継続は力なり。

キズモノ帯揚げの行商・絞り加工の協力店回り、この仕事は両方ともなくなり・・

私は「家庭内失業状態」になってしまいました。



次は、母親のすすめで、「とうふ売り」をすることにしました。

有松の町、旧東海道沿いにあった、服部豆腐店でした。

とうふやさんから豆腐を預かり、売りに行くと言う仕事でした。

小学校6年生になった春でした。

あの頃、もめんごしの豆腐が、1丁15円 

絹ごしが、18円だったと記憶しています。

1丁売れると、3円と4円でした。

先ず、初日は、ラッパの吹き方を覚えました。

翌日からテリトリーを決めてもらい、自転車に15丁ほど積んででました。

朝5時頃から、勇んで店をでたものの、なかなか売れませんでした。

2時間ほどで売れたのは3~4丁だったと思います。

残りの豆腐はほとんど崩れてしまっていました。

売り物のとうふが、くずれてしまった、困ったなー

「弁償させられたらどうしよう!」

おそるおそる、店主にその旨を伝えました。

「あぁー”えぇよ!そこへおいときゃー・・」



今日の私の稼ぎは、10円ほどなのに、ダメにしてしまった豆腐が10丁ほど・・・

ショボンとしていた私に・・

大きく崩れた豆腐は・・「がんもどき」にする、
  
一部崩れたものは・・三角の「生揚げ」にすると、店主は教えてくれて、、

「なれれば,こわさなくなるし、もっと売れるようになるから大丈夫だよ」

店主は笑顔で、慰めてくれました。

ほっとして、とうふやさんの第一日目を終えることが出来ました。



日を重ねるごとに、豆腐は売れるようになりました。

2週間も続けた頃・・・

あの家は、何曜日に買ってくださる。

月曜日は、いつもより30分ほど早く店を出るとよいなど・・

何曜日の何時頃は、どのあたりがよく売れるなどわかってきました。

時間、道順などを自分なりに上手に組み立てることにより、

売り上げを伸ばすことが出来、毎朝の豆腐売りが楽しくなってきました。

その頃すでに、1日の売り上げが、12~13丁になっていました。

扱いもうまくなり、こわれてしまうのは、1~2丁でした。

上手に時間と場所を組み立て、継続して回ることによって、

私を待っていてくれるお客さんが増えてきました。



私の豆腐が届かなかったら・・・・

私を信頼して待っておられる家の味噌汁は、具なしになってしまいます。

責任を感じ、どんな天気の日でも、休まずに毎日頑張りました。



店主が、「井上君、よう売れるようになったナー、明日からは20丁積んでいきやー」

とてもうれしい言葉をもらいました。

20丁積んで出た最初の日は、

ほめられたことと、認められたうれしさで、やる気満々でした。

「ようし、何が何でも売り切るぞ!」と、必死に回りました。

その日からは、くずれてしまう、1~2丁を除き、全部売りきるようになりました。

商品も、とうふ、あげ、ヒリョウズ(がんもどき)、なまあげと、増やしてもらいました。

一ヶ月の収入は、2000円にも達するようになりました。

でも学校では、とうふやさん独特のにおいを発していたようで、

クラスの仲間にいやなことを言われ、学校は嫌いになってしまいました。

今風に言うと、いじめだったかもしれませんが、、、

お金を沢山稼ぐと言う自信と、

成績では負けないと言う自信で、

相手にしませんでしたし、あまり苦にもなりませんでした。

でも・・女の子に、もてなかったのは、少し寂しかったです。



とうふ売りを、一年続けて中学生になりました。

愛知県で一番高い山、茶臼山へ登りたいという夢がありました。

今でこそ、簡単に車で行けますが当時は、、

豊橋・本長篠・田口・そしてバスと徒歩で丸一日かかります。

山では寝るのに、テント(米軍の放出品)が必要、、、なんて考えると、、

結構なお金が必要となります。

とうふの収入から、家には、半分入れておりました。

残りの半分で自分の学費と茶臼山貯金をしていました。

当時、有松から茶臼山へ登るなんていうことは、

途方もないことだったと思います。



とうふのお客さんに、「あんた、よう頑張りゃーすネー!」と言われ・・

「僕、茶臼山へ登りたいんです。そのために頑張っているんです」と話したら、、

「内の息子もちょっと、連れてたってくれーせん?」と言われ、

同学年の二人が一緒にいくことになりました。




昭和30年7月21日から・・・3泊4日

夢だった、茶臼山登山は、実行出来ました。

中学校1年生の夏でした。



「継続して物事に取り組めば、夢は達成できる!!」 


わたしの販売の原点・・・・


つづきは又書きます。
















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