〇〇君が亡くなった・自殺だった「今だから言えること」
今月 3日 17時大阪南港溌 新門司行きに乗りました。
19時発の新門司行き フェリー大阪Ⅱ が待機していました。
2007年10月19日 20:30
今だから言えること・
「〇〇君が、昨夜亡くなったんだって・・・」
「自殺だそうだよ・・家で首をつったんだって!」
これは、5年ほど前の話です。
彼は、今から28年前、昭和54年7月、当社にとって、2人目の男性スタッフとして入社しました。
整備士ということで、入社2~3年は、「当社の初期躍進」に大いに貢献してくれました。
入社当時、月間20台ほどだった販売台数は、5年後には、100台程になっていました。
この5年間の成長に、彼は大きく貢献してくれました。
ところが私が、整備の面で、頼れば頼るほど勤務態度は悪くなってきました。
昭和59年のあるとき、大型自動車の免許が取りたいとのことで、費用は負担することにしました。
免許が取れて間もなく新入社員の歓迎会がありました。
お酒が出るから、車では来ないように、と、皆に注意をしてありました。
当日、彼は車で行こうとしたので、注意したところ、「飲まないから大丈夫・・」とふてくされた態度・・
彼の「酒好き」を良く知っていた私は「飲まないなら、場がしらけるから、来るな!」ときつく言い渡しました。
プッ”とした態度で彼はどこかへ行ってしまい、歓迎会には、出てきませんでした。
翌朝・・彼が出社するなり、「やめさせてもらいます」・・
「今日中に荷物を片付けて出て行け!!」
これが、彼の第一回目の退社となりました。
彼はすぐ、トラックの運転手として働き出しました。
当社の費用で取った免許証で・・・それが私にとっては、とても悔しくて許せませんでした。
運送会社で3年ほど勤めたある日、「土、日バイトでよいので働かせてほしい」と言ってきました。
以前と違って、柔和な感じで言って来たので、バイトに来てもらうことにしました。
よく働き、感じも良く非常に助かりました。
バイトを2年ほど続けたあと、運転手を辞めてフルに勤めたいと申し入れがありました。
願ってもないと喜んで、再度きてもらうことにしました。
最初の頃はとてもよく働き、お客様の受けもよく、喜んでおりました。
3~4年経った頃又様子が変わってきました。
私の車が朝から置いてない日は必ず、友達と思われる人が数名・たむろ・するようになってきました。
私以外のスタッフは無視して、知人の車をさわっていたようです。
私が帰ってきてそれを見つけ、知人と思われる人々に出入り禁止を言い渡しました。
そのことが発端となり、第2回目の退社となりました。
その後は、以前と同じ運送会社に又、勤めるようになりました。
4~5年経って、また私のところへ来ました。
「年齢も40歳を越して、運転手は危険であるし、身体が付いていけない。」
「以前とは違って、ルートのため、家族のために、まじめに働かせてもらうから・・・」
家族のためと言われ・ほろり・としてしまいました。
今度こそは大丈夫とは、思いましたが・・・
社員としてではなく、「今度は請負の出来高払い」ということで来てもらうことにしました。
私には、請負だから、今度は大丈夫と言う思いがありました。
又数年たって、請負と言うことで、私の注意も及ばなくなって結果は・・・・
今までの、悪い状態に輪をかけた状態となってしまいました。
家族のため・・で始まった今回でしたので・・・注意をして・・半年後までの猶予を与えました。
半年たった時、もっと状況は悪くなっていました。
出て行ってもらうことに決定はしましたが、生活もあることだろうから、と、もう半年の猶予を与え出て行ってもらいました。
これが、第3回目の退社でした。
その後は、当社でしていたように、ある整備工場で出来高払いの請負で仕事をしていたようです。
冒頭の「彼が自殺した!」の話が私に伝わったのは・・・彼が当社を出て行った、一年後の夏でした・・・
葬儀に出させてもらって、奥さんと別れてしまっていたことをはじめて知りました。
あれだけ、「家庭が大切」と彼は行っていたのに・・・
家庭が大切なら・・・やはり仕事を大切にすべき・・・と・つくづく思いました。
遺影に手をあわせながら・・・
当社が彼を出さなかったら、この事態にはならなかった・・
でも・・・彼を、そのまま、おいていたら・・・
当社の方が、持たなくなってしまったのでは・・・
私の、決断は・・間違っていなかったはず・・・
・・私の、指導力がもっとあったなら・・など・・いろいろ、考えさせられました・・・
今だから言えることでした・・・・・・・・・・・合掌・・・