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鬼瓦(鬼所長)のひとこと・・

昭和42年5月2日・・ゴールデンウィークのなか日でした。

いつもの喫茶店で、軽い昼食を取っていました。

「今朝、白馬岳で、名古屋市職員山岳会の、メンバーが足を滑らせ、700メートル滑落・・

現在捜索中!外山林生 24歳・・」ラジオから聞こえてきました。

そのニュースを聞いて、私は全身から、血の気が引いていくのがわかるほどでした。


この外山林生(とやましげお)君は、高校時代から、いつも山へ一緒に行っていた、親友でした。

同じ高校を出て、彼は名古屋市の職員になり、私と同じ、夜間の大学も一緒でした。

この度、山へ行く前、私のところへ、アイゼン(雪/氷の時靴につける金具)を借りに来ました。

冗談に、「自分は死んでも、アイゼンだけは返してくれヨナ”」と言って貸しました。


ラジオを聴いて、仕事は手につかず、いてもたってもいられなくなってしまいました。

すぐ会社に帰り、例の鬼瓦所長に理由を話し、今からすぐ白馬へ行きたい旨了解を求めました。

その時の、鬼瓦所長の言葉は、私にとって終生忘れられないものになりました。


「井上君が行けば、友達は、助かるのか?」 「今から飛んで行くのは、君の気休めでしかない!」

結果は、、、仕事中は行ってはだめ、と言うものでした。



翌日からの3連休を利用して、その日の夜徹夜で、走っていきました。

朝、白馬の麓へたどり着いて、変わり果てた遺体との対面になってしまいました。

現地ですぐ火葬となりました。

彼をのんだ「白馬岳」の麓は桜が満開でした。

真っ青な空に、残雪の白馬岳がまぶしく光っておりました。



彼を天に運んだ、だびの「けむり」に向かって・・・・

我々、山の仲間で唄った、あの「雪山賛歌」


山よ、さよなら、

ごきげんよろしゅう

又来る時にも、

笑っておくれ・・・・


山の仲間みんな、、涙でくしゃくしゃでした。

その、外山君を、私の、2歳年下の妹が好きでした。(この妹は、10年ほど前に脊椎癌で亡くなりました)

少し前、兄の私に、キュウピット役を頼んできたので引き受けておりました。

そのことを伝える前に、彼は、帰らぬ人となってしまいました。


その日以来、弔いのつもりと、寂しさから、山をやめました。

再開したのは、あれから、16年経ってからのことです。



「井上君が行けば友達は助かるのか?」

あの、鬼瓦所長の言葉を、今も忘れられません。




時には鬼になって、

情に流されない・・

冷静な判断が部下を育てる。


「悔しかったら、注文書を束にして俺を、殴ってみろ!」

「700メートル滑落、井上君が行けば、助かるのか?」


鬼瓦、大野 芳春所長・・ 

定年後、平成になってから間もなく、病気でお亡くなりになったとうかがいました。


私の販売の原点

又続き書きます。








高原列車は行く・・

お相撲さんの世界では・・・

高見盛は自分を奮い立たせるため、、立会いの前に独特の、しぐさをします。

横綱 朝青龍は、勝ったあと、独特の態度で、「どうだい・・」と言うしぐさをします。



セールス時代、私はいつも孤独に感じていました。

お相撲さんのように、お客さんの前で、自分を奮い立たせるような行動を取るわけにはまいりません。

車を買ってもらって、お客さんの前で、「どうだい!」なんてことも出来ません。

車が売れた日、会社へ帰ってうれしさを顔に出さないように、

さらっとした顔をするように心がけていました。

「どうだい!」なんて顔は絶対にしないようにしていました。

「係り6人」の目標が達成できた時だけ、喜びを表すように気を使っていました。

成績が上がれば上がるほど、周囲には気を使っていました。

スタンドにいたときに、いやと言うほどえらそうな態度のセールスを見ていたからです。

営業事務の女性、電話交換台の女性、登録事務の人たち、車両配車の人たち、サービススタッフたち、、、

「〇 〇 さんいつもありがとう」を、口癖のように言っていました。

だから、みんな、私を応援してくれました。

セールスが売って稼いで、お前達を食わせているかの態度をとっている人がいました。

そんな人には、「自分で全部やってみろ!」「きっと一台も売れなくなるわ!!」と言ってやりたかったです。




難しい商談に向かう時、

車を降りてから、右手の親指を折って他の4本の指でしっかり握り、

肘を90°に曲げ強く振り下ろす。これを繰り返して、自分を奮い立たせておりました。



難しい商談が決まった時、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。

その商談の帰り、車のなかで、

「高原列車は行く」と言う歌を、目イッパイの声で唄っていました。



汽車の窓から ハンケチ振れば

牧場の乙女が花束投げる

明るい青空 白樺林

山越え 谷越え はるばると

ら・ら・ら・ らららら・ら・ら・ 音符

高原列車は らららら・ 行くよ 
 音符


その日以来、車が売れると、必ずこの「高原列車は行く」を高らかに歌って帰りました。

この歌を、目イッパイの大声で歌う快感が味わいたくて・・・

「よぉーし」、この商談の帰りは絶対「高原列車」を唄うぞと気合を入れたものでした。


売れたら「高原列車」を唄わせてもらえる・・・売れないときは唄わない・・

で、この「高原列車」を、自分へのご褒美にしていました。



月が変わると、新しい月の目標を、大きく墨で書き、自宅に貼っていました。

別に、トイレ、車の中、机の引き出し等、いつも目に付く場所に書いて貼っておりました。

目標を達成して、次の目標を書くのがとても楽しかったです。




「自分ひとりでは何も出来ない」

周囲のスタッフに感謝を・・

自分にもご褒美を!



私の販売の原点

又続き書きます。








理由ではめしは食えない!!


会社から与えられる目標は・・・
自分に対する「最低評価達成義務数字」である。

本当の目標は自分自身が作るものであって、
自分自身との固い約束でなくてはならない。




会社から割り当てられた目標が高すぎると不満を言っている人があります。

自分が思っていたより目標が高ければ、会社は自分を、より高く評価してくれているのであって、

自分を高く評価してもらって、不満を言うのはおかしいのであります。




私がカローラ愛豊のセールスだった時です。

全社のセールス、1人当たり平均 4台でしたが、

私達の「係り」6人の目標は、少し高く1人当たり、5台で30台でした。

私の目標は、8台しかもらえませんでした。

この8台は私にとって非常に低い数字で不満でしたが、

「係り」の目標30台からすると、私の目標を15台にした場合、

他の人の目標が、1人3台になってしまいます。

私の目標ではなく、達成義務と考えればよいわけでした。

自分は目標を、13台とか15台にして達成しておりました。

目標は、自分との約束です。出来なかっても誰も文句は言いません。

自分との約束が守れなかったことで素直に反省出来、すぐに、次はどうしようか、が見つかります。

9時出勤の人は、なんとしても、9時までに出勤しようとします。

要するに、9時に出勤しようとするかどうかが大切だと思います。


会社の決まりは、9時だけど、私は、なんとしても、30分前には出勤しよう。

逆に、9時には出社したいけど、何か理由があれば、仕方がない・・こんな人はよく遅刻すると思います。

これと同じで、「なんとしても、やるぞ!」と自分と硬い硬い約束をしなければなりません。

会社から与えられた目標と自分の目標と一致した場合は、数字は同じでも・・・

約束の相手は、会社とではなく、自分とであるべきだと思っています。

9時には出社しなさい、が、会社から与えられた目標、「最低評価達成義務数字」なのです。

30分前に出社するぞ・・これが本来の、目標だと思います。



会社から与えられた、目標が達成できず(やらなければならない~やりたいなぁー に勝手に変えて)・・・

結果達成できず・・出来ない理由を、探し出し、たらたらと述べる人がいます。

最近・・そんな人が多くなったような気がします。


   

「理由では、めしは食えない!!」

「理由を述べても、自分の成長にはつながらない!!」

「理由は、評論家に任せろ!!」

「理由を考えている暇があったら、やれる方法を探せ!!」



私の販売の原点

続き又書きます。





自分から学ぶしかない。

セールスになって、半年くらいまでは、先輩や上司がいろいろ教えてくれました。

商談の進め方など、悩んでしまうこともありました。

商談の過程では、きっとこのお客さんは、買って下さるだろう感じがしていても、

結果決まらなかったりがあり、自分では「なぜ?」「どうして?」がつかめませんでした。

上司・先輩に商談経過・状況を話して教えてもらおうとしても・・・

「井上君で売れなかったら、誰が商談しても売れないよ、自分は教える立場にない”」

つれなく言われてしまいます。「でもあのお客さんは、商談の進め方では、きっと買ってくださったはず」

「もったいないことをしてしまった。何かがいけなかったんだ・・」



悩んだ挙句、小型のテープレコーダーをかばんの中にしのばせ、商談をテープにとることにしました。

その頃、小牧から朝、1時間半以上かけて通勤していましたので、テープをじっくり聞くことが出来ました。

いろんな商談を何度も聞いていて、ほぼ購入を決められたお客さんからは、必ずと言うくらいに、

「買わせてください」と言うサインが出ていることを発見しました。

それとわからず、今までは商談の最終段階で、念には念を入れて、

商品・支払い方法などを、説明していたのでした。 これは、自己満足でしかありませんでした。



お客さんの「決めようかな」と言う決断、意志決定と、売る側のリズムがあっていなかったのでした。

結果、お客さんから、「ありがとう、良くわかった。検討して後日また連絡するよ・・」と言われてしまっていました。

そして後日、連絡すると、「やっぱり、今回は止めておくよ」「イヤー悪かった、他社で決めたよ・・」

となることが多かったです。

このリズムが良くわかり、商談進行の方法を改善して、商談決定率が格段に上がりました。

自分の商談から、自分が学ぶことが出来たのでした。



それ以来、私の商談は、、、

ピッチャー(お客さん)の投げる変化球・剛速球がバッターの私にとって、、

あたかも、止まっているかのように、良く見えるようになりました。


商談決定率(打率)が上がって、

いっそう安定して販売台数を上げることができるようになりました。



私は通勤する車の中で、いつも・・・

   自分の商談テープを聞くか、

   軍歌を聞いて(歌って)おりました。




反省のないところに・・

成長はない!!

反省があれば・・

自分自身から学ぶこともできる!!




私の販売の原点

続き又書きます。


40年かかっても答えは出ません。


トヨタカローラ愛豊、今思えば、すばらしい会社だったと思います。

退社して、40年になりますが、やめて今の道を選んだ方が良かったのか?

未だに、答えは、はっきりと出ておりません。

両方の道を、歩むことは出来ないからです。



少なくとも、退社して、20年くらいは、、

生活と言う面では、はっきりと、やめなかったら良かったと悔やむ日ばかりでした。

男性で定年まで勤めず、やめて職を変えた人は7割くらいはいるんではないかと推測できます。

人それぞれ価値観がちがいますから、一概には言えませんが、、

少なくとも、中途退職した人の中で、カローラ愛豊及び、愛知トヨタグループを辞めて、

独立して新しく商売を始めた人で・・・

心のそこから良かったと、思っておられるだろう人にはついぞ、お会いした事がありません。

大きな組織は、大きな組織なりに、バックがしっかりしていてやりがいがあります。

外に出て、自分で商売を始めて、頑張った末、どんどん組織が大きくなれば、

その組織は「俺一人のものではなくなります」

俺の好き勝手は出来なくなるし、してはナリマセン。




過去に会社を辞めて、車販売の商売を始めた人は、沢山おられます。

でも、前の会社を辞めてよかったと言える人は、、

数百人に一人、いや数千人に一人なのです。




私自身が、はっきりと、今のほうが良いと思えるようになったのは、

最近になって、「自分は、今でも仕事上の夢を楽しんで描いている、

これは、ユーズネットグループがあるからなんだ!」と思うようになってからです。

と言うことは、ここに至るまでに、40年必要だったと言うことです。



私が、もう一度、カローラ愛豊のセールスマンにタイムスリップしたなら、、、、

いやな上司でも、ひと時冷や飯を食べさせられようと、辛抱して頑張れると思います。

その後に、自分が外で味わった苦労と比較すれば、たやすく耐えられます。

たかだか、ひとりの上司の為に、自分の一度しかない人生を・・

危険な目にさらすことは避けると思います。



大きな夢と、大志があって、会社を辞めようと思った時は、お世話になった組織に、最大限配慮して、

堂々と、スピンアウトしたいものです。

退社した後々も、元の会社、スタッフから、協力が得られる関係でありたいと思います。



そして、後輩達から、◎◎さんは、過去うちの会社にいた先輩です。

と胸を張っていってもらえるような人間になりたいものです。




私自身は、「思い切って退社して、今の道を歩んで来てよかったなぁ」と、

こころから思い、堂々と言えるような人生にしたいと今も願いながら仕事をしています。



自分だけで出来ていると思うな!!

組織の中で、生かされている自分を知れ!!




私の販売の原点

また続き書きます。






上司の態度で部下の人生がかわる。

お客さんのため・・・会社のため・・・自分のため・で頑張ってきた毎日でしたが、、

自分の頑張りが、嫌いな係長の、成果・手柄になるのは許せませんでした。

すっかり、気力をなくしてしまった私は、この先のことを考えていました。

このままですと、この会社で、係長ー課長と役職が上がっていきます。

今、自分の上司である係長を見ていて、とてもあの地位になりたいとは思えません。

でも、今の会社の仕組みからすれば、かならず係長と言う地位を通らなければなりません。




忘れていた、「自分は自動車屋になりたい!」・・が、また目覚めてきました。

この程度でしたから、熱く、熱く、「自動車屋になりたい!」と夢見て、、

車の販売を頑張ったわけではありませんでした。

たまたま、目標が出来て、それを達成したい!!の繰り返しをしていたのでした。

新車のセールスになり、間もなく2年になろうかと言う夏のはじめ・・

今の販売実績が、嫌いな係長の実績にもなってしまうことに耐えられない。

社内で、将来の夢はなくなり、自分の目標もなく、すっかり、やりがいがなくなってしまいました。




住吉町のクラブ「ココボ」で、トヨタ自販の中古車部、功刀(クヌギ)と言う次長と親しくなり、

くるま先進国アメリカの中古車事情の、話を聞かせてもらう機会が良くありました。

その話の中で、近い将来、欧米並みに中古車の販売台数が伸びて、

新車の台数を越すほどの「中古車時代」がやってくると確信が持てました。





間もなく、「独立して中古車会社を経営したい」と言う方向に夢を、描き出しました。

そんな話を、例の「競馬の専務」と話していたら、、、、

井上君が社長になって、中古車会社を一緒に経営しようではないかと言う話が出ました。

いい話だとは思いましたが、資本金になるわずかなお金も自分にはなく、口を濁しておりました。





そんな話が出てから、間もなくのある日・・・

鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。

翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。

車も大きく痛んでしまいました。

幸いにも首の痛いのは、1週間~10日ほどで収まりました。

相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。





「今だ!今しかない!!” 」


その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。

私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。


新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。

あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、

トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。

何度も何度も、専務や部長が引止めるのを振り切って・・・





名古屋市瑞穂区山下通り 

   株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦

この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。

私が、26歳になったばかりの時でした。

私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。

嫌いだったあの係長を「反面教師」とさせてもらったことはいうまでもありません。 


上に立つ者の・・

俺が”俺が”の態度で、、

部下が離れる!!



私の販売の原点

続き又書きます。





















貸しを作る。

セールスになって、1年経ち、、、25歳になりました。

昨年の、秋は、ハワイキャンペーン最中の、急性腎炎で苦労をさせてもらいました。

2年目の秋は、打って変わって、他のセールスの人たちには申し訳ないほど、、

とても楽に、電話で、車の販売は出来てしまいました。



先に書いたように、競馬についていく・・・

お客さんの会社の、慰安旅行の運転手を頼まれる。

運転手が休んだからと、臨時の運転手をたのまれる。

収入が上がってきたので、お客さんの店でテレビなどを買う。

いろんなお店の商品の販売に協力してお客さんを紹介する。


すべてが、車の販売に結びつきました。

このようなことをしながら、とても楽しく仕事をさせてもらっていました。






マイクロバスの運転手として、社員旅行のお供で、九州・・北陸・・いろんなところへ行かせてもらいました。



結局、物を売ることを、仕事とするなら・・・

信頼できる・・頼りになる・・そして、世話になっている、と相手に思ってもらうことをする。

これがとても大切ではないかと、今でも思っています。

お客様に、挨拶では、「お世話になっています」と言いますが・・・

本当にお世話になる事が続いたら、お客様は離れていきます。

お世話にならず・・先にお世話をさせてもらうことが大切と思います。



セールスになって、2年目の、昭和42年が終わりました。

セールス1年目は、8月からでしたので、、

1年間の台数が集計されたのは、初めてでした。

その頃の会社には、150~160人ほどのセールスがいたと思います。

1番になったのは、私で・・年間で160台ほどだったと記憶しています。

2番の人は、110台ほどでしたので、年間で、50台ほどの差がついていました。

当時のトヨタ自販から、表彰されました。「自販表彰」と言っておりました。


足掛け、3年目に入って、昭和43年・・会社の成長と共に、直属の上司も良く変わりました。

係長は、4人目でした。

今までの係長とは、私は非常に馬が合い、楽しく仕事をさせてもらいました。

新しい係長は、私が一生懸命仕事で成果を挙げてきても・・・すべて、自分の成果のような発言をしていました。

そんな、係長を見ていて、「やれば、あいつの手柄か」と思うだけでいやになってしまいました。


そんな中ででも、台数だけは落とさないようにしていました。

今の仕事を続けても、、、、こうなりたいと言う夢はありません。

すっかり、どこかへおいて来てしまっていた、「自動車屋さんになりたい」と言う夢がまた出てきました。


この年の7月、わずか2年のセールス生活でしたが、ピリオドを打ってしまいました。



お客さんから、先に信頼を得る。

信頼されたら、先にお客さんのためになることをする。

先に貸しを作れば、必ず返ってくる。


私の販売の原点

又続き書きます。



初心に帰る・・



蓼科へは、柴田君のカローラと私のカラーラ2台で行きました。


帰り道です。国道19号線、薮原の近くに、木曾義仲を祭った神社が左側にありました。

自分のカローラで、私が運転していました。くだりの直線で結構なスピードが出ていました。

前の車を追い越してすぐでした。。。


左から、とまれの旗を持ったおまわりさんが飛び出てきました。

「しぃーまったぁー!!」

気がつくのが、遅すぎました。「ネズミ捕り」に引っかかってしまいました。



相当日にちが経ちましたが、違反の通知は来ませんでした。。。

「木曾の山の中だから、警察の手違いで消えてしまったわぁ」と安心していたら、、、

来ました、来ました!・・・結局、平針へ呼び出しで・・免停になってしまいました。

講習を受けて、尚、1ヶ月の免停でした。



その日から、歩いてお客さんのところへ、重いかばんを持っての毎日になりました。

9月まだまだ暑い日が多かったので、汗びっしょりになりました。

免停になる前まで、、毎日、お客さんからの電話があると、車で走っていくと言う、

とてもなまくらな、毎日になっていましたので、かばんの重さと、暑さが、身にしみました。

自転車も用意しましたが、歩きより惨めな感じがして、あまり使いませんでした。

急ぎ行かなければならない時は、仲間に送ってもらっていましたが、帰りは歩きとなります。


なまくらが芯から身についてしまっていた私でしたが、

車を使わなくなり、歩いていて、今まで見えなかったことが見えて来ました。

それは、全く空白にしていた地域だったり、近々代替になりそうな車のある家があったり。

帰りに歩きながら、ここはと思う家、会社に、名刺とカタログを置いてくるようにしました。

今までの空白をどんどん埋めることが出来ました。

車に乗っていたら、絶対売れなかったはずの販売が増えてきました。

「セールスは足で稼げとはよく言ったものです」

結局、免停中も販売台数が減ることはありませんでした。


汗をかき、必死に歩くことで、1年少し前の、あの苦しかった当時を思い出すことが出来ました。



免許証を警察に預けて・・・

自分が扱っている商品、、車のありがたさを再認識できました。

見えなかった、お客さんが見えてきました。

協力してもらって、仲間のありがたさを改めて思いました。







「初心に帰る・・」

「自分の商品(くるま)に感謝する・・」




私の販売の原点

又続き書きます。


確率を目標にする・・

わたしが大切にしていた、新車販売手法は、「確率を常に重んずる」と言うものでした。

セールスになりたての頃・・・

   新規で100軒訪問すると、〇軒 話を聞いてもらえるから、確率は A%

   〇〇軒(人)にはなしを聞いてもらうと、〇人と商談になる、確率は B%

   10件商談に入ると、1ヶ月以内に〇台売れるから、、、   確率は C%


◎ A×B×C=の確率%が、一定の場合、訪問件数を増やさなければ、販売台数は上がらない。

◎ 時間が取れなくなり、訪問件数が減ってしまうなら、A×B×C=の確率%をあげなければ、かくじつに成績は下がる。

◎ 新人1~2ヶ月は、A=10% B=20% C=20%  訪問件数 : 販売台数=0.4% 位の割合でした。
    
   1ヶ月、、新規訪問 約3000軒で・・・12台の割合でした。


◎ 販売になれてきて、お客さんとのコミュニケーションがうまくいけば、B・とCの%をぐんぐんあげることが出来ます。
   
   電話で商談が入るようになれば、新規訪問をしなくても、、販売台数は、伸びるはずです。




もう一つは、安定販売台数の維持という観点から、私どもの扱う対象車両を10台以上持つ得意先で、

高い確率で私から買ってくださるはずの企業を、15社持つと言う目標を持ちました。

この15社は、平均対象車両を、約25台保有しておりましたから、約375台です。

この375台が、平均3年以内に代替になっていましたので、年間120台以上見込めます。月10台以上です。

この企業15社を持てるようになるのに、例のハワイのお土産、以前の敵、石黒セールスが、大きく貢献してくれました。

セールスになって間もなく1年という時には、ほぼ確実に、15社の企業から、月10台は決まるようなっていました。

加えて、この会社の社員さんの購入と、過去に買っていただいた方の紹介が入るようになり、

月に13~15台は売れていました。全社ではセールス一人当たり平均4台ほどの頃でした。



月によっては、他の営業所で、私の全社1番を脅かし、私を越す、セールスが出ましたが、、

相手は、常に変わっていました。常時私の台数を上げる人は社内にはいませんでした。

1年経った頃、台数の割には、苦労もなく、過去の病気もすっかり治り・・

とても楽しいセールス生活を送っておりました。



1年前の、新人だった、8月と1年経過したこの年の8月は、天国と地獄の差がありました。

夏休み、同じ係りの仲間と、蓼科の会社の山の家へ行きました。




蓼科高原にて、、、左が、野村君  真ん中が私(あと2週間で、25歳になります) 右は北爪君






私が嫌がるみんなを、引っぱって、蓼科山へ登りました。

前列真ん中が、私です。 真後ろが、竹内係長(後に常務になられました)





「先憂後楽」

目標数字は、台数のみでなく・・・

将来の為に、確率の目標を持つ。

決めた確率数字に向かってまい進する。



私の販売の原点

続き又書きます。







あえて、絶壁に立つ・・

ハワイから帰ってきて、間もなくの春でした。

トヨタカローラ愛豊、社内の新車拡販キャンペーンがありました。

1ヶ月間と言う、短期のキャンペーンでした。

1ヶ月間で、1番は、表彰状と、現金八万円、2番は、五万円 、3番は、三万円でした。


もう、勝手に、八万円は会社から、私に約束されたお金も同然と決めていました。



丸栄百貨店と、明治屋の間の道を南に少し行ったところ、住吉町に、「ココボ」と言うクラブがありました。

ここに、中学校、高校と同じだった、暎子と言う人が勤めておりました。

「ココボ」と言う名前は、経営者が、太平洋戦争のとき、ラバウルにいて、そこの港の名前をつけたとのことでした。

社内キャンペーンが発表になって、間もなくです。

一生に一度でいいから、クラブなるところで、豪遊を経験してみたいと常々思っていました。

「ココボ」へ暎子さんを訪ねて行って、支払いは、キャンペーンが終わって賞金のもらえる日にと先ずお願いして・・・

飲めヤ、唄えのドンちゃん騒ぎをしてしまいました。24歳で、初めてクラブでの豪遊でした。

暎子さんはじめ、数名の女性に、同席してもらいどんどん飲んでもらいました。

8万円分全部使うつもりでしたが、一人では、8万円は使えませんでした。

確かな金額は覚えていませんが、5万円ほどの借金を作ったと思います。

一夜明けて、自分のしたことが、馬鹿らしく、しきりに反省はしましたが、もう後の祭りです。




社内キャンペーンが始まりました。先ず自分の車をパブリカからカローラに換えました。

その後が続きません。なかなか、注文書にならないのです。

まだセールスになって、7~8ヶ月しかたっていない私ですが、行動パターンを、訪問件数優先から、、

効率優先に変えていました。セールスになったばかりの時は、1日、100軒以上の訪問を繰り返していましたが・・・

狙いを定め、大口優先で、1日12・3軒の訪問に変えていました。

あせりの毎日でした、あせればあせるほどうまくいきません。



その日も、売れず、夕方しょぼしょぼと事務所に帰ってきました。

課長がにらめつけるように座っておりました。大野芳春と言う課長でした。

にらめつけるように、と言ったのは、その課長、四角い、ごつい顔で、あだ名を「鬼瓦」と言われていたほどです。


「井上君、何だ、君の成績は、恥ずかしくないか?」

「ハワイへ行った、優秀セールスが、今は、こんなんで、課長として、俺が恥ずかしいわ!!」

「む・・・!!」 そのとき私の顔は引きつっていたと思います。

「悔しいか!!??悔しかったら、注文書を束にして、殴りかかって来い!!」

・・・・顔は真っ赤、頭に血が上りました・・・・

悔しくても、そのとうりだったんで何も返す言葉はありませんでした。

私の、腹の中は、煮えくり返っていました。



「みておれ!!!」久々に、私の頭は、悔しさで、血管が爆発しそうでした。

8トラのステレオで、毎日、朝・移動時間・・鶴田浩二の、軍歌を聞きながら唄いながら、自分を奮い立たせました。

気合が入ったからか、たまたまか?大口の企業から電話が連続で入りました。

その週、土曜日の夕方・・・・4台分の注文書を丸めて・・・

「課長””殴らせてもらいますヨ!!」と言って、「鬼瓦」の前へ行きました。


鬼瓦課長・・「おう、、井上君うれしなー・・思う存分殴ってくれや!!」


私の性格をとても良くわかって、ぎりぎりまで私を追い込んだ、あの課長・・・すばらしい上司でした。


結果、、その月の終わりまでに・・・私の数字が頭を出しました。

「ココボ」の借金は、約束どうり、無事支払えました。


ところがです。翌月の給料から、給与分+賞金分の所得税を引かれ、四苦八苦しました。




「自分を敢えて、絶壁に立たせる!!

絶壁に立つと、強力な力が出せるもの」


「私の販売の原点」

  続き又書きます。










毎日、全社の成績リストが届きますが、一週間過ぎた頃、まだ中位の成績でした。


ハワイのお土産・・・

 

昭和42年があけました。。この年、私は、24歳でした。


1月早々から、ハワイへ行くための勉強会がありました。

● エレベーターとか乗り物では、後ろから、女性が来たら、「プリーズ」と言って先をゆずる。

● 風呂では、部屋へ水が流れ出てくるから、外では洗わない。

● ホテルの部屋から寝巻きで外へ出ない、廊下は公道である。

● トイレは水を流すようになっている。一回一回、確実に流すこと。

    など・・など・・など・・当時の私は何も知りませんでした。      

いろいろ勉強しましたが、新幹線にも乗ったことがない私には、びっくりすることばかりでした。

前日、品川のホテルへ集合して、一泊し、ここでも、実地研修が行われました。






昭和42年1月30日、、

パンアメリカン航空チャーター便にて、憧れのハワイへと旅立ちました。

機内での食事の豪華さと、お酒類の飲み放題には、ぶったまげました。

ワイキキのホテルは、ヒルトン、ハワイヤンヴィレッジでした。


ここで又、食事にびっくり!! 太い大きな肉(ステーキ)が、食べ放題!!

あの頃の自分には、食べ放題は(バイキング)は驚き以外の何物でもありませんでした。

椰子の木は、写真では見たことがあっても本物は初めてでした。

真夏の太陽・・・きれいな海岸と、砕ける波、葉巻と香水のにおい、、すべてが感動でした。

初めて、波乗り(サーフィン)なるスポーツを知り、挑戦もしました。うまく波に乗ると気持ちよく滑りました。


(きょろ?きょろ?びっくり”感動!!の連続で)・・・1週間は瞬く間に過ぎて行きました。


この1週間、、同じテリトリーを担当している、トヨタカローラ名古屋のトップセールス、石黒 肇さんと同部屋でした。

彼はハワイへ来てから、自分の上司と、会社の、批判と愚痴ばかり言っておりました。

逆に私は、上司が非常によいこと、会社もとても社員を大切にしてくれて、やりがいのあることを話しました。

所得も、大きな開きがあることがわかりました。

両社の差がわかればわかるほど、彼の愚痴はひどくなりました。



彼の愚痴を聞きながら、あることを、計画しだしました。   それは・・・・

「石黒セールスがいなければ、俺はずっと車が売りやすくなる!!自分の会社へ引き抜いてやれ!!」でした。

「居なくなるだけでなく、協力者になってもらえば、自分はこの先安泰だ!!」



ハワイでの日程もあとわずかになり、本人から、移籍したい旨、私にはっきりと依頼してきました。

私は、帰ったら部長に話すなど、協力を惜しまないと約束しました。


ハワイへ行く時は全くの敵であった人が、帰りには、すっかり身内で味方に変わっておりました。


敵会社のトップセールスと言う、大きなお土産をもって、ハワイから帰ることが出来ました。
・・


いろいろありましたが・・春になって、トヨタカローラ愛豊の、石黒セールスが誕生しました。

あれから、42年の月日が過ぎました。

その石黒さんも、定年を迎える前に身体をこわし退職されたと聞きました。

ずっと、このこと(引き抜き)は、口外してはいけないと思っておりましたが、

もう時効を迎えたと思い、かきました。

「今だから言えることです」


もっと売るぞ!!

「もっと売りたい!!

と・・常に意識を強く持っておれば・・

売るための・・

売れるようにするための方策は見えてくる」




私の販売の原点

  続き又書きます。












正面からダメなら・・


24歳でセールスになり、まだ経験わずか、半年頃の話です。

私の回っていた、担当テリトリーには、 

同じ車種を扱っている、トヨタカローラのディーラー5社の5人と、

競合車種の日産サニー、マツダファミリアのセールスがひしめき合って、

同じ地域を競争して回っていました。

10台から50台ほどの車を使用している、商店、会社が何社かありましたが、常に激しい競争になりました。

カローラ愛豊の私が新規参入する前は、石黒 肇と言うセールスがダントツに強かったようでした。

この石黒さんは、この同じテリトリーで、毎月コンスタントに10台以上売る、カローラ名古屋のトップセールスでした。



当時の車検期間は、乗用車・新車から2年、ライトバン・1年でした。

今と違って、仕事用の車は、大体2年~3年で代替されるのが普通でした。

パブリカ、サニーを中心に、40台ほどの車を営業と配達用に使っている、ある会社がありました。

この会社は、増車も含めると、年間20台の購入が見込めました


どうしてもこの会社に食い込みたい私は、何度も足を運びました。

「新人ではダメだよ、うちの会社は、カローラ名古屋のトップセールスから買っているから」、と取り合ってももらえませんでした。

決定権者である、専務さんには名刺も届かず、当然会ってももらえませんでした。

その専務さんの車には、スタンドの頃ガソリンを入れさせてもらっていたので、お顔は知っていました。





「何とかしなければ」と、困り果てた私は・・・”捨て身の策”に出ることにしました。「やってみよう!・・だめもとだ」、と、、、


社内の人から、専務さんは、競走馬を持っている。その馬は名古屋競馬場で走っている。

その馬の名前も聞き出しました。

競馬の知識を、全く持っていなかった私は、名古屋市中川区土古町、名古屋競馬場へ勉強に行きました。

競馬新聞を買い、専務の馬についても調べました。

競走馬には、アラブとサラブレットの2種類があり、専務さんの馬は、アラブでしたが、とても強い馬でした。



いよいよ私の”捨て身の策”、を打つ日が来ました。

その馬が明日出走するのです。

・・・電話で・・・「専務さんお願いします・・・」  「どちら様ですか?どのようなご用件です?」

「井上と申します。明日出走する専務さんの馬,〇 〇 〇についてなんですが・・・」

馬の話と言うことで、専務さん電話に出てくれました。

「専務の● ● です。どちらの井上さん?」 

「以前スタンドにいて、今は愛豊にいる井上です。今日は、仕事の話ではなく、明日出走する、専務さんの馬の話で・・・」

「明日走るけど、なんだった?」

「明日は、時間があるんで、会社に内緒で、競馬場へ行こうと思っていますが・・専務さんの馬の調子は、、、?」

「馬鹿もん””・・仕事中に、ひどいやつだなー、会社にばれたらどうするんだ!知らんぞ!」

「まぁいいや・・30分後には、体が空くんで、ちょっと来いよ・・」

30分後、、初めて、社長室に通されました。

いろいろ馬の話を聞かせてもらいました。 

「明日一緒に行こぅか?」 「ありがとうございます、喜んで、おともさせていただきます」

専務さんと、お父さんの社長さんを乗せて、競馬場まで、社長車クラウンの運転手をさせていただくことになりました。

競馬場の席は、立派な馬主席でした。専務さんの馬は今日もやっぱり強くて、なんなく勝ちました。

馬券も買いましたので、いくらだったか、覚えてはいませんが、儲けることも出来ました。

帰りの車の中・・「井上君、会社へ電話で、お宅のセールスが、時間中競馬をやっていたヨ!と、バラしたろかなー”」

冗談を言いながら、専務さんも、社長さんも、自分の馬が勝ったので上機嫌でした。





会社へ戻ってきました。「ちょっと寄っていけやぁ」と言うことで社長室へ案内されました。

車管理の担当者に電話で、「○ ○ くん、次のライトバン、トラックの代替予定は?、---あそう・・じゃーその2台、

愛豊の井上君で決めておいて・・・」


この日は、競馬で儲けて、車を2台買ってもらい、、すばらしい 1日となりました。

この日以来、この会社のほとんどの車は、私が納入することになりました。




この専務さん、その後、社長になられ、今は相談役になっておられます。

あの・・競馬場へご一緒してから、、42年が経ちましたが・・

今でも、近くを通ると、「うどんご馳走して!」と、立ち寄ります。



あの、カローラ名古屋のトップセールスマン  石黒 肇さん も、ハワイへ行かれました。

パブリカのセールスで愛知県代表で、ハワイへは3人行かせてもらいました。

同じ地区を回っていると言うことで、私と石黒さんとは、競争相手を越して、お互いが敵でした。

が・・なんと私と石黒さんとは、ハワイのホテルで、ずっと、同室でした。

真正面から、攻めてみてダメなら・・

「切り口を変えてみる。」

どこかに突破口が、潜んでいるはず・・・



私の販売の原点

  続き書きます。


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