2ページ目   私の販売の原点

39年前の「大入り袋」

39年前・・・
昭和58年12月 8日(土) 
    12月 9日 (日) 2日間の販売台数が 創業以来の新記録18台でした。

当時勤務していたスタッフが 懐かしい「大入り袋」を大事に持っていて
見せてくれました。
中に入っていた金額は 1万円だったとのことです。

大入り袋をスタッフに配ったということは、この2日間の販売台数が
私にとってとてもうれしかったのだと思います。






創業から7年 昭和58年(1983年)当時 貸店舗の前に 4台を展示して
道路を隔てた田んぼの中の車両置き場に 予備車をたくさん持って販売していました。

一番道路側の車には 「1日1万円値下げ!」という看板が掲げてあります。

昭和58年当時 在籍者は10人ほどだったと思いますが・・・
現在1人も残っていません。
当時のお客様 ご本人、子供さん、お孫さんと
担当者は変わっても、多くが今でもお付き合いくださっています。

会社経営は・・・
「ゴールのない駅伝だ」 という思いをあらためて強くしました。



1都3県に緊急事態宣言が発せられると・・・


ある専門家の先生 が

「新型コロナ感染拡大の第6波は

2月4日がピークであろう」と 予測されました。

ピーク時 関東地区1都3県合計 一日新規感染者は

7万人~8万人とも予測されました。

ピーク日が予測されているなら・・・

その後は、感染者は急激に減ると予測されています。

そんな ピーク予測日 ぎりぎりに緊急事態宣言が

発せられるのでしょうか?

個人的には やめて欲しいと思っています。



2月10日(木)・11日(金)・12日(土)・13日(日)

千葉県幕張で キャンピングカーショーが開催されます

キャンピングカー業界 最大のイベントです。

来場者予測・・・4日間で 5万人とも6万人ともいわれています。

1社で30台も40台も出展される予定の

大手キャンピングカーのビルダーさんもあります。

今、準備のまっただなか 大変なご苦労と察せられます。

弊社は、最小で軽キャン1台のみの展示予定でも

大変なのですから。


早く、ピークアウトしてほしい!

願わくば、直近になって 

関東地区に緊急事態宣言が 発せられるような事態にならないことを

今はただ祈るのみです。



昨年、開催前準備完了のジャパンキャンピングカーショー


昨年も 会場で 最小の弊社「ちょいCamきゃん」ブースでしたが
お客様は、絶えることがありませんでした。
カタログは600用意しましたが、足らなくなってしまったほどでした。


4月 豊田キャンピングカーフェアの開催を決定

第5回 豊田キャンピングカーフェアin豊田スタジアム
             を開催します。

開催日時・・・ 4月16日(土)・17日(日) 2日間とも9時30分~17時00分 

開催場所・・・豊田スタジアム西イベント広場

主催  ・・・ちょいCam発売元 / 株式会社ルート

入場者目標 3,500名

入場無料 駐車無料









写真は
1~4回開催時の模様です。



過去は 12月と2月開催で とても寒い日が多かったですが
第2回 2019年2月開催時は ご来場者4,500名と最多でした。

今年は気候の良い4月開催で多くの来場が期待されます。



最大50台まで、出展社を募集しています。
締め切り 2月28日

詳しくは、株式会社 ルート キャンパー事業部 担当井上まで
            お問い合わせください。 電話 0565-31-7167


片目が10年入らないダルマさん、疲れが見えだした

私のいる事務所に
ずっと 片目だけの赤いダルマさんが

ドーンと座っています。

10年前に 今でも親しくしている群馬県の ちょいCamきゃん販売店さんからいただきました。

大きなダルマさんだったので 大きな目標を託そうと
ダルマさんの頭に 「ちょいCamきゃん 全国 月販 必達100台」と書きました。

軽自動車のキャンピングカー「ちょいCamきゃん」の架装キットを全国向けに発売して 
2年ほど経った頃で、当時の月間販売は10台~最高でも15台程度でした。

あれから10年・・・いまだに 片目は入らないままです。

大きな目標を掲げることは立派に見え、聞こえがよいですが、

当時 軽のキャンピングカーの全国での販売台数は 年間200~300台であったと思われ
身の程知らずの恥ずかしい目標であったと反省をしています。

恥ずかしいことであったにしても、ダルマさんの頭に
ちょいCam全国 月販必達100台と大きく書いてしまっています。

2年程前から コロナが世界中でまん延し、3蜜が言われるようになり
全国で軽キャンピングカーにも 注目が集まりだした。

「ちょいCamきゃん」も販売台数が上がってきましたが、
ピークだったのは 昨年5月で 69台でした。

それ以降は、ベースにするダイハツ、スズキの新車が半導体の影響などで納車がとても遅れだした。

生産を依頼している家具工場の本業の家庭用子供椅子もコロナ禍で販売が伸びたそうで
生産キャパを越してしまったことなどで

軽キャンピングカー「ちょいCamきゃん」の販売は伸びていません。

しかし、だめなことばかり思っていても ダルマさんに両目は入りません・・・


明るい材料もあります。
それは・・・
〇 女性のお客様からの問い合わせが増えてきていること。
〇 30歳代、40歳代のちょいCamオーナーさんが増えてきているなど、お客様の層が一段と厚くなってきている。
〇 ダイハツのベース車が 昨年末モデルチェンジをしたことによる期待。
〇 昨年末に、全国で トヨタ・日産など複数の大手ディーラーがちょいCamの販売店に加わったこと。
〇 生産を依頼している家具工場が スタッフの増員と新しい生産機械を導入して増産が可能となる。

ダルマさん 10年以上片目で 目が疲れてしまいます。
今年は 是非両目を あけてあげないといけないと思っています。


胴の周り 120センチ とても大きなダルマさんです。
ちょいCam 月販 100台 必達 の文字が薄れてきて疲れが見えてきている様子。







先にいただいたダルマさんから 3年後
同じ群馬県の「ちょいCamきゃん」販売店の社長さんから もっと大きなダルマさんが届きました。
胴の周り 150センチあります。

最初のダルマさんに両眼が入ったら、次の目指すことを決めて 片目を入れようと思っています。


55年ぶり カローラの新車


(写真はトヨタ博物館ホームページより)
1966年11月発売の初代カローラ

私は 1966年(昭和41年)8月から 社命でトヨタの新車セールスになりました。
当時の販売車種は 空冷2気筒 800CCで エンジンがバタバタ音を立てながら 左右に揺れたパブリカでした。
販売方法は 今と違って一軒ずつ歩いて訪問していました。

競合車は、日産のサニー4気筒1000cc車とマツダの4気筒800CCのファミリアでした。
売っている自分でも、サニーやファミリアの方が静かでよい車だと思っていました。

私がパブリカのセールスになって4か月目に トヨタはカローラを発売しました。

サニーが1,000CCであったところ、カローラは 車幅を拡げ ゆとりの室内空間にして 

1,100CCで発売されました。

その当時のコマーシャルは・・「となりの車が小さく見えまぁーす」・・でした。

今ならちょっと問題になりそうな内容のCMでした。

車の良さと、CMがばっちりで もうサニーにも ファミリアにも負けません。

自分もカローラの新車を買って お客さんにすぐ見せることが出来るようにしました。

私は、このマイデモカーの効果もあって、一層売れるようになりました。

パブリカ・カローラ両方を売っていましたが、

カローラだけの販売で月に10台を下回ることはありませんでした。

私の車販売の原点はカローラでした。

1967年1年間の成績は,
マイデモカーの効果もあって 160台ほどと記憶しています。
セールス約120人中 ダントツのトップで 二位との差50台ほどでした。

カローラの新車を始めて買って・・あれから55年
今年11月、車を代える時期が来て迷わず、カローラの新車を買いました。

カローラと言う名前は変わっていませんが 55年の進化を日々感じています。


55年ぶりのカローラ、私の新車はカローラツーリングです。
私の出身会社、カローラ愛豊から納めていただきました。


いつかは新車で 40年・・

今日 新車を納車させていただいたお客様

40年以上前から ずっと中古車を乗り継がれてこられました。

ご夫婦で いつかは新車に乗りたいと 夢を抱きながら

安い中古車で 辛抱に辛抱を重ねてこられました。

この度 念願かなって 初めて 新車をご購入されました。

今日晴れて納車させていただいた 新車は 黒の ルーミーです。


お客様・・・ 「ありがとう 65歳になって おかげさまで 初めて新車が買えたよ」
      お客様から感謝の言葉をいただきました。



ご主人に 新車の使用方法をスタッフが車内で 説明してる間 奥様は外で待たれていました。
40年以上ご夫婦で求めた新車ご購入の夢を達成された喜びをかみしめるように
笑顔がこぼれていました。



弊社は 今年創業45年を迎えることが出来ました。

様々な客様に支えられて今日まで来られました。

感謝の心を忘れずに 日々精進してまいりたいと思っています。


出会いと別れパートⅢ 今だから言えること

東北キャンピングカーショーに出展のため
名古屋から 仙台まで フェリーで移動しました。




現在 2021年ですので
今から12年前のお話しで、
「今だから言えること」です。


2009年10月25日 19:33

出会い、と、別れ・・


私の名刺に描かれている、わたし、です。





私は、仕事上がほとんどですが、、

平均すれば、1日に、5人ほどの方々と名刺交換をします。

たった、5人程なのですが、1月を、25日とすると、

5×25=125人になり、、、

1年では、12×125=1500人 になります。

名刺交換なく知り合う人が、年間500人とすると、、、

年間、2000人以上の人々との出会いがあるわけです。

この2000人の中で、3年以上お付き合いが続いている人は、、、

5%もありません。

10年以上となれば、1%以下となります。

毎年、2000以上の出会いがあって、、、、

ほとんど、同数に近い別れ(名刺交換の時が別れの時と言う人も多くありますが・・)があるわけです。


先週末、23日(金)に、

27年前に入社してきた(途中7年ほどのブランクがありましたが・・)

(株)ルート、副社長 兼  
(有)ユーズネット美里の社長に対して、退社を申し渡しました。

いま、別れの一つが私の判断によって作られようとしています。

この先本人が どのような人生を歩くかは、復帰も含め、本人次第です・・・


時代の変遷とともに、企業は、変えなければならないと判断した
商品を変え、売る方法を変え、マーケットを替え、お取引先も変え 人の能力や配置も変えて行かなければなりません。

変えたこと・変化させたことに対しての正解、不正解の〇×は、未来でなければわかりません。

今回退社していくだろう本人にとって、将来◎がつけばうれしいことと思っております。

そして、変えた事、変化させたことの答えが、未来の判定で正解多数だった企業だけが進化できます。


つらい決断もありますが、時には、情を入れ・・・ 時には、情を排除しながら、、、、

変えてはならないこと、、、変えなければならないことを見極めて、

永続企業を目指したいと思っています。


ちょいCamの販売店に、全国からご参加下さる社長さん方との出会いの輪が、今どんどん拡がっています。

11月7日と8日は、山口県と広島県に行って交流を図る予定になっています。


軽キャンパー事業参入の答えが、、、

ユーズネットの将来に、 〇とつくことを硬く信じて・・・・・ 今、行動します。
 「今だから言えること」でした。



あれから12年
株式会社ルートは 副社長が退社・2年前から社長は長女 井上美鹿となって
当時の7店舗は現在4店舗に集約されています。
12年前に取り組みだした、軽キャンピングカー販売 現在の販売店は実質1,000店以上
軽キャンピングカーの架装部材出荷台数 全国最多と言われています。



出会いと別れパートⅡ・・今だから言えること


北陸キャンピングカーフェア 出展移動中
ひるがの高原から見た 大日ヶ岳



出会いと別れパートⅡ・・ 「今だから言えること」
昭和48年正月を過ぎてすぐだったと思います。

戦略的で、とても前向きな組織再編であったにもかかわらず、

セールスマンをやめ 立ち上げた会社 親会社と意見の対立。

社長から、営業部長への降格に腹を立てた私は、

せっかく苦労して立ち上げてきた会社を辞任、退社をしてしまいました。

次のあてがあっての退社ではなかったので、当然収入がなくなりました。

ものすごく忙しかった毎日から、一気に時間が出来てしまいました。

生活費を稼ぐ為に、パチンコのプロにくっついて、パチンコのセミプロを始めました。

毎月、8万円ほど稼げましたので、私の年齢の平均給与ほどは何とか得ることが出来ました。


世の中が私をほっておくはずがない・・・

必ずどこかから「是非、井上を」と、声がかかるはずだと信じていました。

だから、お願いして、自分を売りに行くような、就職活動は一切しませんでした。

今思えば、車の販売に対して、無謀なほど、過剰な自信を持っていたのでした。

パチンコを始めて、3~4ヶ月経った頃、

某Dマークのディーラーから声がかかりました。

子会社を作り、Dマークを表に出さない、中古車販売会社を立ち上げて欲しいというものでした。

Dディラーの子会社を設立し、私は取締役営業部長に就任しました。

名古屋インター近くで、私の率いる、株式会社「くるま街」と言う中古車販売店がスタッフ6名でオープンしたのは、

48年10月でした。

数ヶ月でスタッフ集めも企画もすべてをこなしました。

オープン翌月、さあこれからと言う時、第一次オイルショックが襲って来ました。

ガソリンが世の中から消えてしまったのです。

車が売れるどころではありませんでした。車が動けなくなってしまったのです。

あの時の、くるまが全く売れなくなった経験は、

今回の、リーマンショック・トヨタショックの比ではなかったと思います。

親会社からは、こんな時代になってしまったのだから、

展示車は親会社の扱う軽自動車にすべきと、きつく指導が入りました。

でも私は、一気に価格が落ちて安くなった、高級普通車にすべきと対立してしまいました。

親会社の意向を無視して展示場一杯に高級普通車を買って並べはしたものの、

もし私の読みが間違っていたら、と、不安な思いで、、年を越すことになりました。

年が明け、昭和49年になり、高値のままではありましたが、ガソリンが一気に出回りだしました。

そして、資源高から今まで味わったことのないインフレの世の中になりました。

新車の値上げが相つぎ、つれて中古車も値段が毎日のように上がりました。

上がってもあがっても、新車との価格差で、高級中古車はとぶように売れました。

売れて売れて、利益もびっくりするほど上がりました。

でも残念ながら、本社の幹部からは、反逆児として常に、にらまれる存在になってしまいました。


自分達の努力でなく、たまたま訪れたインフレが追い風となっていただけでしたが、

店と私個人の知名度が上がりました。そして順調以上に販売数字もあがりました。


オープンから2年少しが経ちました。

昭和51年の正月の休みに、7人ほどのスタッフとハワイへ行ってきました。

帰ってきて仕事始めの最初の日でした。

緊急役員会開催とのことで、本社の役員室に呼ばれました。

その役員会は私を解雇する為のものでした。

株式会社くるま街 取締役営業部長 井上 政彦を解雇する決定が申し渡されました。

理由、、その一 本社に連絡せず、海外旅行に行った件・・・・

     その二 事務所内及び書類監査をして不正を見つけ、後日連絡・・・ 
           と言うものでした。
           (徹底的な監査が行われたようですが、
                   後日連絡はありませんでした)


せっかく軌道に乗った、(株)「くるま街」の取締役を解雇となり、

やむなく豊田へ来ました。

そして小さな自動車屋さんをはじめることになりました。

当時の国民金融金庫にて、500万円借りて、

国道248沿いの貸し店舗で「ルート豊田」を個人経営で創業しました。

昭和51年5月でした。後に(株)ルートとなり現在に至っています。



今から、10年位前まで、創業してから、23年ほどの間は、、

Dマークの新車は、過去の、逆恨みで、販売を一切お断りしておりました。

でも時代は移り、Dメーカーは、トヨタの子会社となり、

お客様がDマークの車を指名してこられるようになって来ました。

Dマークの車を欲しいのだが・・・と言われるお客様に、無理にSのマークの車をお奨めしておりました。

豊田の街ではDマークの車を扱わないことは、とても大きなハンディーとなっていました。

あるとき、思い切って決断しました。Dマークの車も扱おう・・・

扱う以上は、豊田市で、一番のDマークの代理店になろうと決めました。

Dマークの代理店で、豊田で一番になるのに約3年を要しました。

今では、ユーズネットグループは、豊田市においてはダントツの一番で、

二位の代理店会社との差は、5倍ほどになっていると思います。



豊田市で一番になって間もなくでした、、、

私に解雇を申し渡した、Dマークのディーラーの社長(今は会長でおられます)から、、、

和合ゴルフ場でのゴルフに誘われました。

このゴルフを機会に、わだかまりは一切なくなりました。

愚かにも、自分の非を認め、反省するのに、25年を要してしまいました。

気付きが遅れたことにより、25年遠回りをしてしまいました。




私も立場が変わり、私のもとに複数のグループ会社が出来ました。

あの当時、営業成績が良かったのは、すべて自分の能力と努力の結果だと思い込んでいました。

私は、親会社の大きな器の中で、能力を発揮させてもらう機会を与えてもらっていたのだ、

なのに自分は、「俺が・・俺が」で、すべて自分の力でやったのだと、思っていた、

と、言うことが痛いほどわかりました。

今では、解雇される前の、私の傲慢さの反省と、

ハワイへ行く前に、本社に報告、連絡、相談をしなかったことに対して猛烈に反省をしております。

あの時の親会社の社長が、私を解雇したのは経営者として至極当然だったと思っています。

今、ユーズネットグループで同じようなことが行われれば、私は激怒すると思います。



当時の親会社の社長はきっとこう思っておられると思います。

つらい思いで、解雇した子供のような部下が、外へ出て、豊田市で頭角を現してきた。

「よくやってくれた、あの臨時役員会で、自分がとった決断と行動は間違っていなかった」と。

毎年、新年に有名ホテルで開かれる、全国のDマークの代理展会では、

笑顔で、「おう、、井上君、、元気でやってるな!!」と声をかけてもらっています。


あの時、思い切って、解雇と言う方法で、私を外に出してくれた親会社の社長に対して、、、
 
今は、感謝こそすれ、恨みは一切ありません。


その感謝の心で、Dマークの車を、扱って、、、 

豊田で一番沢山のお客様から、感謝される、ユーズネットグループにならせてもらいました。

これからも、「お蔭様で」と言う謙虚な心で、

もっと、もっと多くのお客様に喜んでもらいたいと、今は願っています。

「今だから言えること」です


昨年2020年 コロナ禍の真っ只中 お亡くなりになったと伝わってきました。
お冥福をお祈りいたします。



出会いと別れパートⅠ26歳で社長になって 「今だから言えること」






2009年10月27日
19:43

出会いと別れ・・パートⅠ

「今だから言えることです」

私は、過去に役員をしていた会社から、

出たこと・出されたことが2回あります。

私の人生の大きな屈折点、通過点、として記憶に刻まれております。



2年程勤務した、カローラ愛豊を退社して、お客さんであった自動車部品会社の専務さんの勧めがあって、

その部品会社の子会社として中古車販売会社の代表取締役社長になりました。26歳でした。

カローラ愛豊を退社する時は、強く引き止められましたが夢を達成すべく、振り切って退社しました。


その1・・・

設立時、若干26歳の私が率いる中古車販売会社でしたが、どんどん成長して、

間もなく愛知県ではトップクラスの販売台数になっていました。

車検工場を作り、板金工場を吸収して、

5年後には従業員も35名以上の会社に成長しました。

急成長過ぎた為、組織がしっかりしておらず、外部から見ても不安定さは、歴然としていたと思います。

そこで、親会社は、組織を強固にして将来に備えることと、対外的に信用度を増すことを目的として、

親会社の専務が社長に、私を取締役営業部長にと言う人事を決定しました。

今思えばすばらしい戦略的判断だったと思いますが、若かった私は、社長から部長への降格と言うことのみを見て、

会社の全体や将来を見ずに、頭へ来てしまい、辞任、退社してしまいました。

今から36年前のことで、私は31歳でした。


自動車部品販売の親会社は、10年以上前から、

日本一の自動車部品販売会社として毎年すばらしい業績を出しておられます。

少し年月が経ってから、遅ればせですが・・・

この親会社の当時の専務から学んだことがすばらしいことばかりだったことに気がつきました。

その当時学んだことを、今でも経営に多く生かしております。

現在、ユーズネットグループの自動車部品仕入れの90%以上はこの部品会社からのものです。

今は息子さんが社長になっておられ、ご本人は相談役としてまだまだ元気にしておられます。


私の浅い考えで、一方的に不義理をしてしまった過去ではありましたが、

10年少し前のこと、相談役は、私をハワイのゴルフに招待して下さいました。

とてつもない器の大きさを実感させられました。

その後、今でも私が名古屋の本社へ立ち寄ると、

「井上君はうどんが好きだから」と、夏でも、鍋焼きうどんを取ってご馳走して下さる・・・

と言う親しい関係を続けさせてもらっています。



「今だから言えること」です

「良い出会いと別れ」を経験させてもらいました。
2009年当時、お元気でしたが 
2020年に85歳でお亡くなったと聞いています。


整備工場のO社長を逮捕します「今だから言えること」


横浜キャンピングカーショー 
9月18日(土)・19日(日)2日間
パシフィコ横浜で開催です。
エブリィワゴンベースの「ちょいCam豊」を展示します。
関東地区のお客様のご来場をお待ちいたしております。




2007年12月01日 18:41 カテゴリ:私の販売の原点
「今だから言えること」です。

愛知県警、交通指導課、〇〇 と言う名詞を持った人が尋ねてきました。

昭和57年初春でした・・・

 「明日、あなたの会社の協力整備工場 O自動車整備工場のO社長と専務を逮捕します。」

容疑は、私文書偽造同行使、その後に、詐欺罪も立件を視野に・・とのことでした。

・・でも・・・・警察の人が、なぜ私のところへ?・・・・

 O社長は、ルート豊田が行き詰ってしまったとき、溜まってしまった、支払いを分割でと・・相談に行った社長でした。

結果、助けてくれるどころか、その夜、事務所のものを全部持っていかれてしまいました。

その後、当社は再建に取りかかり、月々とはいえ、順調に支払いは進んでいきました。

間もなくきれいに完済、と言うときに、やっと事務所から持ち出したものを返してくれました。

と同時に、「以前のように、車検などの仕事が欲しい」と言われ、お願いすることにしました。


 少しの間は、順調に取引は続きました。

あるときから、納期が遅れだしました。

お願いした車のガソリンが異常に減ってしまっていることが頻繁におきだしました。

走行Kを調べてみると、なんと100キロ以上走っていました。

注意しても、そんなことはありえないと、言い切ります。

今度は、「先払いでしか仕事はしない」と、言って来ました。

「もう取引をやめるしかないな」・・と思っていたとき、県警の刑事さんが来られたのでした。


なぜ?私のところへ?

 逮捕が確実となり、「あなたが逮捕されたあと、お母さん、奥さん、子供たちは誰が面倒を見る?」・・と、警察の人が聞いたそうです。

その答えが、なんと、「ルート豊田の、井上さんに頼みます・・」だった、とのことでした。

◎ 私が最悪のとき、O氏は私に何をしてくれた?

◎ 反対に今度はO氏の方が、今、最悪の状態だ!同じ仕打ちを私はしない・・逆に、彼と彼の家族を出来る限り、支援しよう と、即座に決めました。


 O氏は、集金したお金を持って、夜な夜な、名古屋の繁華街へ行っていたそうです。

当然、仕事もおろそかになり、資金繰りに詰まってしまったとのことでした。

スタッフは、5~6人いましたが、給料もままならなくなり、通勤のガソリン代も払えなくなっていたようでした。

1番遠い人は、岐阜からでした。その人が、ガソリンが沢山入っていた、当社の車を使ったようでした。

最後は、車検に必要な、重量税・自賠責・証紙代等を先に預かり、使ってしまい、車検をせずのまま返してしまったようです。

フロントガラスに貼るステッカーは、ほかの車のものを再発行。車検証の車検期日は、偽造・・・
(その頃の、車検証の車検期日はゴム印で記載でした。朱肉の陸自印は芋で作って押したそうです)

〇 車検を受けずに、他人のステッカー再交付、車検証偽造が、有印私文書、不実記載同行使なのだそうです。

〇 車検用の諸経費として預かり、他に流用が、詐欺罪にあたるとのことでした。


翌日、O氏と番頭役の専務氏は、逮捕されました。

O氏の自宅近くの、守山署に留置され取調べとなりました。

早速、私は、O氏の奥さんに電話をしました。「出来る限りの支援をする・・と・・」


 警察の調べで、車検を取らずに、車検が受かったかのようにして集金だけした車が、100台以上ありました。

残念ながら、当社の車も、3~4台ありました。

弁護士さんから、なんとしても、詐欺罪にはしたくないから、被害者が返金を申し出たら、協力してもらえないだろうか?と要請がありました。

まだまだ弱体の当社でしたが、倒れない限り、と限定付きで引き受けることにしました。


O氏の奥さんには、月に15万円の仕送りをすることになりました。

被害者の返金申し出は、40~50台分、300万~400万だったと記憶しています。

結果詐欺は、まぬがれました。


 どうして、私がそこまで支援することにしたか・・・

〇 私の苦しい時にされたこと・・O氏が苦しい時に、私のとる態度・・男の勝負!私の勝ち!!こんなことを密かに思ったこと。
   (負けず嫌いの、いい格好し・・のところがありました)

〇 100人以上の人が、信用してしまった!彼は、ほんまものを正直に扱う当社でなら、すごい力が発揮できると思った。

〇 一度失敗してしまった人は、普通の人に比べたら、すごい力を発揮するはず。(自分がそうであったから・・)

〇 今、苦しい中、彼のために出費している金額は、当社の仕事をしてもらいながら、月々返してもらえば、当社としては、業績も上がり、お金もきっと返ってくる。と読んでいた。

〇 何が何でも、月の販売、100台にしたかった。そのために、O氏が必要と思った。


その後O氏は、守山署の取調べが終わり、名古屋拘置所へ移されました。

半年にわたった取調べも終わり、保釈金を用意すれば、拘置所から出られるということで、私に何とかして欲しいと・・弁護士を通じて涙ながらに頼んできました。


まだ当社の、最悪期の借金がやっと終わったか、と言う時、昭和57年の話です。もうすでに能力を超した出費をしてしまっていました。でも、彼の気持ちを思うと・・何とかしてやりたい・・・加えて、当社としても早く、うちで働いて欲しい!

最後の手段、私の母親から、100万借りてきました。

その後の裁判に私も出廷しました。身元引き受けします・・更正は私が責任を持ってさせます、と訴えました。



  裁判長の声が今でも忘れられません

O・Y・・・「あなたを・・懲役3年に処す!」 「尚、その刑の執行を、4年間猶予する!」


彼は、すぐ当社に着任しました。

昭和57年10月のことでした。

その年の、12月・・当社は、5台の展示で・・・・悲願の、100台を達成しました。


「今だから言えること」です。

   
      その後、O氏は何度も問題を起こすことになります。

(O氏本人は、今は全く連絡が取れていません。本人がこのブログを見たときの事を考え、事実を曲げないよう、気を使って書きました)


5,000万円の保証人に・・「今だから言えること」


明日はきっと良いことがありそうな・・そんな思いを抱かせてくれる
豊田市の夕日




保証人・・・

「今だから言えること」です。
2008年07月14日 08:40

保証人
二年ほど前のことです。

身内(兄弟)から、本人の経営する会社の保証人を頼まれました。

国民生活金融公庫から、200万円の融資申し込みと言うことでした。

今までの経緯から、滞る可能性大と思っていました。

身内のことであるし、最悪、自分が払えば良い、位、の気持ちで引き受けました。


そして、二ヶ月ほど前のことです。

案の定、、、国民生活金融公庫から、保証人の私個人宛に、支払い請求の電話がありました。

最終支払い分、約10万円が滞っている、至急払うようにと言うことでした。

本人から、一ヶ月先に返すとの約束をとり、国金へ振り込みました。

約束の一ヶ月を10日ほど過ぎても何の音沙汰もありませんでした。

したくもない請求をしたところ、7月15日には支払うとのことでした。


その7月15日が近づいてきました。

確認の電話をしたところ、いとも、、かるく、、「15日には振り込むよ」・・の返事でした。

同じこの兄弟には、10年ほど前、別口の保証人として、、
銀行に約5、000万円肩代わりをした経緯があります。


その大口の分は本人の手にはとても負えず、私への返済分の元金は少しも減っていません。



最近銀行は、個人保証を取らなくなってきました。非常に良いことだと思います。


私の経験から、もし保証人を引き受けるなら、その全額を自分が「軽く支払える範囲」にするべきと思います。

そして、その保証金額は、自分が借りたと思う。  もし、保証をした相手が、きちっと支払ってくれたら・・・

自分の支払い分を払ってくれた・・・「助かった」と、感謝するくらいの気持ちになっていたいと思いました。

そのように思っていれば、、、

いやな気持ちにもなりません。

人間関係も壊れません。


30年以上前に、私の妻の兄弟が非常に困っているとのことで、現金10万円を貸しました。

その後、いまだになにも言ってきません。

現在ご本人は普通の生活をしておられます。

私の方が苦になって、1年ほど前に、他の兄弟を通じて、何らかの返答を求めましたが未だに、返事はありません。


あの時に、差し上げておけばとっくに忘れられました。

その後、かの兄弟との交流、人間関係は全くありません。



明らかに、私の失敗です。


そのほかにも・・・

私としてみれば、現在進行形で結末になっていない金銭問題が数件あります。



保証人になるとき・・・

お金を貸すとき・・・     


すべて、自分に問題ありでした。




先の5,000万円の本人は10年ほど前に亡くなり
家族は全く取り合ってくれません。
この金額 全額が私の借入金となり 
2年ほど前にやっと完済し肩の荷は降りました。


今年 2021年・・・79歳になった身では もう保証人には
なりたくても なれませんが・・・


「今だから言えること」でした。







北海道の人も拘置所の人も「今だから言えること」

今年の夏・・北海道キャンピングカーショー出展を終えて
帰りに見つけた「花いっぱいの道




苫小牧で中古車販売業に失敗した K君を豊田へ連れてこようと
北海道へ行った折も 支笏湖を訪れていました。




北海道で行方不明の人も、拘置所の人も

「今だから言えること」第10弾
2008年04月12日 20:12

北海道の人
ユーズネットグループのくるま販売に携わるスタッフは、本年度入社3名を加え、45名になりました。

創業来、32年・・・・いろんな、スタッフが入社し、そして、退社していきました。



私が最初に就職したのは、愛知トヨタのガソリンスタンドでした。

北海道から、名古屋の大学に来ていたK君は、そのスタンドでバイトをしていました。

私が新車の販売に転進して、名前が売れるほどの成績を上げるのを、憧れの目で見ていたようでした。

だから、彼も大学卒業と同時に、札幌のトヨタディーラーのセールスマンになりました。

その年、彼は、そのディーラーで新人賞を取ったと報告がありました。

その後、彼は、5年ほどで優秀な成績を残して退社しました。

彼の地元、苫小牧で独立して中古車販売店を始めるためでした。

店を開いて、4~5年経ち、「経営状態が良くない、どうしよう」と、相談の電話が入るようになり心配していました。

心配になった私は、苫小牧まで出かけて指導したこともありました。

その甲斐なく、彼の会社は倒産、本人は身を隠してしまい、連絡が取れなくなってしまいました。

昭和55年のことでした。


「どうしているかなー」

最初は心配してましたが・・・・
月の販売台数100台を、「何が何でも達成するぞ!」と、決めていた、当時の私です・・・

彼の販売パワーを埋もれさせるのはもったいない!!
「なんとしても探し出し、当社へつれてこよう!」と、心のなかで決めました。

北海道で身を隠している人を・・さあ、どうやって探そうか?


まず、業界専門の月刊誌の伝言ページに、「尋ね人」として出してみました。
発売されてから、数日で反応がありました。彼の友達からでした。

居所がわかりました。

奥さんの実家で、札幌でした。

さっそく、札幌へ行きました。

いろんな問題が未解決で・・・今は動けない、とのことでした。


それから、約一年の間に、3回ほど訪ね、やっと彼を豊田へつれてきました。
落ち着いたら、家族も、豊田へとの約束でした。


K君がスタッフに加わったのは、昭和56年でした。


拘置所から出てきた人
もう一人強力なスタッフが、57年に加わりました。
前取引先の整備工場の社長で、名古屋拘置所から出てきた、O氏でした。

O氏の会社も経営が行き詰まり、倒産末期に、「法に背いたこと」をしてしまったのでした。
(O氏の件については、昨年秋、わたしのブログに書きました。)


53年に、行き詰って再建を果たした、私・・・

55年に、苫小牧で中古車会社を破産させた、K君・・・

57年に、整備工場を倒産させてしまった、O氏・・・

今日生きる事に命を懸けている、最強の3人が揃ったことにより、、、、

昭和57年12月に、中古車展示5台で、念願の100台販売、が、達成できたのでした。



それからのK君はホームシックなのか、販売意欲は下がってしまい、ついには北海道へ帰ってしまいました。


その後、一度も音沙汰はありませんでした。

たまに、北海道へ行くと、「どうしているかなー」と、思い出すくらいでした。



1年半前のことです・・・
愛知トヨタのガソリンスタンド勤務の時、お世話になった当時の森所長が亡くなられました。

そのお通夜が瀬戸でありました。K君と23年振りに再会しました。札幌から駆けつけたとのことです。

その後ずっと、車とは全く関係のない仕事をしているとのことでした。

顔色もよくとても元気でした。


仕事で行き詰まり、どん底以下になっていた彼に対して・・・・
救いの手を差し伸べたように見せかけて・・・・

当社が100台達成の為に、犠牲にしてしまったのかなーーー


当社の歴史を駅伝にたとえるなら・・・

K君も立派に、タスキをつないだ、ランナーの一人でした。



「今だから言えることでした」



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