上高地で1200人孤立・・
夏の上高地、梓川と穂高岳
今日の朝刊の記事です。
北アルプスの玄関口、長野県上高地に通じる、国道158号線と その先の県道上高地公園線で23日土砂崩れがあり通行止めに
観光客とホテル従業員 1200人が孤立して帰れなくなっていました。
バス15台が上高地から降りられるのには日にちがかかりそうですが、
今日24日午後から何とか徒歩では土砂崩れのあとを横切り、
土砂で埋まった、釜トンネルを抜けて
岐阜県安房峠側へ出られるようになったとのことで、まずはよかったです。
上高地で1200人孤立のニュースから、
私が16歳、高校1年生の時・・・
上高地でカンヅメになったことを思い出しました。
それは、昭和33年7月26日だったと思います。
友達と二人で、
中房温泉から燕岳→大天井岳→槍ヶ岳
槍ヶ岳→上高地の表銀座コースを縦走してきました。
上高地を降りる前の日は、
小梨平でテントを張って一泊しました。
その夜、今までに経験したこともない土砂降りとなり、
テントの中を、水が川のように流れました。
とても寝てはいられませんでした。
朝、昨夜ほどではなかったですが、断続的に強い雨が降っていました。
それでもびしょびしょの荷物を何とかまとめて、
バス停まで歩いて行きかけました。
途中、河童橋のたもとで、
ある人から聞いた話にびっくりしました。
「上高地に通じる道路は土砂崩れで寸断されて
当分は上高地を出ることは出来ない」ということでした。
それからまだ3日ほど雨が続きました。
私たちは、バス停にある、待合室の椅子で寝起きをしました。
食料は、残ったコメを固形燃料で少しづつ焚いて、
塩をかけて、空腹をしのいでいました。
入ってくる情報は、強引に帰ろうとした人が川に流され
昨日は何人死んだ・・
今日も、何人死んだ・・・なんて言うような、ぞっとする情報ばかりでした。
当時、上高地には今回の1200もはいなかったはずですが、
それでも、300人~500人はいたと思います。
はじめからホテル、旅館にいた人はそのままホテル、旅館に。
お金のある、大人の登山者は、みんなホテルか旅館に逃げ込んでいました。
私たち二人は、ホテルに助けを求めるようなお金もなく、
着るものすべてが、びしょぬれで・・・
腹はペコペコ・・
心細さは、頂点に達していました。
5日ほど経ってやっと雨は上がりました。
梓川沿いの道路はまだ徒歩でも通れないとの情報でした。
唯一は、豪雨の後誰も通ってはいないが、
一旦、徳本峠(とくごうとうげ)2135メートルまで、標高600メートルほど登って、
峠を越してく方法がある。
島々の里まで、約26キロから30キロ、
きっと道はなくなり、ひどく荒れているだろうがこれを行くしか
帰れる方法がないと聞いていました。
梓川沿いを行って流されて死ぬより、
頑張って生き倒れにならなければ帰れる!
挑戦することに決めました。
雨が上がった翌日朝早く、出発・・
豪雨から一週間ほど経っていました。
「家では、みんながきっと心配しているだろうなぁー」
「何としてもがんばって帰らなくては・・」
めまいがするほど、腹ぺこの身に鞭打って、
よたよたの足をひきづって・・
命からがら、島々の里が見えてきたときの感激!
里の人たちが、炊き出しのおにぎりを食べさせてくれました。
そのおにぎりのおいしかったこと、今でも忘れられません。
その日のうちに帰れたのか?
確か、松本から夜行列車で、翌日帰ったような記憶です。
今回の「山」は友達と二人で行ったのですが、
友達の方の母親か祖母が、うちへ来て、
「おたくんちの息子が、うちの息子をそそのかして、
山なんぞへ連れ出してくれたんで
こんなことになってしまったんだ!
いい子だったのに、どうしてくれるんだ」
まるで二人がすでに死んでしまっているかのように、
怒鳴り込んで来られたそうです。
困った母親は、「何とかヘリコプターを頼んで救出してもらおう!」
そのための費用はいくらくらいだろう? きっと高いだろうなー
親戚みんなで協力願えないかと、相談していたところへ、
わたしの「ただいま!!」になったのでした。
上高地に通じる道路、土砂崩れで、1200人 孤立!
の記事を見て、思い出してしまいました。