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自分から学ぶしかない。

セールスになって、半年くらいまでは、先輩や上司がいろいろ教えてくれました。

商談の進め方など、悩んでしまうこともありました。

商談の過程では、きっとこのお客さんは、買って下さるだろう感じがしていても、

結果決まらなかったりがあり、自分では「なぜ?」「どうして?」がつかめませんでした。

上司・先輩に商談経過・状況を話して教えてもらおうとしても・・・

「井上君で売れなかったら、誰が商談しても売れないよ、自分は教える立場にない”」

つれなく言われてしまいます。「でもあのお客さんは、商談の進め方では、きっと買ってくださったはず」

「もったいないことをしてしまった。何かがいけなかったんだ・・」



悩んだ挙句、小型のテープレコーダーをかばんの中にしのばせ、商談をテープにとることにしました。

その頃、小牧から朝、1時間半以上かけて通勤していましたので、テープをじっくり聞くことが出来ました。

いろんな商談を何度も聞いていて、ほぼ購入を決められたお客さんからは、必ずと言うくらいに、

「買わせてください」と言うサインが出ていることを発見しました。

それとわからず、今までは商談の最終段階で、念には念を入れて、

商品・支払い方法などを、説明していたのでした。 これは、自己満足でしかありませんでした。



お客さんの「決めようかな」と言う決断、意志決定と、売る側のリズムがあっていなかったのでした。

結果、お客さんから、「ありがとう、良くわかった。検討して後日また連絡するよ・・」と言われてしまっていました。

そして後日、連絡すると、「やっぱり、今回は止めておくよ」「イヤー悪かった、他社で決めたよ・・」

となることが多かったです。

このリズムが良くわかり、商談進行の方法を改善して、商談決定率が格段に上がりました。

自分の商談から、自分が学ぶことが出来たのでした。



それ以来、私の商談は、、、

ピッチャー(お客さん)の投げる変化球・剛速球がバッターの私にとって、、

あたかも、止まっているかのように、良く見えるようになりました。


商談決定率(打率)が上がって、

いっそう安定して販売台数を上げることができるようになりました。



私は通勤する車の中で、いつも・・・

   自分の商談テープを聞くか、

   軍歌を聞いて(歌って)おりました。




反省のないところに・・

成長はない!!

反省があれば・・

自分自身から学ぶこともできる!!




私の販売の原点

続き又書きます。


40年かかっても答えは出ません。


トヨタカローラ愛豊、今思えば、すばらしい会社だったと思います。

退社して、40年になりますが、やめて今の道を選んだ方が良かったのか?

未だに、答えは、はっきりと出ておりません。

両方の道を、歩むことは出来ないからです。



少なくとも、退社して、20年くらいは、、

生活と言う面では、はっきりと、やめなかったら良かったと悔やむ日ばかりでした。

男性で定年まで勤めず、やめて職を変えた人は7割くらいはいるんではないかと推測できます。

人それぞれ価値観がちがいますから、一概には言えませんが、、

少なくとも、中途退職した人の中で、カローラ愛豊及び、愛知トヨタグループを辞めて、

独立して新しく商売を始めた人で・・・

心のそこから良かったと、思っておられるだろう人にはついぞ、お会いした事がありません。

大きな組織は、大きな組織なりに、バックがしっかりしていてやりがいがあります。

外に出て、自分で商売を始めて、頑張った末、どんどん組織が大きくなれば、

その組織は「俺一人のものではなくなります」

俺の好き勝手は出来なくなるし、してはナリマセン。




過去に会社を辞めて、車販売の商売を始めた人は、沢山おられます。

でも、前の会社を辞めてよかったと言える人は、、

数百人に一人、いや数千人に一人なのです。




私自身が、はっきりと、今のほうが良いと思えるようになったのは、

最近になって、「自分は、今でも仕事上の夢を楽しんで描いている、

これは、ユーズネットグループがあるからなんだ!」と思うようになってからです。

と言うことは、ここに至るまでに、40年必要だったと言うことです。



私が、もう一度、カローラ愛豊のセールスマンにタイムスリップしたなら、、、、

いやな上司でも、ひと時冷や飯を食べさせられようと、辛抱して頑張れると思います。

その後に、自分が外で味わった苦労と比較すれば、たやすく耐えられます。

たかだか、ひとりの上司の為に、自分の一度しかない人生を・・

危険な目にさらすことは避けると思います。



大きな夢と、大志があって、会社を辞めようと思った時は、お世話になった組織に、最大限配慮して、

堂々と、スピンアウトしたいものです。

退社した後々も、元の会社、スタッフから、協力が得られる関係でありたいと思います。



そして、後輩達から、◎◎さんは、過去うちの会社にいた先輩です。

と胸を張っていってもらえるような人間になりたいものです。




私自身は、「思い切って退社して、今の道を歩んで来てよかったなぁ」と、

こころから思い、堂々と言えるような人生にしたいと今も願いながら仕事をしています。



自分だけで出来ていると思うな!!

組織の中で、生かされている自分を知れ!!




私の販売の原点

また続き書きます。






上司の態度で部下の人生がかわる。

お客さんのため・・・会社のため・・・自分のため・で頑張ってきた毎日でしたが、、

自分の頑張りが、嫌いな係長の、成果・手柄になるのは許せませんでした。

すっかり、気力をなくしてしまった私は、この先のことを考えていました。

このままですと、この会社で、係長ー課長と役職が上がっていきます。

今、自分の上司である係長を見ていて、とてもあの地位になりたいとは思えません。

でも、今の会社の仕組みからすれば、かならず係長と言う地位を通らなければなりません。




忘れていた、「自分は自動車屋になりたい!」・・が、また目覚めてきました。

この程度でしたから、熱く、熱く、「自動車屋になりたい!」と夢見て、、

車の販売を頑張ったわけではありませんでした。

たまたま、目標が出来て、それを達成したい!!の繰り返しをしていたのでした。

新車のセールスになり、間もなく2年になろうかと言う夏のはじめ・・

今の販売実績が、嫌いな係長の実績にもなってしまうことに耐えられない。

社内で、将来の夢はなくなり、自分の目標もなく、すっかり、やりがいがなくなってしまいました。




住吉町のクラブ「ココボ」で、トヨタ自販の中古車部、功刀(クヌギ)と言う次長と親しくなり、

くるま先進国アメリカの中古車事情の、話を聞かせてもらう機会が良くありました。

その話の中で、近い将来、欧米並みに中古車の販売台数が伸びて、

新車の台数を越すほどの「中古車時代」がやってくると確信が持てました。





間もなく、「独立して中古車会社を経営したい」と言う方向に夢を、描き出しました。

そんな話を、例の「競馬の専務」と話していたら、、、、

井上君が社長になって、中古車会社を一緒に経営しようではないかと言う話が出ました。

いい話だとは思いましたが、資本金になるわずかなお金も自分にはなく、口を濁しておりました。





そんな話が出てから、間もなくのある日・・・

鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。

翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。

車も大きく痛んでしまいました。

幸いにも首の痛いのは、1週間~10日ほどで収まりました。

相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。





「今だ!今しかない!!” 」


その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。

私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。


新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。

あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、

トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。

何度も何度も、専務や部長が引止めるのを振り切って・・・





名古屋市瑞穂区山下通り 

   株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦

この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。

私が、26歳になったばかりの時でした。

私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。

嫌いだったあの係長を「反面教師」とさせてもらったことはいうまでもありません。 


上に立つ者の・・

俺が”俺が”の態度で、、

部下が離れる!!



私の販売の原点

続き又書きます。





















貸しを作る。

セールスになって、1年経ち、、、25歳になりました。

昨年の、秋は、ハワイキャンペーン最中の、急性腎炎で苦労をさせてもらいました。

2年目の秋は、打って変わって、他のセールスの人たちには申し訳ないほど、、

とても楽に、電話で、車の販売は出来てしまいました。



先に書いたように、競馬についていく・・・

お客さんの会社の、慰安旅行の運転手を頼まれる。

運転手が休んだからと、臨時の運転手をたのまれる。

収入が上がってきたので、お客さんの店でテレビなどを買う。

いろんなお店の商品の販売に協力してお客さんを紹介する。


すべてが、車の販売に結びつきました。

このようなことをしながら、とても楽しく仕事をさせてもらっていました。






マイクロバスの運転手として、社員旅行のお供で、九州・・北陸・・いろんなところへ行かせてもらいました。



結局、物を売ることを、仕事とするなら・・・

信頼できる・・頼りになる・・そして、世話になっている、と相手に思ってもらうことをする。

これがとても大切ではないかと、今でも思っています。

お客様に、挨拶では、「お世話になっています」と言いますが・・・

本当にお世話になる事が続いたら、お客様は離れていきます。

お世話にならず・・先にお世話をさせてもらうことが大切と思います。



セールスになって、2年目の、昭和42年が終わりました。

セールス1年目は、8月からでしたので、、

1年間の台数が集計されたのは、初めてでした。

その頃の会社には、150~160人ほどのセールスがいたと思います。

1番になったのは、私で・・年間で160台ほどだったと記憶しています。

2番の人は、110台ほどでしたので、年間で、50台ほどの差がついていました。

当時のトヨタ自販から、表彰されました。「自販表彰」と言っておりました。


足掛け、3年目に入って、昭和43年・・会社の成長と共に、直属の上司も良く変わりました。

係長は、4人目でした。

今までの係長とは、私は非常に馬が合い、楽しく仕事をさせてもらいました。

新しい係長は、私が一生懸命仕事で成果を挙げてきても・・・すべて、自分の成果のような発言をしていました。

そんな、係長を見ていて、「やれば、あいつの手柄か」と思うだけでいやになってしまいました。


そんな中ででも、台数だけは落とさないようにしていました。

今の仕事を続けても、、、、こうなりたいと言う夢はありません。

すっかり、どこかへおいて来てしまっていた、「自動車屋さんになりたい」と言う夢がまた出てきました。


この年の7月、わずか2年のセールス生活でしたが、ピリオドを打ってしまいました。



お客さんから、先に信頼を得る。

信頼されたら、先にお客さんのためになることをする。

先に貸しを作れば、必ず返ってくる。


私の販売の原点

又続き書きます。



初心に帰る・・



蓼科へは、柴田君のカローラと私のカラーラ2台で行きました。


帰り道です。国道19号線、薮原の近くに、木曾義仲を祭った神社が左側にありました。

自分のカローラで、私が運転していました。くだりの直線で結構なスピードが出ていました。

前の車を追い越してすぐでした。。。


左から、とまれの旗を持ったおまわりさんが飛び出てきました。

「しぃーまったぁー!!」

気がつくのが、遅すぎました。「ネズミ捕り」に引っかかってしまいました。



相当日にちが経ちましたが、違反の通知は来ませんでした。。。

「木曾の山の中だから、警察の手違いで消えてしまったわぁ」と安心していたら、、、

来ました、来ました!・・・結局、平針へ呼び出しで・・免停になってしまいました。

講習を受けて、尚、1ヶ月の免停でした。



その日から、歩いてお客さんのところへ、重いかばんを持っての毎日になりました。

9月まだまだ暑い日が多かったので、汗びっしょりになりました。

免停になる前まで、、毎日、お客さんからの電話があると、車で走っていくと言う、

とてもなまくらな、毎日になっていましたので、かばんの重さと、暑さが、身にしみました。

自転車も用意しましたが、歩きより惨めな感じがして、あまり使いませんでした。

急ぎ行かなければならない時は、仲間に送ってもらっていましたが、帰りは歩きとなります。


なまくらが芯から身についてしまっていた私でしたが、

車を使わなくなり、歩いていて、今まで見えなかったことが見えて来ました。

それは、全く空白にしていた地域だったり、近々代替になりそうな車のある家があったり。

帰りに歩きながら、ここはと思う家、会社に、名刺とカタログを置いてくるようにしました。

今までの空白をどんどん埋めることが出来ました。

車に乗っていたら、絶対売れなかったはずの販売が増えてきました。

「セールスは足で稼げとはよく言ったものです」

結局、免停中も販売台数が減ることはありませんでした。


汗をかき、必死に歩くことで、1年少し前の、あの苦しかった当時を思い出すことが出来ました。



免許証を警察に預けて・・・

自分が扱っている商品、、車のありがたさを再認識できました。

見えなかった、お客さんが見えてきました。

協力してもらって、仲間のありがたさを改めて思いました。







「初心に帰る・・」

「自分の商品(くるま)に感謝する・・」




私の販売の原点

又続き書きます。


確率を目標にする・・

わたしが大切にしていた、新車販売手法は、「確率を常に重んずる」と言うものでした。

セールスになりたての頃・・・

   新規で100軒訪問すると、〇軒 話を聞いてもらえるから、確率は A%

   〇〇軒(人)にはなしを聞いてもらうと、〇人と商談になる、確率は B%

   10件商談に入ると、1ヶ月以内に〇台売れるから、、、   確率は C%


◎ A×B×C=の確率%が、一定の場合、訪問件数を増やさなければ、販売台数は上がらない。

◎ 時間が取れなくなり、訪問件数が減ってしまうなら、A×B×C=の確率%をあげなければ、かくじつに成績は下がる。

◎ 新人1~2ヶ月は、A=10% B=20% C=20%  訪問件数 : 販売台数=0.4% 位の割合でした。
    
   1ヶ月、、新規訪問 約3000軒で・・・12台の割合でした。


◎ 販売になれてきて、お客さんとのコミュニケーションがうまくいけば、B・とCの%をぐんぐんあげることが出来ます。
   
   電話で商談が入るようになれば、新規訪問をしなくても、、販売台数は、伸びるはずです。




もう一つは、安定販売台数の維持という観点から、私どもの扱う対象車両を10台以上持つ得意先で、

高い確率で私から買ってくださるはずの企業を、15社持つと言う目標を持ちました。

この15社は、平均対象車両を、約25台保有しておりましたから、約375台です。

この375台が、平均3年以内に代替になっていましたので、年間120台以上見込めます。月10台以上です。

この企業15社を持てるようになるのに、例のハワイのお土産、以前の敵、石黒セールスが、大きく貢献してくれました。

セールスになって間もなく1年という時には、ほぼ確実に、15社の企業から、月10台は決まるようなっていました。

加えて、この会社の社員さんの購入と、過去に買っていただいた方の紹介が入るようになり、

月に13~15台は売れていました。全社ではセールス一人当たり平均4台ほどの頃でした。



月によっては、他の営業所で、私の全社1番を脅かし、私を越す、セールスが出ましたが、、

相手は、常に変わっていました。常時私の台数を上げる人は社内にはいませんでした。

1年経った頃、台数の割には、苦労もなく、過去の病気もすっかり治り・・

とても楽しいセールス生活を送っておりました。



1年前の、新人だった、8月と1年経過したこの年の8月は、天国と地獄の差がありました。

夏休み、同じ係りの仲間と、蓼科の会社の山の家へ行きました。




蓼科高原にて、、、左が、野村君  真ん中が私(あと2週間で、25歳になります) 右は北爪君






私が嫌がるみんなを、引っぱって、蓼科山へ登りました。

前列真ん中が、私です。 真後ろが、竹内係長(後に常務になられました)





「先憂後楽」

目標数字は、台数のみでなく・・・

将来の為に、確率の目標を持つ。

決めた確率数字に向かってまい進する。



私の販売の原点

続き又書きます。







あえて、絶壁に立つ・・

ハワイから帰ってきて、間もなくの春でした。

トヨタカローラ愛豊、社内の新車拡販キャンペーンがありました。

1ヶ月間と言う、短期のキャンペーンでした。

1ヶ月間で、1番は、表彰状と、現金八万円、2番は、五万円 、3番は、三万円でした。


もう、勝手に、八万円は会社から、私に約束されたお金も同然と決めていました。



丸栄百貨店と、明治屋の間の道を南に少し行ったところ、住吉町に、「ココボ」と言うクラブがありました。

ここに、中学校、高校と同じだった、暎子と言う人が勤めておりました。

「ココボ」と言う名前は、経営者が、太平洋戦争のとき、ラバウルにいて、そこの港の名前をつけたとのことでした。

社内キャンペーンが発表になって、間もなくです。

一生に一度でいいから、クラブなるところで、豪遊を経験してみたいと常々思っていました。

「ココボ」へ暎子さんを訪ねて行って、支払いは、キャンペーンが終わって賞金のもらえる日にと先ずお願いして・・・

飲めヤ、唄えのドンちゃん騒ぎをしてしまいました。24歳で、初めてクラブでの豪遊でした。

暎子さんはじめ、数名の女性に、同席してもらいどんどん飲んでもらいました。

8万円分全部使うつもりでしたが、一人では、8万円は使えませんでした。

確かな金額は覚えていませんが、5万円ほどの借金を作ったと思います。

一夜明けて、自分のしたことが、馬鹿らしく、しきりに反省はしましたが、もう後の祭りです。




社内キャンペーンが始まりました。先ず自分の車をパブリカからカローラに換えました。

その後が続きません。なかなか、注文書にならないのです。

まだセールスになって、7~8ヶ月しかたっていない私ですが、行動パターンを、訪問件数優先から、、

効率優先に変えていました。セールスになったばかりの時は、1日、100軒以上の訪問を繰り返していましたが・・・

狙いを定め、大口優先で、1日12・3軒の訪問に変えていました。

あせりの毎日でした、あせればあせるほどうまくいきません。



その日も、売れず、夕方しょぼしょぼと事務所に帰ってきました。

課長がにらめつけるように座っておりました。大野芳春と言う課長でした。

にらめつけるように、と言ったのは、その課長、四角い、ごつい顔で、あだ名を「鬼瓦」と言われていたほどです。


「井上君、何だ、君の成績は、恥ずかしくないか?」

「ハワイへ行った、優秀セールスが、今は、こんなんで、課長として、俺が恥ずかしいわ!!」

「む・・・!!」 そのとき私の顔は引きつっていたと思います。

「悔しいか!!??悔しかったら、注文書を束にして、殴りかかって来い!!」

・・・・顔は真っ赤、頭に血が上りました・・・・

悔しくても、そのとうりだったんで何も返す言葉はありませんでした。

私の、腹の中は、煮えくり返っていました。



「みておれ!!!」久々に、私の頭は、悔しさで、血管が爆発しそうでした。

8トラのステレオで、毎日、朝・移動時間・・鶴田浩二の、軍歌を聞きながら唄いながら、自分を奮い立たせました。

気合が入ったからか、たまたまか?大口の企業から電話が連続で入りました。

その週、土曜日の夕方・・・・4台分の注文書を丸めて・・・

「課長””殴らせてもらいますヨ!!」と言って、「鬼瓦」の前へ行きました。


鬼瓦課長・・「おう、、井上君うれしなー・・思う存分殴ってくれや!!」


私の性格をとても良くわかって、ぎりぎりまで私を追い込んだ、あの課長・・・すばらしい上司でした。


結果、、その月の終わりまでに・・・私の数字が頭を出しました。

「ココボ」の借金は、約束どうり、無事支払えました。


ところがです。翌月の給料から、給与分+賞金分の所得税を引かれ、四苦八苦しました。




「自分を敢えて、絶壁に立たせる!!

絶壁に立つと、強力な力が出せるもの」


「私の販売の原点」

  続き又書きます。










毎日、全社の成績リストが届きますが、一週間過ぎた頃、まだ中位の成績でした。


ハワイのお土産・・・

 

昭和42年があけました。。この年、私は、24歳でした。


1月早々から、ハワイへ行くための勉強会がありました。

● エレベーターとか乗り物では、後ろから、女性が来たら、「プリーズ」と言って先をゆずる。

● 風呂では、部屋へ水が流れ出てくるから、外では洗わない。

● ホテルの部屋から寝巻きで外へ出ない、廊下は公道である。

● トイレは水を流すようになっている。一回一回、確実に流すこと。

    など・・など・・など・・当時の私は何も知りませんでした。      

いろいろ勉強しましたが、新幹線にも乗ったことがない私には、びっくりすることばかりでした。

前日、品川のホテルへ集合して、一泊し、ここでも、実地研修が行われました。






昭和42年1月30日、、

パンアメリカン航空チャーター便にて、憧れのハワイへと旅立ちました。

機内での食事の豪華さと、お酒類の飲み放題には、ぶったまげました。

ワイキキのホテルは、ヒルトン、ハワイヤンヴィレッジでした。


ここで又、食事にびっくり!! 太い大きな肉(ステーキ)が、食べ放題!!

あの頃の自分には、食べ放題は(バイキング)は驚き以外の何物でもありませんでした。

椰子の木は、写真では見たことがあっても本物は初めてでした。

真夏の太陽・・・きれいな海岸と、砕ける波、葉巻と香水のにおい、、すべてが感動でした。

初めて、波乗り(サーフィン)なるスポーツを知り、挑戦もしました。うまく波に乗ると気持ちよく滑りました。


(きょろ?きょろ?びっくり”感動!!の連続で)・・・1週間は瞬く間に過ぎて行きました。


この1週間、、同じテリトリーを担当している、トヨタカローラ名古屋のトップセールス、石黒 肇さんと同部屋でした。

彼はハワイへ来てから、自分の上司と、会社の、批判と愚痴ばかり言っておりました。

逆に私は、上司が非常によいこと、会社もとても社員を大切にしてくれて、やりがいのあることを話しました。

所得も、大きな開きがあることがわかりました。

両社の差がわかればわかるほど、彼の愚痴はひどくなりました。



彼の愚痴を聞きながら、あることを、計画しだしました。   それは・・・・

「石黒セールスがいなければ、俺はずっと車が売りやすくなる!!自分の会社へ引き抜いてやれ!!」でした。

「居なくなるだけでなく、協力者になってもらえば、自分はこの先安泰だ!!」



ハワイでの日程もあとわずかになり、本人から、移籍したい旨、私にはっきりと依頼してきました。

私は、帰ったら部長に話すなど、協力を惜しまないと約束しました。


ハワイへ行く時は全くの敵であった人が、帰りには、すっかり身内で味方に変わっておりました。


敵会社のトップセールスと言う、大きなお土産をもって、ハワイから帰ることが出来ました。
・・


いろいろありましたが・・春になって、トヨタカローラ愛豊の、石黒セールスが誕生しました。

あれから、42年の月日が過ぎました。

その石黒さんも、定年を迎える前に身体をこわし退職されたと聞きました。

ずっと、このこと(引き抜き)は、口外してはいけないと思っておりましたが、

もう時効を迎えたと思い、かきました。

「今だから言えることです」


もっと売るぞ!!

「もっと売りたい!!

と・・常に意識を強く持っておれば・・

売るための・・

売れるようにするための方策は見えてくる」




私の販売の原点

  続き又書きます。












正面からダメなら・・


24歳でセールスになり、まだ経験わずか、半年頃の話です。

私の回っていた、担当テリトリーには、 

同じ車種を扱っている、トヨタカローラのディーラー5社の5人と、

競合車種の日産サニー、マツダファミリアのセールスがひしめき合って、

同じ地域を競争して回っていました。

10台から50台ほどの車を使用している、商店、会社が何社かありましたが、常に激しい競争になりました。

カローラ愛豊の私が新規参入する前は、石黒 肇と言うセールスがダントツに強かったようでした。

この石黒さんは、この同じテリトリーで、毎月コンスタントに10台以上売る、カローラ名古屋のトップセールスでした。



当時の車検期間は、乗用車・新車から2年、ライトバン・1年でした。

今と違って、仕事用の車は、大体2年~3年で代替されるのが普通でした。

パブリカ、サニーを中心に、40台ほどの車を営業と配達用に使っている、ある会社がありました。

この会社は、増車も含めると、年間20台の購入が見込めました


どうしてもこの会社に食い込みたい私は、何度も足を運びました。

「新人ではダメだよ、うちの会社は、カローラ名古屋のトップセールスから買っているから」、と取り合ってももらえませんでした。

決定権者である、専務さんには名刺も届かず、当然会ってももらえませんでした。

その専務さんの車には、スタンドの頃ガソリンを入れさせてもらっていたので、お顔は知っていました。





「何とかしなければ」と、困り果てた私は・・・”捨て身の策”に出ることにしました。「やってみよう!・・だめもとだ」、と、、、


社内の人から、専務さんは、競走馬を持っている。その馬は名古屋競馬場で走っている。

その馬の名前も聞き出しました。

競馬の知識を、全く持っていなかった私は、名古屋市中川区土古町、名古屋競馬場へ勉強に行きました。

競馬新聞を買い、専務の馬についても調べました。

競走馬には、アラブとサラブレットの2種類があり、専務さんの馬は、アラブでしたが、とても強い馬でした。



いよいよ私の”捨て身の策”、を打つ日が来ました。

その馬が明日出走するのです。

・・・電話で・・・「専務さんお願いします・・・」  「どちら様ですか?どのようなご用件です?」

「井上と申します。明日出走する専務さんの馬,〇 〇 〇についてなんですが・・・」

馬の話と言うことで、専務さん電話に出てくれました。

「専務の● ● です。どちらの井上さん?」 

「以前スタンドにいて、今は愛豊にいる井上です。今日は、仕事の話ではなく、明日出走する、専務さんの馬の話で・・・」

「明日走るけど、なんだった?」

「明日は、時間があるんで、会社に内緒で、競馬場へ行こうと思っていますが・・専務さんの馬の調子は、、、?」

「馬鹿もん””・・仕事中に、ひどいやつだなー、会社にばれたらどうするんだ!知らんぞ!」

「まぁいいや・・30分後には、体が空くんで、ちょっと来いよ・・」

30分後、、初めて、社長室に通されました。

いろいろ馬の話を聞かせてもらいました。 

「明日一緒に行こぅか?」 「ありがとうございます、喜んで、おともさせていただきます」

専務さんと、お父さんの社長さんを乗せて、競馬場まで、社長車クラウンの運転手をさせていただくことになりました。

競馬場の席は、立派な馬主席でした。専務さんの馬は今日もやっぱり強くて、なんなく勝ちました。

馬券も買いましたので、いくらだったか、覚えてはいませんが、儲けることも出来ました。

帰りの車の中・・「井上君、会社へ電話で、お宅のセールスが、時間中競馬をやっていたヨ!と、バラしたろかなー”」

冗談を言いながら、専務さんも、社長さんも、自分の馬が勝ったので上機嫌でした。





会社へ戻ってきました。「ちょっと寄っていけやぁ」と言うことで社長室へ案内されました。

車管理の担当者に電話で、「○ ○ くん、次のライトバン、トラックの代替予定は?、---あそう・・じゃーその2台、

愛豊の井上君で決めておいて・・・」


この日は、競馬で儲けて、車を2台買ってもらい、、すばらしい 1日となりました。

この日以来、この会社のほとんどの車は、私が納入することになりました。




この専務さん、その後、社長になられ、今は相談役になっておられます。

あの・・競馬場へご一緒してから、、42年が経ちましたが・・

今でも、近くを通ると、「うどんご馳走して!」と、立ち寄ります。



あの、カローラ名古屋のトップセールスマン  石黒 肇さん も、ハワイへ行かれました。

パブリカのセールスで愛知県代表で、ハワイへは3人行かせてもらいました。

同じ地区を回っていると言うことで、私と石黒さんとは、競争相手を越して、お互いが敵でした。

が・・なんと私と石黒さんとは、ハワイのホテルで、ずっと、同室でした。

真正面から、攻めてみてダメなら・・

「切り口を変えてみる。」

どこかに突破口が、潜んでいるはず・・・



私の販売の原点

  続き書きます。


決してあきらめない・・



8月に24歳になりました。。その翌月から、、

9月~11月までの、3ヶ月間の、オールトヨタ、ハワイキャンペーン

絶対行くぞ!!と決めたものの・・

治るまでに、2ヶ月は必要、と宣告された、急性腎炎・・

とにかく早く治さないことには、、、と、、つらい食事制限も必死に守り・・・

ハワイの写真などを見ながら、「理由なし、、絶対ハワイへ行く!」と毎日念じておりました。

10月は1日も、出勤できませんでした。当然販売は、0でした。

少し体調がよくなってきた頃から毎日、沢山のお客さんのところへ電話をすることと、、、

字が下手であまり好きでなかった、手紙を書き出しました。

気休めではじめた、電話と手紙だったのですが、

なんとなくお客さんの反応の良さがわかり、早く出社したくてたまりませんでした。



昭和41年11月 5日 水冷、1100CC、カローラの発表展示会が、東別院でありました。

パブリカは、空冷、2気筒で、エンジンが左右にゆれて、バタバタと音がしました、、、

静かな、水冷、4気筒の日産のサニーや、

同じ 800CCでも水冷4気筒で静かな、マツダのファミリアに

販売現場の我々は、苦戦しておりました。

カローラ新発売の新聞を見ながら、この車ならなら、きっと売れると、わくわくしておりました。



それから、4・5日ほど経って、医者の検査の結果、

デスクワークくらいならと条件付きではありましたが、待ちに待った出社の許可が出ました。

1ヵ月半 約45日間の病床だったため、出社しても足元がふらふらしておりました。

 
・・・売らなきゃ・・・  と言う気持ちだけが先走りしても身体がダメでした。

会社でできることと言えば、電話をかけるか、受けることだけでした。

でも電話番しか出来なかった私は、とても幸運をつかみました。

カローラが発表された後と言うことで、問い合わせの電話が沢山入って来たのでした。

「次の週末に、説明にお邪魔します。」と言うことで、一気に沢山の見込み客が出来ました。

当時のディーラーは、日曜日は休みでした。

足腰もやっとしっかりしてきた私は、休んでなんかいられませんでした。




11月が終わりました。。。

私は、10日頃から復帰して、月末まで、約20日間の稼動でした。

11月は、確か、23台の販売を達成したと思います。(前後1台くらいの誤差があるかも知れません)

キャンペーン期間3ヶ月間の内、約45日稼動 で 35台の実績を上げました。

残念ながら、3ヶ月トータルで、1台の差で社内の第2位になってしまいました。

36台でトップになったのは、後に愛知トヨタの役員になられた、

私より6・7歳、年上の佐藤と言うセールスマンでした。

「やるだけやったからしょうがないや」・・・と、ハワイはあきらめることにしました。



ここまで追い上げることが出来たのは、

◎ 病気中もあきらめずに、電話、手紙をフルに使ってお客さんとのコンタクトを取っていた。

◎ 復帰直後、電話番しか出来なかったことにより、電話の問い合わせから見込み客が出来た。

◎ 休みの日曜日、一人、社内で書類を作成していると、結構来客があり、見込み客となった。 

   といったことが重なって、結果に結びついたものだと思います。



キャンペーンが終わり、10日ほどが経ちました。

すっかりハワイのことは、あきらめて忘れていた私に、部長から、

カローラ愛豊から、ハワイへ、セールス 2名 マネージャー 1名 参加を知らされました。


このハワイキャンペーンは、

全国のトヨタディーラーセールスの中から選ばれた、と言うことで、、

社内では2番だった私も、ハワイへ行けることになりました。


うれしかったのは、優秀、マネージャーは、

私の直接の上司、、勝 係長 だったことでした。




・・・出来ない理由は、山ほどある・・・

「やれる方法を見つけ、行動する、

やろうと決めたら決して、あきらめない」



私の販売の原点

   続き又かきます。






健康管理も仕事の内・・


23歳でセールスになりました。

ベテランからすれば、何も知らない、若造でした。


井上の1番は、8月だけの「たまたまダ”」

あんなもの、きっと「線香花火!!」だろう。

ベテラン先輩のセールスの声が聞こえてきました。


何が何でも、9月もやらねばなりません。


9月~11月まで、3ヶ月間、

「オールトヨタ、セールスマン、ハワイ旅行キャンペーン」が発表になりました。

当時の、「トヨタ自販」の主催で、全国の、優秀セールスマンとマネージャーを

120名ほど(セールスマンは、70~80名)を来年2月にハワイ旅行に招待すると言う企画でした。

トヨタとして初めての海外旅行招待キャンペーンでした。

当時、愛知県にトヨタのディーラーは、7つあり、多分セールスマンは、

1500人ほどで、全国では、15000人以上いたと思います。

約、200人に1人と言う難関でした。


このハワイキャンペーンが発表になった時、自分は「絶対ハワイへ行くぞ!」

と心の中で勝手に決めておりました。

そして、身内だとか、友達に、「俺、2月にハワイへ行くヨ!」と言い切っていました。

1ドル360円時代でした。昭和41年、42年当時ハワイ、1週間旅行は、

1、000ドル 36万円と言われておりました。

私の基本給は、3~4万円でしたので、ちょうど年収分に相当する大変高価な旅行でした。



9月になり、商談にもなれてきて、ほとんどの商談は自分ひとりでできるようになっていました。

訪問件数を減らさないため、休みの日曜日・平日の夜・そして出勤前の朝も加えてみました。

気持ちだけが前へ行ってしまっての朝訪問でしたが、

朝の新規訪問は「こんな朝から何事?」とひんしゅくを買ってしまい、やめました。

体力には自信があったので、1日100件訪問を自分に義務付けました。

契約になった日、納車の日などは、昼に時間がとられてしまいます。

そのため、夜の訪問件数を増やしました。

ハワイへ行く・・ハワイへ行くと自分に念じながら毎日頑張りました。

9月も月末前で、すでに12台の販売台数になって社内ではダントツのトップでした。

その月末近くの日曜日に、近くの学校の運動場を借りて、社内運動会が行われました。

気合を入れて頑張った運動会の日、急に身体がだるく立っていられなくなってしまいました。

お医者さんで急性腎炎と診断され、2ヶ月くらいは仕事は無理と宣告されてしまいました。

入院が必要と言うことで、万事休す・・・でした。

でも、あきらめられず、病院から会社へ行くと言ってわめきだし・・・

母親管理の方が間違いないだろうということで、自宅監禁となってしまいました。

安静と塩分を排除した、つらい食事制限に耐えなければならなくなってしまいました。


自宅監禁になっている私のもとに、

9月も12台で私が1番だったと、連絡がありました。



「継続は力・・です。

健康管理することも仕事の内・・・

身体をこわしてしまっては、意味がない!」



私の販売の原点

    続き書きます。









縮められたバネ・・

 昭和41年8月・・私は、23歳でした。

トヨタカローラ愛豊は、新車の販売を開始しました。

扱い車種は、空冷の2気筒、800CC パブリカ でした。

セールス未経験者に、あわただしく、研修が行われました。

会社へ帰ってきてすぐ、、

セールスかばんと、100枚×5箱の名刺、、

プラスチックの印鑑ケース、8桁くらいの小さなそろばんなどが配られました。






多くの先輩セールスから、スタンドマンの私は小ばかにされ、

悔しい思いをさせられてきました。

新人とは言え、やっと、平等に競える場を与えてもらったのです。

今までの悔しい思いをなんとしても実績で、晴らさなければなりません。


「強く縮められれば、縮められるほど、バネの反発力は、強くなる!!」


与えられたテリトリーには、かって私がいたガソリンスタンドも含まれていました。

会社が、配慮してくれたんだと思いますので、生かさなければいけません。


会社の指示は、先ず、名刺と簡易カタログを持って軒並み訪問しなさいでした。

人と同じことをやっていたのでは、人並みかそれ以下にしかならない・・・

みんなと同じ「軒並み訪問」に加えて、

スタンドのお客さんに対し「あいさつ訪問」をしました。

「軒並み訪問」ですと、100件訪問して、会話をしてもらえるのは、数軒しかありませんでした。

それに比べ、スタンドのお客さんはほとんど、はなしをしてくれました。それも笑顔で・・・

私は、他の人に比べスタンドのお客さんという財産を持っていると言う強みがあります。

先ず、60人程の新人の中では、恵まれているから、絶対勝てると自信を持ちました。


一週間ほど、同じように、「軒並み訪問」+「スタンドのお客さん訪問」を繰り返しておりました。

もう先輩セールスだけでなく、新人でも売れた人が出てきました。

自分は大丈夫だろうか?不安がよぎりだしました。




そんな頃、スタンドのおl客さんであった、小さな工具店を訪問しました。

「井上君、パブリカのセールスになっただってね、

聞いておったから、待っていたよ・・ちょうど1台車を増やそうと思っていたんだ」

この話に、うれしいより、「どうしよう・・何をどう話したらよいのか?」真っ白になってしまいました。

セールスとして、外を回る前に、何度もロールプレーイング(実戦形式の商談訓練)を重ねていましたが・・・

そんな訓練のように、話は進みませんでした。

でも、お蔭様で、お客さんの誘導と協力により、

何とか注文書に印鑑をいただくところまでこぎつけました。

時々頭が真っ白になり、手が震えて、何度も書き直した末でした。

ボールペンを握る手のひらは、汗でべたべたでした。

体中汗びっしょりになっていました。

買っていただいたのは、パブリカ、バンでした。


私の、車販売人生の、第1号車となりました。





この第一号車販売により、自分のダメさ具合が良く見えました。

車の説明は出来て、お客さんにその気になってもらえても、最後の詰めである、

クロージング(商談締結)がまるでダメと言うことが痛いほどわかりました。


商談内容に了解をいただいても、最終的に・注文書にサイン、印鑑をいただくことが、がまるで出来ない。

これでは、いくら商談がうまくても、車は売れません。


会社に帰りすぐさま、自分の強みと弱みを分析してみました。

強みは・・・・

スタンドのお客さんと、スタッフの協力がある。


弱み・・・・

全く商談なれしていないため、普通のお客さんの商談締結は出来ない。



この弱みを克服するにはどうしたらよいか・・・

結論は、「商談が煮詰まったら、その先は、上司に同行してもらうこと」が

今の自分にはベスト、と結論を出しました。


ベテランの上司の商談で実績に結びつけることと、

自分が上司の商談から現場で学べる、二兎を追う戦略で臨むことにしました。


8月は盆休みがあります。

会社の休みの日は、

スタンドに勤務していた時は休まなければならない日でした。

セールスは、休んでも良い日であって、休まなければならない日ではないのです。

並のセールスは休みを取っていたと思います。

訪問件数を増やすことが商談件数に結びつく・・・

休みの日も、他人との差をつけることができるチャンスでした。


休日の朝は、自宅で洗車している人が多く、

心を開いて、話を聞いてもらえる確率が非常に高かったのです。


上司に同行願って、商談を締結する・・・

このやり方で、どんどん、車の注文がもらえるようになりました。

注文をいただくと言うことは、その分、時間がかかり、

訪問件数が減ることになってしまいます。

訪問件数を減らしたら、次へつながらなくなる・・・

考えて、夜の訪問もふやすことにしました。

会社からは、6時から7時頃お疲れ様と挨拶して、又訪問に行きます。

夕方から夜は、しめる前の個人商店、

夕涼みをしている個人宅、の軒下・・・

夕方から、だけでも、10件ほどは 訪ねたと思います。

同僚にも上司にもナイショでした。



8月の締め切り前日までに、私の販売台数がトップになっていました。

12台でした。ところがその日、ベテランセールスに並ばれてしまいました。

万事休すと思い最終日は、あきらめて、デスクワークをしていました。

そこへ、私の友達から電話がかかりました。

「パブリカを買うんで今から行くけど、いる?何をもって言ったらいい?」でした。


笹戸温泉 「とうふや」さんで長いこと、支配人をしておられた、

丸田 昌生 さんが24歳の時のことでした。

今も親しくお付き合いいただいておりますし、

ユーズネットのお客様でもあります。





この丸田さんの、1台により、

私の販売台数は、13台になりました。

120人のセールスの中で、、、

新人ながら、1番になることが出来ました。

会社全体の8月の目標台数は、、

240台、一人平均2台、だったと思います。



この8月、私は、トヨタカローラ愛豊で、、

後々まで、「伝説の人」と言われるスタートを切ったのでした。



「自分の能力を、よく見極め

強みは徹底して生かし・・・

弱みの補完、修正を怠らない」




私の販売の原点

続き書きます。










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