物より自分を買っていただく・・
私が生まれ育った実家は、
当時、愛知郡鳴海町字大将ヶ根、絞り染めで有名な、
現在の、名古屋市緑区有松裏でした。
家業は、絞り加工請負業でした。
京都の「絞り染め問屋さん」から、
主に帯揚げ絞りの生地を預かり、、、
近所の熟練した技術を持った、おばさん、おばあさんたちに、
指定された方法で「しぼり加工」を依頼していました。
絞り終えた生地をチェックして、京都の問屋さんへ送り返す。
当時、東海道線、大高駅の近くで、飛脚と言う仕事をしている人がいて、
自分で担いで列車で、京都まで持っていってくれました。
ところが、それで終わりではありませんでした。
京都で染めて、ほどいたとき、
きれいに粒がそろっていなかったり・・・
粒がほどけて飛んでいたり・・・
手が悪いと言って、不そろいであったり・・・
このようないわゆる不良品は、
返品され買取をしなければなりませんでした。
それを母親が、近所の方たちに安く買ってもらっていました。
実家の近所は、昔、七軒家と言われ、家がぱらぱらとしかありませんでした。
そんなに沢山売れる筈もありませんでした。
ある時・・・
又、傷物(不良品)の「帯揚げ」が、10本ほど返ってきました。
どうしようと母親は、悩みきってしまいました。
もう近所ではダメ・・・
有松・鳴海の「絞りの本場」の町ではもっとダメと言うことで・・・
名鉄電車で一駅、東の、豊明の前後へ売りに行こうと言うことになりました。
どうして決まったのか、私が、行商に行くことになりました。
私が小学校5年生(昭和28年)の時でした。
その日は土曜日だったと思います。
昼から自転車に、帯揚げをくくりつけて勇んで家をでました。
旧東海道から、前後駅の横の踏切を渡ると住宅街でした。
それまでの自分は、全く知らない、縁もゆかりもないよその家へ
行った事などただの一度もありませんでした。
住宅街の家の前を、行ったりきたり・・
「ごめんください」と言って入る勇気がありません。
何度も繰り返しておりました。
20分も30分も行ったりきたりを繰り返した時、、、
ある家から、奥さんが出てきました。
「今だ!今しかない!!」勇気を振り絞って・・・
「有松から来ました。傷物の帯揚げ買ってください!」
奥さん・・「着る機会がないから、いいわ、、ちょっと出かけるからごめんね」
あっけなく、断られてしまいましたが・・・一言だけですが、話したことによって、
今までとは違う勇気が一気にわいてきました。
「貝のからのように、閉じてしまっていた、口が開くようになりました」
「ごめんください・・有松から来ました。傷物の帯揚げ買ってください」
それから・・・30軒、いや、、50軒以上玄関で断られ続けました。
とうとう、お日様が西に傾いて来てしまいました。
やっと、帯揚げを見てくれた人が、一人か二人、誰も買ってはくれませんでした。
「どうしょう?」
きっと母親が、楽しみに待っている・・・どんな顔して帰ればよいか。。。
とうとう日が落ちてしまいました。
涙が出て止まりませんでした。
半べそかきながら・・・
必死に、涙声で、、「おばさん!お願いですから、、、傷物ですが帯揚げ買ってください!!」
「もう夜になっちゃうよ、あぁー可愛そうに・・」
「それって、いくらなの」・・・
「あっそぉ」
「ぼくぅ・・2枚買うから、今日はこれで家へ帰りなさいね!」
「ありがとうございました・・」
あの時、、涙がどっとあふれてきたのを今でも忘れられません。
私は、あの日初めて、知らない家へ、モノを売りに行きました。
モノを売ろうとしても、、簡単には、絶対売れることはない!
モノより、一生懸命の自分を買っていただいたのだ、、
と・・・気付きました。
その後、週に一度くらい、、いろんな住宅地へ、、、
傷物帯揚げを売りに行きましたが・・・
一枚も売れなかった日はなかったと記憶しております。
まず第一に、自分を買っていただく・・・・
今でも、ずっと、私の心の中に、生き続けております。
私の販売の原点・・
つづき又書きます。