34ページ目   私の ほっとな日常

松坂屋へ行って思ったこと・・

豊田に松阪屋がオープンして
10年とのことです。

オープンしてすぐのころ、
1度か2度、行った記憶があります。
今はめている腕時計は松坂屋で買ったものです。

その後7~8年全く行ったことがありません。

私の買い物と言えば・・・
サンクス元宮店ですべてまかなえて、
最近、デパートの松坂屋だけでなく、
スーパーへも行った記憶がありません。

松坂屋へ行けば、
新しい何かが学べるのでは、と
一人で行ってみました。



きれいに並べられている・・
最近の商品(着るもの、身につけるもの)
すべてに興味がわいてきません。

地下から、
すべての階を見て回るのに、
10分もかかりませんでした。

新しい物に興味がなくなってしまった、
自分を発見しました。

このことが
「今日一番の収穫」でした。


「反省!!」だけではいけません。

何とかしなくては・・・です。









有松の町並み・・

私の住まいは・・
名古屋市緑区鳴海町有松裏です。

鳴海町ではありますが、有松町に接した場所です。

生まれも育ちもこの近くです。

緑区は人口 231,000人 今では名古屋市16区の中で
一番人口の多い区となりました。


愛知郡鳴海町が名古屋市と合併して
初めて緑区が誕生したのは、1963年昭和38年のことでした。
その翌年、知多郡有松町と大高町が合併して緑区になりました。


平日、月・火・水・木 は、豊田にいます。

週末、金・土・日には緑区の家へ帰り、そこから通勤しています。

家の近所の人に知り合いはなく、
お互いに会話を交わすことも全くありません。
誰も知らないのです。

私の住民登録は、
10年以上前から豊田市に移していました。
子供3人共、すべて豊田市に住んでいます。

変則的な暮らしを、30年以上続けてきましたが、
今月、豊田市に引っ越すことにしました。


引っ越しを前に、
自分の育った町を改めて
ゆっくり歩いてみました。




有松の町の西のはずれにある、
有松天満社です。
神殿は 1798年に建立されたもので、
学問の神様、菅原道真を祭っています。


この神社の近くに、鳴海小学校東分校がありました。

その東分校に、私は昭和24年に入学しました。

当時は終戦直後で校舎不足のため

1年生は午前中のみ、2年生は同じ教室で午後始業という2部授業でした。

「朝から学校」「昼から学校」と言っていました。

通学の足も、ワラジ、ゴムぞうり、ゴム靴、ズック靴と変わっていきました。

その東分校に1年生から3年間通いました。

その分校跡地は、今、東綾中学になっています。

4年生からは、

有松から鳴海まで二駅、名鉄電車に乗って

鳴海小学校本校に通いました。



私が住んでいたところは、鳴海と有松が混在していました。


住所は、  鳴海町(鳴海町は愛知郡、有松町は知多郡)

学校は、  鳴海 (有松小学校がずっと近かった)

電車の駅は 有松駅(鳴海駅までは名鉄二駅あった)

買物は、  有松 (有松駅の住所は鳴海町にあった)

お祭りは  有松 (有松天満社祭りなのですが、
           有松天満社は鳴海町にあった)








旧東海道、江戸時代には、 
絞り商家がならんで活気があった、有松の町並みです。
朝6時前ということで、通る人もなく静かです。





1784年 天明4年
大火で全戸焼かれた後に建造されたものだそうです。





子供のころよく買い物に来た商店街です。

当時と同じ商店名の看板も見受けられます。

今も地元の人のための商店街として機能しているのでしょうか?
それとも、町並みみ観光に訪れる人々目当てのお店になっているのでしょうか?



「名古屋市有松町並み保存地区」昭和59年3月26日と記してありました。





この旧東海道の町並みを、
一方通行にしようという計画があったと思われます。


町並みを保存して残すことは、
住んでおられる方々にとって、
我々では知りえない大変なご苦労があると思います。
とはいえ、今まで先人の努力で残してきた町並みです・・
是非、努力を受け継いで、
後世に残してほしいと願っています。



プチ登山?してきました。



朝5時半から
いつものように、ウォーキング・・音符 音符 音符

リンゴジュースを買ったお店に、

真っ赤な、ハイビスカスが咲いていました。お花 ハート お花  







野見神社の赤い鳥居、

いつもは見るだけでした。

今日は、この鳥居をくぐって、

野見山の頂上まで、プチ登山! 汗 







標高 100メートル

結構、登山の雰囲気・・ 上矢印 汗 

今日は、野見山登山のおまけがあって、

一時間半ほど歩きました。

携帯の万歩計は、7700歩でした。



義援金を納め、伊勢へ・・

昨日、8月2日
東日本大震災の義援金を、
中日新聞 豊田支局へ届けてきました。


ユーズネットは、3月にも届けていますので
今回で、2回目となります。

グループ各店と、「山路」で募集したものです。




さっそく、今日(3日)の中日新聞に掲載していただきました。





義援金も納め、
すっきりした気持ちで、
今日は、ユーズネットグループのバスツアー
お伊勢参りをしてきました。










ユーズネットグループ
35年間のお礼と、

大震災後の、
日本が元気になりますように、
お参りをしてきました。









納涼屋形船で遊覧をして、
お昼は、
船上バーべQを楽しみました。




おはらい町通りも散策して・・・

あっという間に、

一日は終わってしまいました。


今回のバスツアー
ユーズネットとして、
初めての企画でした。

たった1日でしたが、
今まで休みが違い、
なかなか一同に揃うことができなかったのですが、
休みが水曜日に統一されたことにより
グループ7店のスタッフほぼ全員が参加出来ました。
お陰さまで、和やかに楽しむことができ、
とても有意義だったと感じました。

さぁー
また明日から、
頑張ります。



お礼に伊勢参り!



昭和51年 ルートは貸店舗で創業しました。
この写真は、創業前のものです。
貸店舗の内装、外装は終わっていますが、
まだ、店の前の舗装ができていません。

当時私は、33歳
創業直後、これでもか、これでもかと襲いかかってきた苦難の数々・・・
その苦難との壮絶な戦いが・・
30年以上続くとは予想だにしていませんでした。

2007年11月私のブログに書きました。
創業当時のルート① 

創業当時のルート②

創業当時のルート③

創業当時のルート④

創業当時のルート⑤

創業当時のルート⑥

創業当時のルート⑦

創業当時のルート⑧

創業当時のルート⑨

創業当時のルート⑩


色々ありましたが、創業から30年「やっと事業が安定してきたかなー」と思ったのもつかの間、
リーマンショックに端を発したトヨタショック
その後政府がとった、新車の補助金政策で中古車は大打撃。
そして今度は、昨年9月、新車の補助金終了ショックで新車が大打撃。
補助金ショックから立ち上がりつつあった今年3月の大震災・・

震災によって止まっていた、新車の生産もやっと軌道に乗りだたことにより、
ユーズネットグループの経営も、6月から安定してきました。

今までユーズネット各店の休みは、水・木と別れていましたが、
トヨタ自動車が、木金休みにになったことで本部を除き、グループの営業は、
水曜日に統一しました。

今まで休みがバラバラであったので、
全員で何かをすることができませんでした。

「そうだ!」
8月3日(水)に、みんな揃って
ユーズネットグループバスツアーをしよう!

お伊勢さん参りと決まりました。
今まで35年間、数々の苦難を乗り越えることが出来た、
お礼を言って来ます。

そして・・
日本が元気になるようにみんなで祈願してきます!!


岡崎の松葉牡丹(爪切り草)


今月も、ユーズネットグループの業績を引っ張ってくれているのは、
ユーズネット岡崎です。

昨日、午後ユーズネット岡崎へ行ってきました。

2~3年前まで・・
業績が伸び悩んでいました。

当時私は、店の周りの雑草が気にかかり、
行くたびごと「雑草をとれ!」と、
口癖のように言っていました。
いつも草が生えていて・・・
販売も低迷していました。

今の「ユーズネット岡崎」は、
グループの足を引っ張っていたお店とは、
信じがたいほど大変身をしています。




事務所横の花です。

お店のまわり各所で、
きれいなお花が
お客様をお迎えしています。






整備工場裏のあまり目立たないところにも、
いっぱい花が咲いていました。

松葉牡丹(爪切り草)です。

2年ほど前に、近所の道端に生えていたものを、
取ってきて、植えたとのことです。

2年間丹精込めて、増やしてきてこれほどまでにしたのだそうです。
素晴らしいことだと思いました。

とても目立たない場所なのが残念です。

でも目立たないところまで、
花を咲かせて手入れをしている・・

このスタッフの心が、
結果、高業績に結びついているのだと思いました。


お花どころか・・
雑草に占領されたままのお店で、
繁盛店を
私は知りません。





ユーズネット岡崎、商談室前は、
緑のカーテンが施されています。
大きなゴーヤが、ぶら下がっていました。

26日のユーズネットスタッフブログ、食べず嫌い
料理されたのは、写真のゴーヤでしょうか?



クルマにも、年齢相応あり・・



半年ほど、娘から借りていたマークの車
30代の娘には似合っていましたが・・
私には、どうも、年齢不相応で、
いつまでたっても、借り物・・の、感じでした。





6月30日、1台の黒い車がユーズネット豊田に入庫して来ました。
マークの、ハイブリッド車です。


試乗してみて、
すぐ気に入ってしまいました。

マークは、L⇒⇒T
色は、  白⇒⇒黒
中古車として、価格価値はほぼ同じ

何よりも、年齢相応!・・です。
当分使用させていただきます。

今まで使っていた、白のマーク車
私が乗り換えることを決めた、翌日・・
嫁ぎ先が決まりました。


「ひとめぼれ」してくれたのは、
27歳男性のお客様です。

年齢相応以上!
いい人に嫁ぐことになりました。

おめでとう!!
おしあわせに!!

いつまでも大切にお使いください。


歯医者さんからの電話・・

今日、歯医者さん(泉町の松森歯科です)へ行ってきました。

月に1回定期的に診てもらっています。

あまり立派な歯ではありませんので、安心です。



月に一回のことで、予約は1か月前にします。

一か月先ということで、予約日をすぐ忘れてしまいます。

予約日の、前日か、当日の朝、

確認の電話をくださいます。

松森歯科の電話サービスは、

ちょっとしたことのようですが、

大変ありがたいです。



松森歯科・・立派な建物です。

2階のカーテンの部屋が、診察室です。

今日は、手入れのみで、痛い治療はなく、

ほっとしました。





松森歯科の駐車場に停めていた私の車・・

外気温 何と、39度でした。

今日は、豊田市が・・・

ひょっとして、

暑さ、日本一かも?



上高地で1200人孤立・・


夏の上高地、梓川と穂高岳



今日の朝刊の記事です。
北アルプスの玄関口、長野県上高地に通じる、国道158号線と その先の県道上高地公園線で23日土砂崩れがあり通行止めに
観光客とホテル従業員 1200人が孤立して帰れなくなっていました。

バス15台が上高地から降りられるのには日にちがかかりそうですが、
今日24日午後から何とか徒歩では土砂崩れのあとを横切り、
土砂で埋まった、釜トンネルを抜けて
岐阜県安房峠側へ出られるようになったとのことで、まずはよかったです。



上高地で1200人孤立のニュースから、

私が16歳、高校1年生の時・・・
上高地でカンヅメになったことを思い出しました。

それは、昭和33年7月26日だったと思います。

友達と二人で、
中房温泉から燕岳→大天井岳→槍ヶ岳
槍ヶ岳→上高地の表銀座コースを縦走してきました。
 
上高地を降りる前の日は、
小梨平でテントを張って一泊しました。

その夜、今までに経験したこともない土砂降りとなり、
テントの中を、水が川のように流れました。
とても寝てはいられませんでした。

朝、昨夜ほどではなかったですが、断続的に強い雨が降っていました。
それでもびしょびしょの荷物を何とかまとめて、
バス停まで歩いて行きかけました。

途中、河童橋のたもとで、
ある人から聞いた話にびっくりしました。
「上高地に通じる道路は土砂崩れで寸断されて
当分は上高地を出ることは出来ない」ということでした。

それからまだ3日ほど雨が続きました。
私たちは、バス停にある、待合室の椅子で寝起きをしました。
食料は、残ったコメを固形燃料で少しづつ焚いて、
塩をかけて、空腹をしのいでいました。

入ってくる情報は、強引に帰ろうとした人が川に流され
昨日は何人死んだ・・
今日も、何人死んだ・・・なんて言うような、ぞっとする情報ばかりでした。
当時、上高地には今回の1200もはいなかったはずですが、
それでも、300人~500人はいたと思います。
はじめからホテル、旅館にいた人はそのままホテル、旅館に。
お金のある、大人の登山者は、みんなホテルか旅館に逃げ込んでいました。


私たち二人は、ホテルに助けを求めるようなお金もなく、
着るものすべてが、びしょぬれで・・・
腹はペコペコ・・
心細さは、頂点に達していました。
5日ほど経ってやっと雨は上がりました。
梓川沿いの道路はまだ徒歩でも通れないとの情報でした。

唯一は、豪雨の後誰も通ってはいないが、
一旦、徳本峠(とくごうとうげ)2135メートルまで、標高600メートルほど登って、
峠を越してく方法がある。
島々の里まで、約26キロから30キロ、
きっと道はなくなり、ひどく荒れているだろうがこれを行くしか
帰れる方法がないと聞いていました。
梓川沿いを行って流されて死ぬより、
頑張って生き倒れにならなければ帰れる!
挑戦することに決めました。

雨が上がった翌日朝早く、出発・・
豪雨から一週間ほど経っていました。

 
「家では、みんながきっと心配しているだろうなぁー」
「何としてもがんばって帰らなくては・・」

 めまいがするほど、腹ぺこの身に鞭打って、
 よたよたの足をひきづって・・
 命からがら、島々の里が見えてきたときの感激!
 里の人たちが、炊き出しのおにぎりを食べさせてくれました。

 そのおにぎりのおいしかったこと、今でも忘れられません。

    その日のうちに帰れたのか?
    確か、松本から夜行列車で、翌日帰ったような記憶です。

  
       

今回の「山」は友達と二人で行ったのですが、
友達の方の母親か祖母が、うちへ来て、
「おたくんちの息子が、うちの息子をそそのかして、
山なんぞへ連れ出してくれたんで
こんなことになってしまったんだ!
 いい子だったのに、どうしてくれるんだ」
まるで二人がすでに死んでしまっているかのように、
怒鳴り込んで来られたそうです。


困った母親は、「何とかヘリコプターを頼んで救出してもらおう!」
そのための費用はいくらくらいだろう? きっと高いだろうなー
親戚みんなで協力願えないかと、相談していたところへ、

        わたしの「ただいま!!」になったのでした。


    上高地に通じる道路、土砂崩れで、1200人 孤立!
     の記事を見て、思い出してしまいました。
      


      
     

       
       
       

       






岩手女子高校 書道部

19日(日)・20日(月)

岩手県北上市と二戸市のちょいきゃん販売店を訪問してきました。



東北新幹線・・
北上から二戸への移動途中、
盛岡で乗り継ぎがありました。

盛岡駅構内で、
岩手女子高校生の、
力強い書が目にとまりました。












二戸から、先ほど帰ってきました。

2日間の留守で、

書類がたまっています。

明日は頑張って片付けます。



異業種交流、若竹会に参加しました。

昨日、「山路」で・・・
異業種交流、「若竹会」が開催されました。

「山路」に集まる・・
30歳代~40歳代の職種は様々な人たちの集いです。

私はオブザーバーとして参加させていただきました。



ドッグトレーナー
広告会社
結婚式場
金融機関
看板企画会社
農場経営
教師
お花教室
サッカースクール
病院検査技師
自動車メーカー
自動車販売会社

等など、多岐にわたった職種の24名が参加されました。

会は早々に盛り上がり、
あちこちで、
仕事上、仕事外いろんな情報交換がなされていました。

今回の「若竹会」から
参加者相互の人脈の輪が大きく拡がったことと思います。

参加者の皆さんとは顔見知りの方も多かったですが
中には面識がなかった方もおられ、
名刺交換をさせていただいたり、
会話が弾み・・
いろいろ学ばせていただくことができました。


もう今から、次回の「若竹会」が楽しみです。

参加者の皆さん・・・
幹事を務めた、「山路」のあやさん

ありがとうございました。



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