えること」でした。




「1日1万円値下げ!」・・今だから言えること・・

おかげさまで・・
明日、8月31日 79歳の誕生日を迎えることができます。

自分が創業した 株式会社ルートは 今年 45周年を迎えることが出来ました。

昨日の夕方 豊田市西方の夕焼け


大空は、昔も今も変わりませんが

自分の人生も 会社も
 
いろんなことが起き

変化して現在があります。

地域ブログ ブーログが始まった14年前 に
過去の出来事を思い出して 今だから言えること」・・

自分のブログに書いていました。

2007年 7月 25日 「今だから言えること」第2段・・
以下は そのままコピーしたものです。



二十何年ぶりに「ユーズネット豊田」へ来られたお客様は、必ずおっしゃいます。
ここは、昔「1日1万円値下げ」をやっていた、ルート豊田かね?と。
それ程「1日1万円値下げ」のくるまやとして浸透しておりました。



当社は創業から7年間、R248沿いの貸し店舗3店の北端の一店のみでの営業でした。

店舗は二階建てで、一階が事務所でその前の駐車場に4~5台並べて営業しておりました。

二階で私は寝起きしておりました。

小さな店で、超低価格のくるまばかりを扱っておりました。

月に3~4台の販売から始まり、創業4年で月に40台ほど売れるようになりました。

創業から6年経った、昭和57年の12月には1ヶ月で100台の販売を達成するまでになりました。

その間、いくら安いくるまと言えども、どうしても売れないくるまが出てしまいました。

安いくるまで、いつまでも売れなければ、解体屋さんで処分してもらうより方法はありませんでした。

何とかしなければ・・・と、いろいろ考えてやってみました。

○5円・10円の価格表示で売る。

○月が変る毎に、1万円づつ値下げしていく。

○10日ごとに1万円づつ値下げしていく。

○日曜日に、1時間1万円値下げもやりました。

◎そしてたどりついたのが「1日1万円値下げ」でした。

「1日1万円値下げ」を始めてから、長期在庫がなくなり、おまけに知名度も上がりました。
びっくりしたことに、ほとんど、赤字にならず3~4日で売れたことでした。
今日は何が出てる?いくらか?

通りすがりのくるまが急ブレーキを踏むことにより、頻繁に追突事故がおきました。

おまわりさんがどうして、ここでいつも事故が起きるのか?と、不思議に思っていました。

おまけに、事故を起こされた人に親切にすることによって、販売台数はどんどんあがりました。

おまけの第2に、事故で困っている人に親切なお店だと言って、警察官も何人か買ってくれるようになりました。

おまけ第3もありました「交通警察の運営に寄与」と豊田警察署長から感謝状をいただきました。

実は、事故を起こされた双方のくるまを見て、古いくるまの方を選んで大切に手助けしていました。

当時の私にとっては、新車を数年で乗り継いでいる人は、お客様予備軍ではなかったのです。

「1日1万円値下げ」は業界紙で紹介され全国で取り組まれましたが、3ヶ月も続いたと言うはなしは聞いたことがありません。

ユーズネット豊田は、新車にシフトするまで、約25年間続けました。
継続は力なり! どんな広告より知名度を上げる効果があったようです。

「1日1万円値下げ」で、タダになってしまったこともよくありました。
このくるまタダ!、諸経費のみ!

「もってけ!!どろぼう!!」 と、くるまに書きました。

今では、非常に懐かしく思い出されます。

「今だから言えること」です。


懐かしい14年前の記事 「今だから言えること」

私がブログを始めたのは・・・

15年前 64歳の時 と記憶しています。

始めてから、1年ほどたった 2007年7月に

グループ会社の株式会社ルーコが 地域ブログ

ブーログを始めるということで、ブーログの開始を機会に

私のブログをブーログに引っ越して現在に至っております。
(現在ブーログの主催者は株式会社ルーコから他社に移っています)

あれから14年間 今日のこのブログ記事で 1,794回目の投稿となりました。

平均すると 2・6日に1回の投稿となっています。

最初のころ・・・自分の過去の暴露記事・・「今だから言えること」

をシリーズで 書いていました。


最近、古いブログを読み返すことがよくあります。

その中から ブーログが始まってまだ1ヶ月も たっていないこの記事

「今だから言えること」第1弾に目が留まりました。

懐かしかったので 再度そのままコピーしました。



2007年7月18日
今だから言えること 第1弾


私の生年月日・昭和17年8月31日・午年

最近、ブログを書いていますと、昔のことがよく思い出されます。
あんな事もあった、こんな事もあった
間も無く65歳を迎えるにあたって 「今だから言えること」
思い出すまま、書いてみたいと思います。

30年近く前になります。

お金と時間のなかった私でも、月に1度か2度は、大衆食堂へカップ酒を飲みに行っていました。
その日も、焼きそばと、1合の大関カップを、2・3杯飲んだと思います。
殿様のような気分になり、自分の店(創業した時の貸し店舗)までR248を歩き出しました。
たぶん、久保町のあたりで、飲んでいたと思います。

少し歩いたところで、はっと気がついたことがありました。
何と、どこからもってきたのか、大売り出し ののぼり旗を右肩にかついでいるではありませんか。


かついだまま気分よく国道248号の西側の歩道を、豊田警察前まできました。
そこへ、運悪くか、運よくか?パトカーが帰ってきました。

「ちょっと、署のなかへ入って」
「この旗は何処から持ってきたね?」

「わかりません・・・」

「あんた、どこのひとだね?」
「名前は?仕事は?」

「すぐ南で、中古車を売っています。名前は ・・・・ ・・・・と言います」

「このままだと窃盗になるよ・・」
「隣組の人だから、返せば無かったことにするから・・・」
「一緒にどこから持ってきたか、探しに行こうか?」
「さー、パトカーに乗って!」

まだ酔いの残っていた私は、パトカーにお客さんの気分になって、旗を返しに乗り込みました。

返し終わって、おまわりさんは、親切に私の店まで送ってくださいました。

窃盗で捕まらずにすみました・・・・・

「親切なおまわりさん、ありがとうございました。」

「今だから言えること」でした。


一番古くからのお客様

ユーズネットで おそらく一番古くからのお客様です。

43年前 昭和53年秋のことです

名古屋市から来られた女性のお客様に

すでに絶版車となって 車名も消えている

コロナ2ドアハードトップの 黄色い車を買っていただきました。
(こんな時期なので トヨタからコロナの車名が消えて良かったです)


そのお母さんには あれから・・・43年間   10台以上
ユーズネットの車ばかり 乗り継いでいただきました。

当時、4~5歳だった娘さんも すでにユーズネットの車ばかり
何台も乗り継いでくださっています。

今日、最初の車から 43年目に プリウスα のお渡しがありました。

すでに70歳代になられた お母様から 「これが最後の車」との発言があるのではと
内心思っていましたが そんな話題には 一言も触れられず ホッとしました。

お孫さんは 今年15歳です。
あと3年で免許取得年齢になられます。

3世代 ユーズネットのお客様になってくださるのを楽しみに待ちます。

一番右端 マスク姿がお母さん 二人並んだ右が娘さん その左が3代目息子さんです。

ユーズネットは、よいお客様に支えられて今があるのだなぁと
あらためて思いました。

感謝の気持ちでお見送りをしました。


百年企業まであと55年!


株式会社ルートは今年創業45年です。 

本日 美鹿社長が 50歳の誕生日を迎えました。

 50歳を迎えた美鹿社長に

私・・「社長も人生折り返し点まで来たね」

美鹿社長・・「いやいや自分は105歳まで生きるのでまだ半分来てないよ

105歳まで生きて株式会社ルートの創業百年を確認するからね」

先代の私からバトンを受けて2年8ヶ月

5年後の創業50年は、一つの通過点としか見ていない

その先を見つめる社長の笑顔に自信が見て取れました。


「ハッピバースデバースデー トゥ ユー音符
スタッフから送られた 50÷10=5本のローソクを一気に消してご満悦 美鹿社長


ちょいCam本部とユーズネット豊田のスタッフは
写っていない リモートワークの2名とシャッターを切っているスタッフを加えると総勢13名です。

全員マスクをしていた時代があったんだ・・と
何年か先・・・思い出されるに違いない 記念写真です。


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