出会いと別れパートⅡ・・今だから言えること


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出会いと別れパートⅡ・・ 「今だから言えること」
昭和48年正月を過ぎてすぐだったと思います。

戦略的で、とても前向きな組織再編であったにもかかわらず、

セールスマンをやめ 立ち上げた会社 親会社と意見の対立。

社長から、営業部長への降格に腹を立てた私は、

せっかく苦労して立ち上げてきた会社を辞任、退社をしてしまいました。

次のあてがあっての退社ではなかったので、当然収入がなくなりました。

ものすごく忙しかった毎日から、一気に時間が出来てしまいました。

生活費を稼ぐ為に、パチンコのプロにくっついて、パチンコのセミプロを始めました。

毎月、8万円ほど稼げましたので、私の年齢の平均給与ほどは何とか得ることが出来ました。


世の中が私をほっておくはずがない・・・

必ずどこかから「是非、井上を」と、声がかかるはずだと信じていました。

だから、お願いして、自分を売りに行くような、就職活動は一切しませんでした。

今思えば、車の販売に対して、無謀なほど、過剰な自信を持っていたのでした。

パチンコを始めて、3~4ヶ月経った頃、

某Dマークのディーラーから声がかかりました。

子会社を作り、Dマークを表に出さない、中古車販売会社を立ち上げて欲しいというものでした。

Dディラーの子会社を設立し、私は取締役営業部長に就任しました。

名古屋インター近くで、私の率いる、株式会社「くるま街」と言う中古車販売店がスタッフ6名でオープンしたのは、

48年10月でした。

数ヶ月でスタッフ集めも企画もすべてをこなしました。

オープン翌月、さあこれからと言う時、第一次オイルショックが襲って来ました。

ガソリンが世の中から消えてしまったのです。

車が売れるどころではありませんでした。車が動けなくなってしまったのです。

あの時の、くるまが全く売れなくなった経験は、

今回の、リーマンショック・トヨタショックの比ではなかったと思います。

親会社からは、こんな時代になってしまったのだから、

展示車は親会社の扱う軽自動車にすべきと、きつく指導が入りました。

でも私は、一気に価格が落ちて安くなった、高級普通車にすべきと対立してしまいました。

親会社の意向を無視して展示場一杯に高級普通車を買って並べはしたものの、

もし私の読みが間違っていたら、と、不安な思いで、、年を越すことになりました。

年が明け、昭和49年になり、高値のままではありましたが、ガソリンが一気に出回りだしました。

そして、資源高から今まで味わったことのないインフレの世の中になりました。

新車の値上げが相つぎ、つれて中古車も値段が毎日のように上がりました。

上がってもあがっても、新車との価格差で、高級中古車はとぶように売れました。

売れて売れて、利益もびっくりするほど上がりました。

でも残念ながら、本社の幹部からは、反逆児として常に、にらまれる存在になってしまいました。


自分達の努力でなく、たまたま訪れたインフレが追い風となっていただけでしたが、

店と私個人の知名度が上がりました。そして順調以上に販売数字もあがりました。


オープンから2年少しが経ちました。

昭和51年の正月の休みに、7人ほどのスタッフとハワイへ行ってきました。

帰ってきて仕事始めの最初の日でした。

緊急役員会開催とのことで、本社の役員室に呼ばれました。

その役員会は私を解雇する為のものでした。

株式会社くるま街 取締役営業部長 井上 政彦を解雇する決定が申し渡されました。

理由、、その一 本社に連絡せず、海外旅行に行った件・・・・

     その二 事務所内及び書類監査をして不正を見つけ、後日連絡・・・ 
           と言うものでした。
           (徹底的な監査が行われたようですが、
                   後日連絡はありませんでした)


せっかく軌道に乗った、(株)「くるま街」の取締役を解雇となり、

やむなく豊田へ来ました。

そして小さな自動車屋さんをはじめることになりました。

当時の国民金融金庫にて、500万円借りて、

国道248沿いの貸し店舗で「ルート豊田」を個人経営で創業しました。

昭和51年5月でした。後に(株)ルートとなり現在に至っています。



今から、10年位前まで、創業してから、23年ほどの間は、、

Dマークの新車は、過去の、逆恨みで、販売を一切お断りしておりました。

でも時代は移り、Dメーカーは、トヨタの子会社となり、

お客様がDマークの車を指名してこられるようになって来ました。

Dマークの車を欲しいのだが・・・と言われるお客様に、無理にSのマークの車をお奨めしておりました。

豊田の街ではDマークの車を扱わないことは、とても大きなハンディーとなっていました。

あるとき、思い切って決断しました。Dマークの車も扱おう・・・

扱う以上は、豊田市で、一番のDマークの代理店になろうと決めました。

Dマークの代理店で、豊田で一番になるのに約3年を要しました。

今では、ユーズネットグループは、豊田市においてはダントツの一番で、

二位の代理店会社との差は、5倍ほどになっていると思います。



豊田市で一番になって間もなくでした、、、

私に解雇を申し渡した、Dマークのディーラーの社長(今は会長でおられます)から、、、

和合ゴルフ場でのゴルフに誘われました。

このゴルフを機会に、わだかまりは一切なくなりました。

愚かにも、自分の非を認め、反省するのに、25年を要してしまいました。

気付きが遅れたことにより、25年遠回りをしてしまいました。




私も立場が変わり、私のもとに複数のグループ会社が出来ました。

あの当時、営業成績が良かったのは、すべて自分の能力と努力の結果だと思い込んでいました。

私は、親会社の大きな器の中で、能力を発揮させてもらう機会を与えてもらっていたのだ、

なのに自分は、「俺が・・俺が」で、すべて自分の力でやったのだと、思っていた、

と、言うことが痛いほどわかりました。

今では、解雇される前の、私の傲慢さの反省と、

ハワイへ行く前に、本社に報告、連絡、相談をしなかったことに対して猛烈に反省をしております。

あの時の親会社の社長が、私を解雇したのは経営者として至極当然だったと思っています。

今、ユーズネットグループで同じようなことが行われれば、私は激怒すると思います。



当時の親会社の社長はきっとこう思っておられると思います。

つらい思いで、解雇した子供のような部下が、外へ出て、豊田市で頭角を現してきた。

「よくやってくれた、あの臨時役員会で、自分がとった決断と行動は間違っていなかった」と。

毎年、新年に有名ホテルで開かれる、全国のDマークの代理展会では、

笑顔で、「おう、、井上君、、元気でやってるな!!」と声をかけてもらっています。


あの時、思い切って、解雇と言う方法で、私を外に出してくれた親会社の社長に対して、、、
 
今は、感謝こそすれ、恨みは一切ありません。


その感謝の心で、Dマークの車を、扱って、、、 

豊田で一番沢山のお客様から、感謝される、ユーズネットグループにならせてもらいました。

これからも、「お蔭様で」と言う謙虚な心で、

もっと、もっと多くのお客様に喜んでもらいたいと、今は願っています。

「今だから言えること」です


昨年2020年 コロナ禍の真っ只中 お亡くなりになったと伝わってきました。
お冥福をお祈りいたします。



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