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確率を目標にする・・

わたしが大切にしていた、新車販売手法は、「確率を常に重んずる」と言うものでした。

セールスになりたての頃・・・

   新規で100軒訪問すると、〇軒 話を聞いてもらえるから、確率は A%

   〇〇軒(人)にはなしを聞いてもらうと、〇人と商談になる、確率は B%

   10件商談に入ると、1ヶ月以内に〇台売れるから、、、   確率は C%


◎ A×B×C=の確率%が、一定の場合、訪問件数を増やさなければ、販売台数は上がらない。

◎ 時間が取れなくなり、訪問件数が減ってしまうなら、A×B×C=の確率%をあげなければ、かくじつに成績は下がる。

◎ 新人1~2ヶ月は、A=10% B=20% C=20%  訪問件数 : 販売台数=0.4% 位の割合でした。
    
   1ヶ月、、新規訪問 約3000軒で・・・12台の割合でした。


◎ 販売になれてきて、お客さんとのコミュニケーションがうまくいけば、B・とCの%をぐんぐんあげることが出来ます。
   
   電話で商談が入るようになれば、新規訪問をしなくても、、販売台数は、伸びるはずです。




もう一つは、安定販売台数の維持という観点から、私どもの扱う対象車両を10台以上持つ得意先で、

高い確率で私から買ってくださるはずの企業を、15社持つと言う目標を持ちました。

この15社は、平均対象車両を、約25台保有しておりましたから、約375台です。

この375台が、平均3年以内に代替になっていましたので、年間120台以上見込めます。月10台以上です。

この企業15社を持てるようになるのに、例のハワイのお土産、以前の敵、石黒セールスが、大きく貢献してくれました。

セールスになって間もなく1年という時には、ほぼ確実に、15社の企業から、月10台は決まるようなっていました。

加えて、この会社の社員さんの購入と、過去に買っていただいた方の紹介が入るようになり、

月に13~15台は売れていました。全社ではセールス一人当たり平均4台ほどの頃でした。



月によっては、他の営業所で、私の全社1番を脅かし、私を越す、セールスが出ましたが、、

相手は、常に変わっていました。常時私の台数を上げる人は社内にはいませんでした。

1年経った頃、台数の割には、苦労もなく、過去の病気もすっかり治り・・

とても楽しいセールス生活を送っておりました。



1年前の、新人だった、8月と1年経過したこの年の8月は、天国と地獄の差がありました。

夏休み、同じ係りの仲間と、蓼科の会社の山の家へ行きました。




蓼科高原にて、、、左が、野村君  真ん中が私(あと2週間で、25歳になります) 右は北爪君






私が嫌がるみんなを、引っぱって、蓼科山へ登りました。

前列真ん中が、私です。 真後ろが、竹内係長(後に常務になられました)





「先憂後楽」

目標数字は、台数のみでなく・・・

将来の為に、確率の目標を持つ。

決めた確率数字に向かってまい進する。



私の販売の原点

続き又書きます。







あえて、絶壁に立つ・・

ハワイから帰ってきて、間もなくの春でした。

トヨタカローラ愛豊、社内の新車拡販キャンペーンがありました。

1ヶ月間と言う、短期のキャンペーンでした。

1ヶ月間で、1番は、表彰状と、現金八万円、2番は、五万円 、3番は、三万円でした。


もう、勝手に、八万円は会社から、私に約束されたお金も同然と決めていました。



丸栄百貨店と、明治屋の間の道を南に少し行ったところ、住吉町に、「ココボ」と言うクラブがありました。

ここに、中学校、高校と同じだった、暎子と言う人が勤めておりました。

「ココボ」と言う名前は、経営者が、太平洋戦争のとき、ラバウルにいて、そこの港の名前をつけたとのことでした。

社内キャンペーンが発表になって、間もなくです。

一生に一度でいいから、クラブなるところで、豪遊を経験してみたいと常々思っていました。

「ココボ」へ暎子さんを訪ねて行って、支払いは、キャンペーンが終わって賞金のもらえる日にと先ずお願いして・・・

飲めヤ、唄えのドンちゃん騒ぎをしてしまいました。24歳で、初めてクラブでの豪遊でした。

暎子さんはじめ、数名の女性に、同席してもらいどんどん飲んでもらいました。

8万円分全部使うつもりでしたが、一人では、8万円は使えませんでした。

確かな金額は覚えていませんが、5万円ほどの借金を作ったと思います。

一夜明けて、自分のしたことが、馬鹿らしく、しきりに反省はしましたが、もう後の祭りです。




社内キャンペーンが始まりました。先ず自分の車をパブリカからカローラに換えました。

その後が続きません。なかなか、注文書にならないのです。

まだセールスになって、7~8ヶ月しかたっていない私ですが、行動パターンを、訪問件数優先から、、

効率優先に変えていました。セールスになったばかりの時は、1日、100軒以上の訪問を繰り返していましたが・・・

狙いを定め、大口優先で、1日12・3軒の訪問に変えていました。

あせりの毎日でした、あせればあせるほどうまくいきません。



その日も、売れず、夕方しょぼしょぼと事務所に帰ってきました。

課長がにらめつけるように座っておりました。大野芳春と言う課長でした。

にらめつけるように、と言ったのは、その課長、四角い、ごつい顔で、あだ名を「鬼瓦」と言われていたほどです。


「井上君、何だ、君の成績は、恥ずかしくないか?」

「ハワイへ行った、優秀セールスが、今は、こんなんで、課長として、俺が恥ずかしいわ!!」

「む・・・!!」 そのとき私の顔は引きつっていたと思います。

「悔しいか!!??悔しかったら、注文書を束にして、殴りかかって来い!!」

・・・・顔は真っ赤、頭に血が上りました・・・・

悔しくても、そのとうりだったんで何も返す言葉はありませんでした。

私の、腹の中は、煮えくり返っていました。



「みておれ!!!」久々に、私の頭は、悔しさで、血管が爆発しそうでした。

8トラのステレオで、毎日、朝・移動時間・・鶴田浩二の、軍歌を聞きながら唄いながら、自分を奮い立たせました。

気合が入ったからか、たまたまか?大口の企業から電話が連続で入りました。

その週、土曜日の夕方・・・・4台分の注文書を丸めて・・・

「課長””殴らせてもらいますヨ!!」と言って、「鬼瓦」の前へ行きました。


鬼瓦課長・・「おう、、井上君うれしなー・・思う存分殴ってくれや!!」


私の性格をとても良くわかって、ぎりぎりまで私を追い込んだ、あの課長・・・すばらしい上司でした。


結果、、その月の終わりまでに・・・私の数字が頭を出しました。

「ココボ」の借金は、約束どうり、無事支払えました。


ところがです。翌月の給料から、給与分+賞金分の所得税を引かれ、四苦八苦しました。




「自分を敢えて、絶壁に立たせる!!

絶壁に立つと、強力な力が出せるもの」


「私の販売の原点」

  続き又書きます。










毎日、全社の成績リストが届きますが、一週間過ぎた頃、まだ中位の成績でした。


ハワイのお土産・・・

 

昭和42年があけました。。この年、私は、24歳でした。


1月早々から、ハワイへ行くための勉強会がありました。

● エレベーターとか乗り物では、後ろから、女性が来たら、「プリーズ」と言って先をゆずる。

● 風呂では、部屋へ水が流れ出てくるから、外では洗わない。

● ホテルの部屋から寝巻きで外へ出ない、廊下は公道である。

● トイレは水を流すようになっている。一回一回、確実に流すこと。

    など・・など・・など・・当時の私は何も知りませんでした。      

いろいろ勉強しましたが、新幹線にも乗ったことがない私には、びっくりすることばかりでした。

前日、品川のホテルへ集合して、一泊し、ここでも、実地研修が行われました。






昭和42年1月30日、、

パンアメリカン航空チャーター便にて、憧れのハワイへと旅立ちました。

機内での食事の豪華さと、お酒類の飲み放題には、ぶったまげました。

ワイキキのホテルは、ヒルトン、ハワイヤンヴィレッジでした。


ここで又、食事にびっくり!! 太い大きな肉(ステーキ)が、食べ放題!!

あの頃の自分には、食べ放題は(バイキング)は驚き以外の何物でもありませんでした。

椰子の木は、写真では見たことがあっても本物は初めてでした。

真夏の太陽・・・きれいな海岸と、砕ける波、葉巻と香水のにおい、、すべてが感動でした。

初めて、波乗り(サーフィン)なるスポーツを知り、挑戦もしました。うまく波に乗ると気持ちよく滑りました。


(きょろ?きょろ?びっくり”感動!!の連続で)・・・1週間は瞬く間に過ぎて行きました。


この1週間、、同じテリトリーを担当している、トヨタカローラ名古屋のトップセールス、石黒 肇さんと同部屋でした。

彼はハワイへ来てから、自分の上司と、会社の、批判と愚痴ばかり言っておりました。

逆に私は、上司が非常によいこと、会社もとても社員を大切にしてくれて、やりがいのあることを話しました。

所得も、大きな開きがあることがわかりました。

両社の差がわかればわかるほど、彼の愚痴はひどくなりました。



彼の愚痴を聞きながら、あることを、計画しだしました。   それは・・・・

「石黒セールスがいなければ、俺はずっと車が売りやすくなる!!自分の会社へ引き抜いてやれ!!」でした。

「居なくなるだけでなく、協力者になってもらえば、自分はこの先安泰だ!!」



ハワイでの日程もあとわずかになり、本人から、移籍したい旨、私にはっきりと依頼してきました。

私は、帰ったら部長に話すなど、協力を惜しまないと約束しました。


ハワイへ行く時は全くの敵であった人が、帰りには、すっかり身内で味方に変わっておりました。


敵会社のトップセールスと言う、大きなお土産をもって、ハワイから帰ることが出来ました。
・・


いろいろありましたが・・春になって、トヨタカローラ愛豊の、石黒セールスが誕生しました。

あれから、42年の月日が過ぎました。

その石黒さんも、定年を迎える前に身体をこわし退職されたと聞きました。

ずっと、このこと(引き抜き)は、口外してはいけないと思っておりましたが、

もう時効を迎えたと思い、かきました。

「今だから言えることです」


もっと売るぞ!!

「もっと売りたい!!

と・・常に意識を強く持っておれば・・

売るための・・

売れるようにするための方策は見えてくる」




私の販売の原点

  続き又書きます。












正面からダメなら・・


24歳でセールスになり、まだ経験わずか、半年頃の話です。

私の回っていた、担当テリトリーには、 

同じ車種を扱っている、トヨタカローラのディーラー5社の5人と、

競合車種の日産サニー、マツダファミリアのセールスがひしめき合って、

同じ地域を競争して回っていました。

10台から50台ほどの車を使用している、商店、会社が何社かありましたが、常に激しい競争になりました。

カローラ愛豊の私が新規参入する前は、石黒 肇と言うセールスがダントツに強かったようでした。

この石黒さんは、この同じテリトリーで、毎月コンスタントに10台以上売る、カローラ名古屋のトップセールスでした。



当時の車検期間は、乗用車・新車から2年、ライトバン・1年でした。

今と違って、仕事用の車は、大体2年~3年で代替されるのが普通でした。

パブリカ、サニーを中心に、40台ほどの車を営業と配達用に使っている、ある会社がありました。

この会社は、増車も含めると、年間20台の購入が見込めました


どうしてもこの会社に食い込みたい私は、何度も足を運びました。

「新人ではダメだよ、うちの会社は、カローラ名古屋のトップセールスから買っているから」、と取り合ってももらえませんでした。

決定権者である、専務さんには名刺も届かず、当然会ってももらえませんでした。

その専務さんの車には、スタンドの頃ガソリンを入れさせてもらっていたので、お顔は知っていました。





「何とかしなければ」と、困り果てた私は・・・”捨て身の策”に出ることにしました。「やってみよう!・・だめもとだ」、と、、、


社内の人から、専務さんは、競走馬を持っている。その馬は名古屋競馬場で走っている。

その馬の名前も聞き出しました。

競馬の知識を、全く持っていなかった私は、名古屋市中川区土古町、名古屋競馬場へ勉強に行きました。

競馬新聞を買い、専務の馬についても調べました。

競走馬には、アラブとサラブレットの2種類があり、専務さんの馬は、アラブでしたが、とても強い馬でした。



いよいよ私の”捨て身の策”、を打つ日が来ました。

その馬が明日出走するのです。

・・・電話で・・・「専務さんお願いします・・・」  「どちら様ですか?どのようなご用件です?」

「井上と申します。明日出走する専務さんの馬,〇 〇 〇についてなんですが・・・」

馬の話と言うことで、専務さん電話に出てくれました。

「専務の● ● です。どちらの井上さん?」 

「以前スタンドにいて、今は愛豊にいる井上です。今日は、仕事の話ではなく、明日出走する、専務さんの馬の話で・・・」

「明日走るけど、なんだった?」

「明日は、時間があるんで、会社に内緒で、競馬場へ行こうと思っていますが・・専務さんの馬の調子は、、、?」

「馬鹿もん””・・仕事中に、ひどいやつだなー、会社にばれたらどうするんだ!知らんぞ!」

「まぁいいや・・30分後には、体が空くんで、ちょっと来いよ・・」

30分後、、初めて、社長室に通されました。

いろいろ馬の話を聞かせてもらいました。 

「明日一緒に行こぅか?」 「ありがとうございます、喜んで、おともさせていただきます」

専務さんと、お父さんの社長さんを乗せて、競馬場まで、社長車クラウンの運転手をさせていただくことになりました。

競馬場の席は、立派な馬主席でした。専務さんの馬は今日もやっぱり強くて、なんなく勝ちました。

馬券も買いましたので、いくらだったか、覚えてはいませんが、儲けることも出来ました。

帰りの車の中・・「井上君、会社へ電話で、お宅のセールスが、時間中競馬をやっていたヨ!と、バラしたろかなー”」

冗談を言いながら、専務さんも、社長さんも、自分の馬が勝ったので上機嫌でした。





会社へ戻ってきました。「ちょっと寄っていけやぁ」と言うことで社長室へ案内されました。

車管理の担当者に電話で、「○ ○ くん、次のライトバン、トラックの代替予定は?、---あそう・・じゃーその2台、

愛豊の井上君で決めておいて・・・」


この日は、競馬で儲けて、車を2台買ってもらい、、すばらしい 1日となりました。

この日以来、この会社のほとんどの車は、私が納入することになりました。




この専務さん、その後、社長になられ、今は相談役になっておられます。

あの・・競馬場へご一緒してから、、42年が経ちましたが・・

今でも、近くを通ると、「うどんご馳走して!」と、立ち寄ります。



あの、カローラ名古屋のトップセールスマン  石黒 肇さん も、ハワイへ行かれました。

パブリカのセールスで愛知県代表で、ハワイへは3人行かせてもらいました。

同じ地区を回っていると言うことで、私と石黒さんとは、競争相手を越して、お互いが敵でした。

が・・なんと私と石黒さんとは、ハワイのホテルで、ずっと、同室でした。

真正面から、攻めてみてダメなら・・

「切り口を変えてみる。」

どこかに突破口が、潜んでいるはず・・・



私の販売の原点

  続き書きます。


決してあきらめない・・



8月に24歳になりました。。その翌月から、、

9月~11月までの、3ヶ月間の、オールトヨタ、ハワイキャンペーン

絶対行くぞ!!と決めたものの・・

治るまでに、2ヶ月は必要、と宣告された、急性腎炎・・

とにかく早く治さないことには、、、と、、つらい食事制限も必死に守り・・・

ハワイの写真などを見ながら、「理由なし、、絶対ハワイへ行く!」と毎日念じておりました。

10月は1日も、出勤できませんでした。当然販売は、0でした。

少し体調がよくなってきた頃から毎日、沢山のお客さんのところへ電話をすることと、、、

字が下手であまり好きでなかった、手紙を書き出しました。

気休めではじめた、電話と手紙だったのですが、

なんとなくお客さんの反応の良さがわかり、早く出社したくてたまりませんでした。



昭和41年11月 5日 水冷、1100CC、カローラの発表展示会が、東別院でありました。

パブリカは、空冷、2気筒で、エンジンが左右にゆれて、バタバタと音がしました、、、

静かな、水冷、4気筒の日産のサニーや、

同じ 800CCでも水冷4気筒で静かな、マツダのファミリアに

販売現場の我々は、苦戦しておりました。

カローラ新発売の新聞を見ながら、この車ならなら、きっと売れると、わくわくしておりました。



それから、4・5日ほど経って、医者の検査の結果、

デスクワークくらいならと条件付きではありましたが、待ちに待った出社の許可が出ました。

1ヵ月半 約45日間の病床だったため、出社しても足元がふらふらしておりました。

 
・・・売らなきゃ・・・  と言う気持ちだけが先走りしても身体がダメでした。

会社でできることと言えば、電話をかけるか、受けることだけでした。

でも電話番しか出来なかった私は、とても幸運をつかみました。

カローラが発表された後と言うことで、問い合わせの電話が沢山入って来たのでした。

「次の週末に、説明にお邪魔します。」と言うことで、一気に沢山の見込み客が出来ました。

当時のディーラーは、日曜日は休みでした。

足腰もやっとしっかりしてきた私は、休んでなんかいられませんでした。




11月が終わりました。。。

私は、10日頃から復帰して、月末まで、約20日間の稼動でした。

11月は、確か、23台の販売を達成したと思います。(前後1台くらいの誤差があるかも知れません)

キャンペーン期間3ヶ月間の内、約45日稼動 で 35台の実績を上げました。

残念ながら、3ヶ月トータルで、1台の差で社内の第2位になってしまいました。

36台でトップになったのは、後に愛知トヨタの役員になられた、

私より6・7歳、年上の佐藤と言うセールスマンでした。

「やるだけやったからしょうがないや」・・・と、ハワイはあきらめることにしました。



ここまで追い上げることが出来たのは、

◎ 病気中もあきらめずに、電話、手紙をフルに使ってお客さんとのコンタクトを取っていた。

◎ 復帰直後、電話番しか出来なかったことにより、電話の問い合わせから見込み客が出来た。

◎ 休みの日曜日、一人、社内で書類を作成していると、結構来客があり、見込み客となった。 

   といったことが重なって、結果に結びついたものだと思います。



キャンペーンが終わり、10日ほどが経ちました。

すっかりハワイのことは、あきらめて忘れていた私に、部長から、

カローラ愛豊から、ハワイへ、セールス 2名 マネージャー 1名 参加を知らされました。


このハワイキャンペーンは、

全国のトヨタディーラーセールスの中から選ばれた、と言うことで、、

社内では2番だった私も、ハワイへ行けることになりました。


うれしかったのは、優秀、マネージャーは、

私の直接の上司、、勝 係長 だったことでした。




・・・出来ない理由は、山ほどある・・・

「やれる方法を見つけ、行動する、

やろうと決めたら決して、あきらめない」



私の販売の原点

   続き又かきます。






健康管理も仕事の内・・


23歳でセールスになりました。

ベテランからすれば、何も知らない、若造でした。


井上の1番は、8月だけの「たまたまダ”」

あんなもの、きっと「線香花火!!」だろう。

ベテラン先輩のセールスの声が聞こえてきました。


何が何でも、9月もやらねばなりません。


9月~11月まで、3ヶ月間、

「オールトヨタ、セールスマン、ハワイ旅行キャンペーン」が発表になりました。

当時の、「トヨタ自販」の主催で、全国の、優秀セールスマンとマネージャーを

120名ほど(セールスマンは、70~80名)を来年2月にハワイ旅行に招待すると言う企画でした。

トヨタとして初めての海外旅行招待キャンペーンでした。

当時、愛知県にトヨタのディーラーは、7つあり、多分セールスマンは、

1500人ほどで、全国では、15000人以上いたと思います。

約、200人に1人と言う難関でした。


このハワイキャンペーンが発表になった時、自分は「絶対ハワイへ行くぞ!」

と心の中で勝手に決めておりました。

そして、身内だとか、友達に、「俺、2月にハワイへ行くヨ!」と言い切っていました。

1ドル360円時代でした。昭和41年、42年当時ハワイ、1週間旅行は、

1、000ドル 36万円と言われておりました。

私の基本給は、3~4万円でしたので、ちょうど年収分に相当する大変高価な旅行でした。



9月になり、商談にもなれてきて、ほとんどの商談は自分ひとりでできるようになっていました。

訪問件数を減らさないため、休みの日曜日・平日の夜・そして出勤前の朝も加えてみました。

気持ちだけが前へ行ってしまっての朝訪問でしたが、

朝の新規訪問は「こんな朝から何事?」とひんしゅくを買ってしまい、やめました。

体力には自信があったので、1日100件訪問を自分に義務付けました。

契約になった日、納車の日などは、昼に時間がとられてしまいます。

そのため、夜の訪問件数を増やしました。

ハワイへ行く・・ハワイへ行くと自分に念じながら毎日頑張りました。

9月も月末前で、すでに12台の販売台数になって社内ではダントツのトップでした。

その月末近くの日曜日に、近くの学校の運動場を借りて、社内運動会が行われました。

気合を入れて頑張った運動会の日、急に身体がだるく立っていられなくなってしまいました。

お医者さんで急性腎炎と診断され、2ヶ月くらいは仕事は無理と宣告されてしまいました。

入院が必要と言うことで、万事休す・・・でした。

でも、あきらめられず、病院から会社へ行くと言ってわめきだし・・・

母親管理の方が間違いないだろうということで、自宅監禁となってしまいました。

安静と塩分を排除した、つらい食事制限に耐えなければならなくなってしまいました。


自宅監禁になっている私のもとに、

9月も12台で私が1番だったと、連絡がありました。



「継続は力・・です。

健康管理することも仕事の内・・・

身体をこわしてしまっては、意味がない!」



私の販売の原点

    続き書きます。









縮められたバネ・・

 昭和41年8月・・私は、23歳でした。

トヨタカローラ愛豊は、新車の販売を開始しました。

扱い車種は、空冷の2気筒、800CC パブリカ でした。

セールス未経験者に、あわただしく、研修が行われました。

会社へ帰ってきてすぐ、、

セールスかばんと、100枚×5箱の名刺、、

プラスチックの印鑑ケース、8桁くらいの小さなそろばんなどが配られました。






多くの先輩セールスから、スタンドマンの私は小ばかにされ、

悔しい思いをさせられてきました。

新人とは言え、やっと、平等に競える場を与えてもらったのです。

今までの悔しい思いをなんとしても実績で、晴らさなければなりません。


「強く縮められれば、縮められるほど、バネの反発力は、強くなる!!」


与えられたテリトリーには、かって私がいたガソリンスタンドも含まれていました。

会社が、配慮してくれたんだと思いますので、生かさなければいけません。


会社の指示は、先ず、名刺と簡易カタログを持って軒並み訪問しなさいでした。

人と同じことをやっていたのでは、人並みかそれ以下にしかならない・・・

みんなと同じ「軒並み訪問」に加えて、

スタンドのお客さんに対し「あいさつ訪問」をしました。

「軒並み訪問」ですと、100件訪問して、会話をしてもらえるのは、数軒しかありませんでした。

それに比べ、スタンドのお客さんはほとんど、はなしをしてくれました。それも笑顔で・・・

私は、他の人に比べスタンドのお客さんという財産を持っていると言う強みがあります。

先ず、60人程の新人の中では、恵まれているから、絶対勝てると自信を持ちました。


一週間ほど、同じように、「軒並み訪問」+「スタンドのお客さん訪問」を繰り返しておりました。

もう先輩セールスだけでなく、新人でも売れた人が出てきました。

自分は大丈夫だろうか?不安がよぎりだしました。




そんな頃、スタンドのおl客さんであった、小さな工具店を訪問しました。

「井上君、パブリカのセールスになっただってね、

聞いておったから、待っていたよ・・ちょうど1台車を増やそうと思っていたんだ」

この話に、うれしいより、「どうしよう・・何をどう話したらよいのか?」真っ白になってしまいました。

セールスとして、外を回る前に、何度もロールプレーイング(実戦形式の商談訓練)を重ねていましたが・・・

そんな訓練のように、話は進みませんでした。

でも、お蔭様で、お客さんの誘導と協力により、

何とか注文書に印鑑をいただくところまでこぎつけました。

時々頭が真っ白になり、手が震えて、何度も書き直した末でした。

ボールペンを握る手のひらは、汗でべたべたでした。

体中汗びっしょりになっていました。

買っていただいたのは、パブリカ、バンでした。


私の、車販売人生の、第1号車となりました。





この第一号車販売により、自分のダメさ具合が良く見えました。

車の説明は出来て、お客さんにその気になってもらえても、最後の詰めである、

クロージング(商談締結)がまるでダメと言うことが痛いほどわかりました。


商談内容に了解をいただいても、最終的に・注文書にサイン、印鑑をいただくことが、がまるで出来ない。

これでは、いくら商談がうまくても、車は売れません。


会社に帰りすぐさま、自分の強みと弱みを分析してみました。

強みは・・・・

スタンドのお客さんと、スタッフの協力がある。


弱み・・・・

全く商談なれしていないため、普通のお客さんの商談締結は出来ない。



この弱みを克服するにはどうしたらよいか・・・

結論は、「商談が煮詰まったら、その先は、上司に同行してもらうこと」が

今の自分にはベスト、と結論を出しました。


ベテランの上司の商談で実績に結びつけることと、

自分が上司の商談から現場で学べる、二兎を追う戦略で臨むことにしました。


8月は盆休みがあります。

会社の休みの日は、

スタンドに勤務していた時は休まなければならない日でした。

セールスは、休んでも良い日であって、休まなければならない日ではないのです。

並のセールスは休みを取っていたと思います。

訪問件数を増やすことが商談件数に結びつく・・・

休みの日も、他人との差をつけることができるチャンスでした。


休日の朝は、自宅で洗車している人が多く、

心を開いて、話を聞いてもらえる確率が非常に高かったのです。


上司に同行願って、商談を締結する・・・

このやり方で、どんどん、車の注文がもらえるようになりました。

注文をいただくと言うことは、その分、時間がかかり、

訪問件数が減ることになってしまいます。

訪問件数を減らしたら、次へつながらなくなる・・・

考えて、夜の訪問もふやすことにしました。

会社からは、6時から7時頃お疲れ様と挨拶して、又訪問に行きます。

夕方から夜は、しめる前の個人商店、

夕涼みをしている個人宅、の軒下・・・

夕方から、だけでも、10件ほどは 訪ねたと思います。

同僚にも上司にもナイショでした。



8月の締め切り前日までに、私の販売台数がトップになっていました。

12台でした。ところがその日、ベテランセールスに並ばれてしまいました。

万事休すと思い最終日は、あきらめて、デスクワークをしていました。

そこへ、私の友達から電話がかかりました。

「パブリカを買うんで今から行くけど、いる?何をもって言ったらいい?」でした。


笹戸温泉 「とうふや」さんで長いこと、支配人をしておられた、

丸田 昌生 さんが24歳の時のことでした。

今も親しくお付き合いいただいておりますし、

ユーズネットのお客様でもあります。





この丸田さんの、1台により、

私の販売台数は、13台になりました。

120人のセールスの中で、、、

新人ながら、1番になることが出来ました。

会社全体の8月の目標台数は、、

240台、一人平均2台、だったと思います。



この8月、私は、トヨタカローラ愛豊で、、

後々まで、「伝説の人」と言われるスタートを切ったのでした。



「自分の能力を、よく見極め

強みは徹底して生かし・・・

弱みの補完、修正を怠らない」




私の販売の原点

続き書きます。










自分は絶対やれる・・

 「ドラムの魔術師」と呼ばれるほど、ドラム缶の扱いはうまくなりました。

21歳の夏でした。

トラックでオイルを配達する仕事を2年も、続ければ、当然うまくなります。

でも、慢心から、、、トラックの荷台から、うつ伏せに、落ちてしまい、

ひざを強打して、ひざの皿が割れてしまいました。

1・2ヶ月全く仕事は出来ない状態なってしまいました。



長いこと休み、何とか歩けるようになって、出社はしたものの、自分の仕事はありませんでした。

「とりあえず、スタンドで無理をしないようにやってくれ・・」で、

またスタンドへ戻されることになりました。

再度復帰したスタンドは、主任が変わっていました。森 と言う主任でした。

挨拶に行くと、「おー井上君、まっとたよ、気に入らんかも知れんが、

俺が是非と、指名してきてもらったんだよ・・」と言ってくれました。

私のやんちゃは、百も承知、きっと行き場がないから引き受けてくれと、

上に言われたのだとは思いましたが、とてもうれしく思いました。


最近、スズキのオートバイを買いましたが、森 主任も昔、

オートバイが好きだったそうで、とても話があいました。






一番うれしかったのは、私に良く仕事の話で、相談をしてくれたことでした。


石油ストーブが世に出て間もない頃でした。

11月のある日・・・

森 主任から、「会社で、トヨトミの石油ストーブの販売キャンペーンが始まる、スタンドへは一人5台あて、

10人いるから50台の割り当てが来ている。なんとしても達成したいから、俺に力を貸して欲しい」

と、話がありました。

その顔が、本当に私を頼っているように見えました。

そして、自分が頼られたことでとてもうれしくなりました。

物を売ると言うことで、うまくいった経験のない私ですので、自信はありませんでした。

でも、 「何とかしたい」 「いや・何とかしなければ」と言う気持ちが強くなりました。


スタンドで接客する、お客さんすべてに声をかけ販売を開始しました。

2ヶ月間の私の個人目標、5台は、3~4日で達成しました。

他のスタッフは、なかなか、進行しません。

一生懸命になっている主任が少し売れただけでした。

主任は私に、「井上君、頼りにしてるよ。5台で終わらんでくれよナ」

初めて物を売ると言う仕事で認められた私は、

「任せてください、スタンドの目標以上になるまで頑張ります」と言い切っていました。


もう私の頭の中は、ストーブ、一色になっていました。

自宅・親戚・友達はじめ、自分が利用しているお店は全部声をかけはじめました。

週末、鈴鹿の山へ登山に行った時など、山であった人にも、声をかけたほどでした。

親戚、友達などの協力を得て、出来たことですが、、

2ヶ月間で私個人のストーブ販売台数は、56台でした。

当然、スタンドの目標は大きく上回りました。

あの時の、森 主任のうれしそうな顔が今でも忘れられません。

私が頑張って、上司が喜んでくれる・・・初めての経験でした。

森 主任に言われれば、火の中へ突っ込め、水の中へ飛び込め、

全部やってしまいそうな気分になっていました。

その森 主任が、係長に昇進しました。我がこと以上にうれしく思いました。



昭和41年8月から愛知トヨタのグループ会社、愛豊でパブリカ800、の販売をはじめることになりました。

愛知トヨタのベテランセールスと、部品、サービス、油部門の新車販売未経験者の混成部隊、

120人ほどが、愛豊へ転出する、という人事に、森係長が、私を推薦してくれました。

「頼むよ、君を推薦した俺の目が間違いなかったことを証明してくれ”」が、私を送り出す言葉でした。

森 主任との出会いで、自分はすっかり変わりました。


そして、私は、新車の、セールスに転進しました。




「出会いで人生が変わる」

「せっかくの出会い、生かすも殺すも自分しだい」

「自分は絶対やれる・・つよく、つよく思うと・・
やる方法はかならず見つかる」




森 敏 さん 昭和10年生まれ愛知トヨタ入社すぐは整備を担当されその後、

スタンドを経験されてから、中古車販売で、豊田の寿町展示場の所長

新車の豊田・岡崎営業所長を歴任 定年退職後、身体を悪くされ、

残念なことに、3年ほど前にお亡くなりになりました。

                          ・・・合掌・・・



私の販売の原点

    続き書きます。


自己中心ではダメ・・







「おい!満タンにしといていてくれ!!」

スタンドの二階にも新車販売の事務所がありました。

新車のセールスマンだったその人は、私にキーを放り渡して、二階へと上がっていきました。

アラクレスタンドマンになっていた19歳頃の私は、、プッツン切れてしまいました。

キーを持って二階へと駆け上がり、そのセールスを羽交い絞めにして倒し・・

頭から、引き摺り下ろしてしまいました。

多少の怪我をしたみたいですがお構いなし・・

キーを返して自分で、キャップを開けさせました。

この新車のセールス氏、なかなか成績が良かったそうで、、、

この事件の35年後に、、

ATグループ(愛知トヨタグループ)の、あるディーラーの社長になりました。

ユーズネットグループとも、年間 5・6千万円の取引がありました。

が、、知ってか知らずか、ただの一度の挨拶も、顔を合わせることもなく・・・

2~3年前に、年齢に達して、退任となりました。



ある雨の日でした、、

主任が、「ちょっと、本館の事務所へ行ってくる、ラーメンが頼んであるんで、すぐかえるでな・・」

と言って、道路を隔てた本館へ行きました。

間もなく、ラーメンが2人前届きました。もう一つは誰のかな?

と、回りに聞いてみたけどわかりません。

自分もお腹がすいていたので、間違いで届いたなら、

私が支払うから、いただこうと思って電話しました。

「いらんこった、、とっときゃええわー、イランこと電話するな!」

どうもその後すぐに、主任の友達が来ることになっていたようでした。

私はこの電話で、プッツン切れてしまいました。

「何だーその言い方は・・・何様だとおもっとるんだ!!おぼえとれよ!!!」

主任・・「誰に、ものを言っとる!今すぐ帰ってひどい目にあわせたるでな・・」

それだけ言って、一方的に電話を切ってしまいました。

血相を変えて帰って来た、主任に、

私は、ラーメンをオツユごと、ぶっ掛けてしまいました。

その日その後どうなったかは、、おぼえておりません。



スタンドの、井上はひどいやつだは、瞬く間に有名になりました。

スタンドの仕事は不適格と言うことで、

今度は、同じ油の部門の、配達係になりました。



オイルがイッパイ詰まった、ドラム缶をいっぱい積んで配達して回る仕事です。

トラックが3台ありましたが、、、どの車も、、ブレーキが効きません。

とにかく、止まらないのです。



すぐ課長に、ハイドロマスター(ブレーキ倍力装置)を付けてくれるように直訴しました。

答えは、今までみんなが乗っていて、事故はなかった・・

ブレーキにあった運転をすればよい・・

ブレーキは、シートから、尻を上げて、

両手でハンドルをイッパイ引きながら思いっきり踏むんだ。

が答えでした。

それから間もなくです・・

荷物をいっぱい積んで、信号が青から、黄色に変わる間際の、

高辻の交差点を直進しておりました。

前方の右、右折の車の陰から、オートバイが突っ込んできました。

気はついていても、ブレーキはまったく間に合いませんでした。

跳ねてしまいました。

ケイレンを起こしている怪我人を、トラックの荷台にを積んで病院まで運びました。

脳挫傷とかで、2・3日死線をさまよっていましたが、命は助かり、2・3ヵ月後に退院したそうです。

相手の人は、長野県の山村から出てきた、青年でした。

例の課長、井上君、君は悪くないし、会社の仕事中だったから、すべて会社で対処する。

だから、もう病院も行かないように・・と指示してきました。

そのときは、私も楽でいいや、と思ったのですが、どうも解せない指示だったと思っています。

私の常識では、「見舞いだけは行くように・・」なんだがなーと思いました。

何か、私がまずいことをしゃべっては困るからだったのでは、、と今でも思っています。


事故の解決でも解せない、納得できない?で、、

私は、より一層、すさんだアラクレになってしまいました。


会社への通勤は、カランコロンと高下駄を履いていくようになりました。


ある日、例の課長から、

「明日は、朝礼と伝達事項があるから少し早めに出社するように」と言う連絡が来ました。


私は、いつもの時間より遅く、通常の時間ぎりぎりに、二階の事務所への階段を・・・・

例によって、「カラン コロン」いつもより大きな音を立てて出社しました。

そしてみんなのいる前で、「仕事の話なら、時間内にしろよ!」と怒鳴ってしまいました。

スタンドの主任も、油販売部の課長も、私には手を焼いたと思います。



この課長・・・

25年後に、愛知県のJAFの事務局長になりました。

JAFの担当者が、会員拡大で当社へ来た時、、

まだ、当時の課長に悪い印象を持ち続けていた私は、

事務局長に会いたい、気持ちの整理がついたら協力すると言いました。

間もなく、事務局長が来社されました。


高下駄、カランコロン、朝礼にわざわざ遅く来てどなった件について、、、

「当時の君は、自分中心で周囲が見えなかっただよね」

「周囲が見えないうちは、何をしてもうまくいかないものなんだよね」

「そのすべてがうまくいかない原因を他人のせいにしていたんでしょう・・」

「人格形成の、過渡期で、君は目立ちすぎたんだよ・・」


「立場が変わって、君が私の立場だったらどうしたかね?」





創業、5・6年経った、ルートの事務所での話でした。 


JAF会員の募集で、ルートは、いきなり、愛知県第1位(ディーラー以外)になりました。 



「自分中心で、周囲に配慮が出来ないうちは・・

何をしても、うまくいかない」



私の販売の原点

つづき書きます。












自動車屋になりたい!

高校3年生になってすぐ、、

井上家で、大事件が起きました。

大黒柱だった、父親が、蜘蛛膜下出血で倒れて入院してしまったのです。

さー大変です。

大学へ行こうと思っていた自分は、考える余地なく、

家業を継ぐ決定をしました。

でも、何とか高校は卒業しようと思っていました。

学校から帰ったら、絞り加工の仕事を、各地へ届けるのは全部私の仕事になりました。

もうすでに、オートバイには乗っていましたので(当時は16歳で免許はもらえました)

毎日、あちこちへ走っていました。

私には兄がありましたが、長崎の大学へ行っていましたので、家にはいませんでした。


お蔭様で父は、倒れてから、3~4ヶ月で快方に向かい、退院してきました。

秋も深まった頃には、何とか自分で、オートバイに乗れるまでになりました。

とりあえず、私は家業を継がなくてもよくなりました。

が、、、しかし、私の成績は、卒業が危ぶまれるほどのものになってしまっていました。

とても、国公立の大学は、望むべくもありませんでしたので、就職をすることに決めました。



恵まれたことに、ちょうど、就職試験の申し込みがが間に合うぎりぎりの時期でした。

さて、、どこを受けたらよいのか?

好きなことから、、、

日本交通公社(現、JTB)と愛知トヨタを受けることにしました。 

就職難の時代だったのかどうかは知りませんが、両社とも、大変な競争倍率でした。

日本交通公社は、約10倍

愛知トヨタは、6倍でした。

試験を受けに行った頃には、自動車屋になる夢は、すっかり忘れ、

受かることの方が気持ちの上で、先決となっていました。

両方とも最終選考までいくことができましたが、

学校の決まりにより、採用通知が先に来た、

愛知トヨタに就職することになりました。


交通公社は、2・3日遅れて採用通知が来ました。

この通知が、逆転していたら、私の人生は違ったものになっていたはずです。


高卒入社は、愛知県全域から 50~60名でした。

研修期間に入り、同期入社のみんなを見るにつけ、

この人たちの中なら、当然私が1番になると思っておりました。

6倍の競争を勝ち抜いてきた人たちとはとても思えませんでした。

きっと、他の人は私を見て同じように思ったのではないでしょうか。



配属が決まりました。

鉱油部(金ヘンでなく、石ヘンでした)販売課 スタンド係

えぇ!!愛知トヨタにスタンドなんかあるの?

「1番貧乏くじを引いたなー」と心底から思っておりました。






いやな職場で、いやいやの社会人スタートになってしまいました。

ガソリン入れ・グリースアップ・オイル交換・エレメント交換・・・

教えてもらいながら、いやいや、やっていたのでなかなか上手にはなりません。

ガソリンは噴出す・グリースは入らない・オイルはこぼす・エレメントはオイル漏れ・・・

今思えば、私に作業してもらったお客様には、大変申し訳なかったと思っております。

会社にも、とても迷惑をかけてしまっていました。


当時はスタンドの主任はじめ、スタッフみんながすさんでいました。

お客様は神様なんて気持ちは、かけらもありませんでした。「おきゃ・おきゃ」と言っておりました。

「おーい・おきゃが来たぞぉ・・」「あのおきゃは何だーえらそうに・・」と言うような始末でした。


そんなスタンドでの最初の夏でした。

販売キャンペーンがありました。

スタンドで、背もたれにかける、バックレスト と

お尻にしく ロアーレストを拡販することになりました。

カークーラーなんてほとんどなかった時代ですので、

今思えば、売れて当たり前の商品だったと思います。

先輩は、日ごろおきゃ、おきゃと言っていたのが、一気に猫なで声で、、

うまいこと売りつけていました。


バックレスト、ロアーレストを永く使うと、シートがいたんで、破れてしまう。

運転手のシャツの背中が擦り切れる。ズボンもしかり。

マイナス点ばかり見えてしまい、、

涼しい・あせもが出来にくいし、今までの籐製品に比べると非常にやわらかく、

価格も安い、と言うプラス面は消えてしまっていました。

上から言われると、猫なで声で自分の成績を上げようとする、、

先輩が見苦しくて許せませんでした。


会社からの指示ですし、新入社員の立場でやらないわけには参りません。

とりあえず、ガソリンを入れに来られるひとに、話してみるだけでしたので、、

夏の期間で、10も売れませんでした。

1番成績の悪い先輩の5分の1も売れませんでした。



この販売キャンペーンの結果が、

私が会社に入って最初の販売実績でした。


高校の時、一緒によく山に登った友達は、みんな大学生になっていました。

なんか取り残されてしまったような寂しさから・・・

自分も大学へ行こうと思い、先ず主任に話したら・・・

「馬鹿もん・・ガソリン入れるのに、何が大学だぁー えぇ加減にしとけ!」

と言われてしまいましたが、腹の中では、、

主任には・・「おみゃーみてぇぁーになりたにゃーもんで行くんだわー、馬鹿もん!!」

と思っていました。


仕方ないので、だめもとで、人事部に相談に行ったら、快く了解がもらえました。

試験を受け、翌年春の入学の夜間部で愛知大学へ入学することが出来ました。







物を売る前に、、

   「良い環境が必要です」

     良い企業風土・良い上司・良いスタッフ仲間。
     まず良い商品だとほれ込まなくては売れないのはとうぜんです。
 

自分の販売の原点

    また続き書きます。


自分のブランドが大切・・

 
志望の名古屋市立桜台高校へ入学が決まりました。

志望の理由・・・

    ① 自宅から一番近い公立高校だから

    ② 姉・兄ともこの高校だったから

    ③ 自分は将来、自動車屋になりたいから、
       県立愛知工業高校へと志願したら、
       自動車屋になるのなら、先ず普通高校へと、
       担任の岡田先生に奨められ
            、

           






● 高校に入って、クラブは小学校当時から得意だった、水泳部に入りました。

● 一時やめていた、サイクリングを復活しました。

● 登山も又復活しました。


と言うことで・・・また、またお金を稼ぐ必要に迫られておりました。


高校へ入ってからは、サイクリング・登山・水泳部と忙しく

全く勉強などはしなくなり、

どんどん成績は落ちてしまっていました。

1年生の時は、クラス 45人中25番くらい、

2・3年生の時は 40番くらいだったと思います。




そんな、高校では、劣等性の私でしたが、、

自宅の周囲は狭い地域ですので、

私が鳴海中学で、生徒会長をしていたこと、、、

全校で1番の成績をとったことで、

とても優秀な学生として見られていたと思います。




近所の人から、「子供の勉強を見てくれないか」と言う話が舞い込みました。

一瞬は、現在の自分の学業成績からお断りしようと思いましたが、、、

小学生・中学生なら大丈夫と言うことと、どうしてもお金が必要であったことから、

お受けすることにしました。

2人から始まって、生徒8人の小・中二部制の、小さな塾に発展しました。
  
月、1人 500円 だったと記憶しております。

塾からの月収入は、、4000円ほどになりました。




別に、夏休みの午前中だけでしたが、知多半島、新舞子近くの海岸で開催されていた、

知多水練学校の講師のアルバイトもしておりました。

これは、私が中学校3年生の時、有松小学校のプールで開かれた

有松、鳴海、大高地区合同水泳大会の、50メートル自由形で優勝したことで、

声がかかったものでした。

この水練学校からも収入があり、、月の収入は塾とあわせて、合計は、5~6千円ありました。

この金額は、中学校を卒業して働いている、私と同じ年齢の人達の、月収とおなじくらいでした。



収入が増えたことにより、

高校1年の秋からは、毎週のように、三重県の、鈴鹿山脈へ登山に出かけるようになりました。

登山の回数増と反比例して、成績は落ちていきました。



反対に、塾へ来ている子供達は、まじめないい子ばかりでしたので、

成績は、親さんがびっくりするほど、どんどん上がっていきました。

特に中学生の子は、最近私が歩んだ道、私が勉強した方法を教えるだけなので、

非常に教えやすく楽しかったです。

その上、成績が急上昇したからと、親さんからとても感謝され、

特別に謝礼などをもらうほどでした。













塾に通っていた子供達・・・・

1番 年上の子は、酒井さんという女の子でした。

私より3学年下でしたから・・・

もう、すでに、63~64歳になっておられます。

そういえば、その酒井さんは、私と同じ高校へ入学されたと聴きました。

やんちゃだった、1番年下の男の子でも、もうすぐ、60歳になられます。








水泳部員で山が好きだった私は、冬のトレーニングでよく天白川の堤防を走っていました。

学校で私は、水泳部として泳ぐことより、走ることの方が得意だったし、認められていました。

特に、5キロ・10キロを得意としていて、陸上部員でも私には勝てませんでした。

高校最後の冬、毎年恒例の、名岐駅伝に学校代表で陸上部員と共に出場しました。

写真は、そのときの、、ゼッケンです。


そんなに駅伝に強い高校ではなかったので結果の順位は覚えておりませんが、

笠松町から一宮市までの区間を走りました。


私が、たすきを受け取った時に、500メートルほど前を行く他校のランナーがいました。

このランナーを途中で抜いて、順位を一つ上げることが出来ました。


走りながら、 塾の子供達、学校の同級生・・・

みんなの応援してくれている顔が、浮かんできて頑張れました。



高校最後の良い思いでになっています。









あのかわいかった、こどもたちも、いまでは、きっと、
みんな、みんな、いいおじいちゃん・・おばあちゃんになっておられることと、おもいます。







高校時代に経験した2つのアルバイトから・・・

・・・「まず先に、個人のブランドイメージをあげておくことが大切!」・・・と言うことを学びました。

(先に、人に認めてもらうことがとても大切で、
いかに仕事につながっていくかと言うこと)

(そして個人のブランドイメージが本物の自分より上に行ってしまっていたら、
ブランドレベルまで自分をあげるように努力すればよいと言うこと)





私の販売の原点

    又、続きを書きます。




出来て当たり前の自分・

 白樺の木立の向こう、雲の上に、南アルプスの山々が望めました。

「この世に、こんな景色のよいところがあったのか!!」

茶臼山は私の脳裏に強烈な印象を残してくれました。


茶臼山から帰ってきても、強烈な印象が忘れられず

「来年も山へ行きたい!絶対行く!」

そのために、朝は、新聞配達 ・・

午後は、米屋さんの配達手伝いを始めました。



2年生の夏は、中央線の夜行列車に乗って、

蓼科高原から蓼科山へ登ってきました。


そのころ、自分の生活費、学費はなんなく稼げるようになっていました。

でも、中学校へ行くようになってから、、、、

山だけでなく、いろんな所へ行って見たいと言う好奇心が止まらなくなりました。

そのために働いているような状態になりました。



毎週のように、自転車で出かけるようになっていました。

日帰りで片道60キロの範囲でした。

知多半島一周・湯ノ山・養老の滝・金華山・犬山城・入鹿池・

定光寺・岩屋堂・猿投山・足助・三ケ日・新箱根・蒲郡・など等、、、



学校、アルバイト、サイクリング、繰り返しのまま、中学校3年生の夏を迎えました。

来年は、高校進学を控えておりました。

にもかかわらず、勉強なんて、一度もしたことがないと言う中学生でした。

その頃、私の姉の婚約者が、私の通っていた鳴海中学校のとなり、有松中学校で、3年の担任をしておりました。

澤田 堅と言う 先生でした。

当時、どの学校も3年生には、「中部統一テスト」と言う、業者テストを受けさせていました。

先生は、この成績を見て、他校生徒との学力レベルを比較して、指導していました。


澤田先生が宿直の日でした。

私は、となり校である有松中学校へ呼ばれました。

円形の校舎でした。

中部統一テストの結果を見て、「何だこの成績は!”・・・」


鳴海中学校の、3年生は9クラス、約600人でした。

その中で、170番くらいの成績だったと思います。

「こんなんでは、公立校は無理だよ」

「おねぇさんと、きょうだいだから、井上家の同じ血が流れているはずだろぅ」

「君なら、鳴中でベスト3以内にいて当たり前だろう・・」「おかしいよ・・考えられないヨ・」


「どの科目が特にダメなんだ?」

「歴史です・・・」

「地理は?・・・」

「いつも地図ばかり見てるんで、好きです。」

「あっそう・・」

「じゃー、歴史からだね1ヶ月みっちりやって、満点を取れるようにすればいいじゃないの?」


「出来て、当たり前!出来てない、今がおかしいのだ!・・・」

「不得意な科目を優先して、徹底的にやれば後が楽・・・」



そうだ、俺は学年で、1番の成績で当たり前なんだ。

ヨォーシがんばって、本来の俺になるぞ!

すっかりその気になって帰ってきました。



夏休み以後は、一切のバイトを止め・サイクリングも止め、、

本来の自分に戻るために集中しました。

先ず気持ちは、当然の自分になりきりました。

試験毎に成績は上がっていきました。


冬休みが終わってすぐにまた、中部統一テストがありました。

信じて止まなかった、本来の自分になりました。



鳴海中学校全校で、

第1位の成績を取ったのは・・・私でした。

ほっとはしましたが、あまりうれしくはありませんでした。

それは、当たり前の自分に帰ったのが、遅かっただけだから・・








「1番でない自分がおかしいのだ!!! 」

澤田先生は、その後姉と結婚して、良き相談者になってくれました。

残念なことに、15年ほど前に亡くなりましたが、、、




身内にすばらしい教育指導者がいてくれたので、


その後の自分があるのだと今も感謝しています。




私の販売の原点・・・


また、つづきを書きます。














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