154ページ目

紳士服オーダースーツ展示会

 ユーズネットグループ主催・・・

「紳士服オーダースーツ展示会」   

    を 開催します。


 





日時、、、2月19日(木) ・ 20日(金) 
   AM10:00~ PM6:00

場所、、、豊田市錦町2-63 ユーズネット本部





〇 オーダースーツ、

  お仕立て上がり


 ¥39、800ー (税込み、¥41790ー) からです。

〇 フォーマルスーツ、

  お仕立て上がり


 ¥48、000ー (税込み、¥50400ー) から・・


厳選された一流生地を、ベテランデザイナーが採寸し、
最終チェック・お渡しまで責任を持って管理されます。
通常百貨店価格より、30~35%も安い価格で、
提供されます。


 


お支払いは、、

便利な、カードでの一括後払い・・ 

クレジット利用で、5000円からの月払い・・

など、承っております。




19日・20日両日とも、私、井上が担当させていただきます。

この、紳士服展示会は、7年ほど前から毎年開催いたしておりますが、

毎回、好評をいただき、60着から80着のご利用をいただいております。

今回も、是非皆様のお越しをお待ち申し上げております。



お問い合わせは、、0565-31-1121 
紳士服担当・・井上 政彦 まで、


キャンピングカー体感フェアを開催します。

第1回、キャンピングカー体感フェアを、昨年12月に開催しましたところ大盛会でした。

「次回は、いつ?」と言う沢山の、皆様のお声にお答えして・・・


第2回、キャンピングカー体感フェア

を開催します。


是非ご来場いただきますようお待ち申し上げております。


開催日 ・・・・2月7日(土)・8日(日) 2日間 

開催時間・・・・AM9:30~PM7:30 まで

開催場所・・・・ユーズネット豊田にて、

展示車  ・・・軽キャンパー 2台 小型車 3台  (中古車も展示します)







私の販売の原点、ありがとうございました。

間もなく退社と言う日に、、

初めて知った、仲間達の、喫茶店での、たむろ・・・

みんなが集まって、愚痴を言い合い、なめあって、

結果、業績が良くなるはずもありません。

「弱い人は、群れたがる」

と言うことを発見しました。

その後の人生で、群れたがる人で、成功した人を知りません。


自分の目標に対して挑戦し続ける。

常に、他人を見て競争していると、勝ちたい為に、相手が弱くなることを期待してしまいます。

これでは、自分の成長にはつながりません。

自分の立てた、自分の目標に、強い意識で挑戦する。


「他人との比較に明け暮れない!」

「自分の目標に挑戦する!!」



旅行するのに目的地を決めずに出発する人はいません。

期間と、行き先、目的などを決めて、

事前にしっかり準備をしてからから出発します。

仕事を進めるに当たっても、、

自分で目標を決め、期間を定め、準備をして行動を起こしたいと思います。

自分の目標を、期間の途中で忘れてしまうなどは・・・

旅行中に目的地を忘れてしまうようなもの。

達成するまで、目標から目を離さない!!



目標は必ず紙に書く。

目標を決めたら紙に書き、よく見える複数の場所に貼る。

目標に対して絶対やるぞと意識を強く持つ、、

目標に対して強く意識を持っても、日にちと共に達成意欲が薄らいでしまいます。

目に付くところ、あちこちに目標が書かれていれば、3日坊主には絶対ないはずです。

目標は紙に書いて貼る・・・

これをするしないは、天と地の差になる。



若年寄がなんと多いことか・・・

年を重ねると、肌・髪の毛・に変化が当然出てきます。

これだけでは、人が老いたとは言わないです!

人が老いるとは、夢・理想・情熱を失った時、老いたと言うのです。

20歳代・30歳代の人で、肌、髪の毛のみ元気で、、、

夢・理想・情熱を失った、若年寄がなんと多いことか・・・

もったいないことです。

「青春とは、人生のある期間でなく、心の持ち方を言う。」
(青春と言う名の詩、、サムエル・ウルマンより)


原因のないところに、結果は生まれない!!

並以下の努力では、並以下になり・・

並の努力すれば、並みの結果となる・・

人より抜きん出た結果を求めるならば、抜きん出た努力が必要である・・


人がダメだと思うような、難局に当たった時は、

今最優先で何をなすべきか?

どうしたら出来るか?

どんな方法があるのか?


人より抜きん出た、意識が行動を生む。。。。



自社の商品に、絶対の自信ながなくては、仕事にはならないです。

商品に自信とは、商品がお客さんのためになると信じることから生まれます。

営業成績は、いかに多くのお客さんに、自社の商品で喜んでもらうか?であります。

営業の仕事は・・・

喜んでもらえる人を多く作ることです。

どんどん、その喜びの輪を拡げて、自分の夢を達成していきたいものです。


お客さんに対して、〇 〇 を売って業績を上げようと、先に思わないことだと思います。

先に自分とか自社のことを思わない。

先ずこのお客さんに、自分が今何をしてあげれるか?

何をしたら喜んでいただけるか?これが大切だと思います。


車に対してなら、、、、

ちょっと窓を拭いてあげる・・

灰皿をきれいにして差し上げる・・

足元のマットの砂を払って差し上げる・・

まだまだ、沢山あります。

笑顔でするこんな些細なことがお客さんの期待を越すことになります。


100万円の車の商談で、、1万円は、、1%でしかありません。

「いらっしゃいませ」の、言葉だけしか期待していないお客さんに、、

フロントガラスの掃除だけでも、、期待の数倍にもなります。

「まず先にお客さんに、何かをして差し上げることはないか?」

常にこのことを思っていると、仕事がしやすくなります。

売ろう!売ろう!はやめましょう。

「何か自分が、お客さんの役に立てないか?」

小さな行動が、お客さんの期待値を、何倍も越すことができます。


小さなことから、

「お客さんに貸し作ろう!」(貢献先行です)

貸しは、何倍にもなって必ず返ってきます。



私の歩んだ道をお話しさせていただきました。

今の厳しい時代の販売の原点を見つめ直してもらえたら幸いと思い、

古い時代で恐縮でしたが思い出すまま書かせてもらいました。

時代の違いから、参考にはならない点も多々あったかと思いますが、

一部でも参考になったと言っていただけたら幸いです。

私の人生の、ひと時、25歳までを書かせていただきましたが、、

又、いつの日にか、その後を書かせていただくことがあろうかと思います。

その節はよろしくお願い申し上げます。


私の販売の原点

これで、ひとまず終わらせていただきます。

ありがとうございました。












原因のない結果はない!!

カローラ愛豊を、25歳と11ヶ月の7月末日で退社して、

新しく設立する、中古車販売会社の社長に就任することになりました。


最後の1ヶ月間は、お世話になった、お客さんへの挨拶と、引継ぎを行いました。

後、1週間と言う頃にはほとんどの引継ぎを終えることが出来ました。

ある日の朝、後任の野村君と会社を出てすぐでした。

ちょっと珈琲でもと言って、近くの喫茶店に入りました。



入ってびっくり、、

同じ「係りの仲間」ほぼ全員が、くつろいでゆっくり会話を楽しんでいるではありませんか。

仲間からすれば、私は、別格扱いで、一度も誘われなかったのだと思いました。



もっと驚いたのは、、

夕方はみんな、疲れた顔をして、5時半から6時頃に会社へ帰っておりました。

が、4時半から5時頃には、朝とはちがう喫茶店に集まっていたことでした。

かたまって帰ると疑われるからなんでしょう、最初に帰る人から、最後に帰る人まで、

30分ほどの時差を儲けておりました。そしておのおの疲れた顔をして・・・



全く白々しい!!!!

会話の内容は、、、

お決まりの、愚痴と会社批判ばかり・・・

気持ちが落ち込んで苦しければ、一人で苦しめばよい・・

苦しんで、苦しんでどうにもならないところから、反動的に力がわいてくるものだと思います。

あんな「なめあい」なんかしていて、業績があがるはずがないし、自分達の成長もおぼつかない!

疲れて・・頭の切り替えに・・お客さんとの商談に・・何かを整理するために等、、

喫茶店を利用するなら一人で行けばよいと思いました。

こんな仕事ぶりのみんなを、待っていた、上司がかわいそうに思われました。




「原因のない結果はない!!」

仲間同士、愚痴を言い合い、会社批判に明け暮れて・・

良い結果が出るはずがありません。



仕事をする仲間としては、あの時、とても幻滅を感じてしまいました。

でも、友達として付き合えば非常に良い人ばかりでした。

あれから、42年が過ぎ、途中退社せずとも、全員定年を迎えております。

すでに、時効と判断して書かせてもらいました。


私の販売の原点

又続き書きます。


鬼瓦(鬼所長)のひとこと・・

昭和42年5月2日・・ゴールデンウィークのなか日でした。

いつもの喫茶店で、軽い昼食を取っていました。

「今朝、白馬岳で、名古屋市職員山岳会の、メンバーが足を滑らせ、700メートル滑落・・

現在捜索中!外山林生 24歳・・」ラジオから聞こえてきました。

そのニュースを聞いて、私は全身から、血の気が引いていくのがわかるほどでした。


この外山林生(とやましげお)君は、高校時代から、いつも山へ一緒に行っていた、親友でした。

同じ高校を出て、彼は名古屋市の職員になり、私と同じ、夜間の大学も一緒でした。

この度、山へ行く前、私のところへ、アイゼン(雪/氷の時靴につける金具)を借りに来ました。

冗談に、「自分は死んでも、アイゼンだけは返してくれヨナ”」と言って貸しました。


ラジオを聴いて、仕事は手につかず、いてもたってもいられなくなってしまいました。

すぐ会社に帰り、例の鬼瓦所長に理由を話し、今からすぐ白馬へ行きたい旨了解を求めました。

その時の、鬼瓦所長の言葉は、私にとって終生忘れられないものになりました。


「井上君が行けば、友達は、助かるのか?」 「今から飛んで行くのは、君の気休めでしかない!」

結果は、、、仕事中は行ってはだめ、と言うものでした。



翌日からの3連休を利用して、その日の夜徹夜で、走っていきました。

朝、白馬の麓へたどり着いて、変わり果てた遺体との対面になってしまいました。

現地ですぐ火葬となりました。

彼をのんだ「白馬岳」の麓は桜が満開でした。

真っ青な空に、残雪の白馬岳がまぶしく光っておりました。



彼を天に運んだ、だびの「けむり」に向かって・・・・

我々、山の仲間で唄った、あの「雪山賛歌」


山よ、さよなら、

ごきげんよろしゅう

又来る時にも、

笑っておくれ・・・・


山の仲間みんな、、涙でくしゃくしゃでした。

その、外山君を、私の、2歳年下の妹が好きでした。(この妹は、10年ほど前に脊椎癌で亡くなりました)

少し前、兄の私に、キュウピット役を頼んできたので引き受けておりました。

そのことを伝える前に、彼は、帰らぬ人となってしまいました。


その日以来、弔いのつもりと、寂しさから、山をやめました。

再開したのは、あれから、16年経ってからのことです。



「井上君が行けば友達は助かるのか?」

あの、鬼瓦所長の言葉を、今も忘れられません。




時には鬼になって、

情に流されない・・

冷静な判断が部下を育てる。


「悔しかったら、注文書を束にして俺を、殴ってみろ!」

「700メートル滑落、井上君が行けば、助かるのか?」


鬼瓦、大野 芳春所長・・ 

定年後、平成になってから間もなく、病気でお亡くなりになったとうかがいました。


私の販売の原点

又続き書きます。








高原列車は行く・・

お相撲さんの世界では・・・

高見盛は自分を奮い立たせるため、、立会いの前に独特の、しぐさをします。

横綱 朝青龍は、勝ったあと、独特の態度で、「どうだい・・」と言うしぐさをします。



セールス時代、私はいつも孤独に感じていました。

お相撲さんのように、お客さんの前で、自分を奮い立たせるような行動を取るわけにはまいりません。

車を買ってもらって、お客さんの前で、「どうだい!」なんてことも出来ません。

車が売れた日、会社へ帰ってうれしさを顔に出さないように、

さらっとした顔をするように心がけていました。

「どうだい!」なんて顔は絶対にしないようにしていました。

「係り6人」の目標が達成できた時だけ、喜びを表すように気を使っていました。

成績が上がれば上がるほど、周囲には気を使っていました。

スタンドにいたときに、いやと言うほどえらそうな態度のセールスを見ていたからです。

営業事務の女性、電話交換台の女性、登録事務の人たち、車両配車の人たち、サービススタッフたち、、、

「〇 〇 さんいつもありがとう」を、口癖のように言っていました。

だから、みんな、私を応援してくれました。

セールスが売って稼いで、お前達を食わせているかの態度をとっている人がいました。

そんな人には、「自分で全部やってみろ!」「きっと一台も売れなくなるわ!!」と言ってやりたかったです。




難しい商談に向かう時、

車を降りてから、右手の親指を折って他の4本の指でしっかり握り、

肘を90°に曲げ強く振り下ろす。これを繰り返して、自分を奮い立たせておりました。



難しい商談が決まった時、うれしくて、うれしくてたまりませんでした。

その商談の帰り、車のなかで、

「高原列車は行く」と言う歌を、目イッパイの声で唄っていました。



汽車の窓から ハンケチ振れば

牧場の乙女が花束投げる

明るい青空 白樺林

山越え 谷越え はるばると

ら・ら・ら・ らららら・ら・ら・ 音符

高原列車は らららら・ 行くよ 
 音符


その日以来、車が売れると、必ずこの「高原列車は行く」を高らかに歌って帰りました。

この歌を、目イッパイの大声で歌う快感が味わいたくて・・・

「よぉーし」、この商談の帰りは絶対「高原列車」を唄うぞと気合を入れたものでした。


売れたら「高原列車」を唄わせてもらえる・・・売れないときは唄わない・・

で、この「高原列車」を、自分へのご褒美にしていました。



月が変わると、新しい月の目標を、大きく墨で書き、自宅に貼っていました。

別に、トイレ、車の中、机の引き出し等、いつも目に付く場所に書いて貼っておりました。

目標を達成して、次の目標を書くのがとても楽しかったです。




「自分ひとりでは何も出来ない」

周囲のスタッフに感謝を・・

自分にもご褒美を!



私の販売の原点

又続き書きます。








理由ではめしは食えない!!


会社から与えられる目標は・・・
自分に対する「最低評価達成義務数字」である。

本当の目標は自分自身が作るものであって、
自分自身との固い約束でなくてはならない。




会社から割り当てられた目標が高すぎると不満を言っている人があります。

自分が思っていたより目標が高ければ、会社は自分を、より高く評価してくれているのであって、

自分を高く評価してもらって、不満を言うのはおかしいのであります。




私がカローラ愛豊のセールスだった時です。

全社のセールス、1人当たり平均 4台でしたが、

私達の「係り」6人の目標は、少し高く1人当たり、5台で30台でした。

私の目標は、8台しかもらえませんでした。

この8台は私にとって非常に低い数字で不満でしたが、

「係り」の目標30台からすると、私の目標を15台にした場合、

他の人の目標が、1人3台になってしまいます。

私の目標ではなく、達成義務と考えればよいわけでした。

自分は目標を、13台とか15台にして達成しておりました。

目標は、自分との約束です。出来なかっても誰も文句は言いません。

自分との約束が守れなかったことで素直に反省出来、すぐに、次はどうしようか、が見つかります。

9時出勤の人は、なんとしても、9時までに出勤しようとします。

要するに、9時に出勤しようとするかどうかが大切だと思います。


会社の決まりは、9時だけど、私は、なんとしても、30分前には出勤しよう。

逆に、9時には出社したいけど、何か理由があれば、仕方がない・・こんな人はよく遅刻すると思います。

これと同じで、「なんとしても、やるぞ!」と自分と硬い硬い約束をしなければなりません。

会社から与えられた目標と自分の目標と一致した場合は、数字は同じでも・・・

約束の相手は、会社とではなく、自分とであるべきだと思っています。

9時には出社しなさい、が、会社から与えられた目標、「最低評価達成義務数字」なのです。

30分前に出社するぞ・・これが本来の、目標だと思います。



会社から与えられた、目標が達成できず(やらなければならない~やりたいなぁー に勝手に変えて)・・・

結果達成できず・・出来ない理由を、探し出し、たらたらと述べる人がいます。

最近・・そんな人が多くなったような気がします。


   

「理由では、めしは食えない!!」

「理由を述べても、自分の成長にはつながらない!!」

「理由は、評論家に任せろ!!」

「理由を考えている暇があったら、やれる方法を探せ!!」



私の販売の原点

続き又書きます。





自分から学ぶしかない。

セールスになって、半年くらいまでは、先輩や上司がいろいろ教えてくれました。

商談の進め方など、悩んでしまうこともありました。

商談の過程では、きっとこのお客さんは、買って下さるだろう感じがしていても、

結果決まらなかったりがあり、自分では「なぜ?」「どうして?」がつかめませんでした。

上司・先輩に商談経過・状況を話して教えてもらおうとしても・・・

「井上君で売れなかったら、誰が商談しても売れないよ、自分は教える立場にない”」

つれなく言われてしまいます。「でもあのお客さんは、商談の進め方では、きっと買ってくださったはず」

「もったいないことをしてしまった。何かがいけなかったんだ・・」



悩んだ挙句、小型のテープレコーダーをかばんの中にしのばせ、商談をテープにとることにしました。

その頃、小牧から朝、1時間半以上かけて通勤していましたので、テープをじっくり聞くことが出来ました。

いろんな商談を何度も聞いていて、ほぼ購入を決められたお客さんからは、必ずと言うくらいに、

「買わせてください」と言うサインが出ていることを発見しました。

それとわからず、今までは商談の最終段階で、念には念を入れて、

商品・支払い方法などを、説明していたのでした。 これは、自己満足でしかありませんでした。



お客さんの「決めようかな」と言う決断、意志決定と、売る側のリズムがあっていなかったのでした。

結果、お客さんから、「ありがとう、良くわかった。検討して後日また連絡するよ・・」と言われてしまっていました。

そして後日、連絡すると、「やっぱり、今回は止めておくよ」「イヤー悪かった、他社で決めたよ・・」

となることが多かったです。

このリズムが良くわかり、商談進行の方法を改善して、商談決定率が格段に上がりました。

自分の商談から、自分が学ぶことが出来たのでした。



それ以来、私の商談は、、、

ピッチャー(お客さん)の投げる変化球・剛速球がバッターの私にとって、、

あたかも、止まっているかのように、良く見えるようになりました。


商談決定率(打率)が上がって、

いっそう安定して販売台数を上げることができるようになりました。



私は通勤する車の中で、いつも・・・

   自分の商談テープを聞くか、

   軍歌を聞いて(歌って)おりました。




反省のないところに・・

成長はない!!

反省があれば・・

自分自身から学ぶこともできる!!




私の販売の原点

続き又書きます。


40年かかっても答えは出ません。


トヨタカローラ愛豊、今思えば、すばらしい会社だったと思います。

退社して、40年になりますが、やめて今の道を選んだ方が良かったのか?

未だに、答えは、はっきりと出ておりません。

両方の道を、歩むことは出来ないからです。



少なくとも、退社して、20年くらいは、、

生活と言う面では、はっきりと、やめなかったら良かったと悔やむ日ばかりでした。

男性で定年まで勤めず、やめて職を変えた人は7割くらいはいるんではないかと推測できます。

人それぞれ価値観がちがいますから、一概には言えませんが、、

少なくとも、中途退職した人の中で、カローラ愛豊及び、愛知トヨタグループを辞めて、

独立して新しく商売を始めた人で・・・

心のそこから良かったと、思っておられるだろう人にはついぞ、お会いした事がありません。

大きな組織は、大きな組織なりに、バックがしっかりしていてやりがいがあります。

外に出て、自分で商売を始めて、頑張った末、どんどん組織が大きくなれば、

その組織は「俺一人のものではなくなります」

俺の好き勝手は出来なくなるし、してはナリマセン。




過去に会社を辞めて、車販売の商売を始めた人は、沢山おられます。

でも、前の会社を辞めてよかったと言える人は、、

数百人に一人、いや数千人に一人なのです。




私自身が、はっきりと、今のほうが良いと思えるようになったのは、

最近になって、「自分は、今でも仕事上の夢を楽しんで描いている、

これは、ユーズネットグループがあるからなんだ!」と思うようになってからです。

と言うことは、ここに至るまでに、40年必要だったと言うことです。



私が、もう一度、カローラ愛豊のセールスマンにタイムスリップしたなら、、、、

いやな上司でも、ひと時冷や飯を食べさせられようと、辛抱して頑張れると思います。

その後に、自分が外で味わった苦労と比較すれば、たやすく耐えられます。

たかだか、ひとりの上司の為に、自分の一度しかない人生を・・

危険な目にさらすことは避けると思います。



大きな夢と、大志があって、会社を辞めようと思った時は、お世話になった組織に、最大限配慮して、

堂々と、スピンアウトしたいものです。

退社した後々も、元の会社、スタッフから、協力が得られる関係でありたいと思います。



そして、後輩達から、◎◎さんは、過去うちの会社にいた先輩です。

と胸を張っていってもらえるような人間になりたいものです。




私自身は、「思い切って退社して、今の道を歩んで来てよかったなぁ」と、

こころから思い、堂々と言えるような人生にしたいと今も願いながら仕事をしています。



自分だけで出来ていると思うな!!

組織の中で、生かされている自分を知れ!!




私の販売の原点

また続き書きます。






上司の態度で部下の人生がかわる。

お客さんのため・・・会社のため・・・自分のため・で頑張ってきた毎日でしたが、、

自分の頑張りが、嫌いな係長の、成果・手柄になるのは許せませんでした。

すっかり、気力をなくしてしまった私は、この先のことを考えていました。

このままですと、この会社で、係長ー課長と役職が上がっていきます。

今、自分の上司である係長を見ていて、とてもあの地位になりたいとは思えません。

でも、今の会社の仕組みからすれば、かならず係長と言う地位を通らなければなりません。




忘れていた、「自分は自動車屋になりたい!」・・が、また目覚めてきました。

この程度でしたから、熱く、熱く、「自動車屋になりたい!」と夢見て、、

車の販売を頑張ったわけではありませんでした。

たまたま、目標が出来て、それを達成したい!!の繰り返しをしていたのでした。

新車のセールスになり、間もなく2年になろうかと言う夏のはじめ・・

今の販売実績が、嫌いな係長の実績にもなってしまうことに耐えられない。

社内で、将来の夢はなくなり、自分の目標もなく、すっかり、やりがいがなくなってしまいました。




住吉町のクラブ「ココボ」で、トヨタ自販の中古車部、功刀(クヌギ)と言う次長と親しくなり、

くるま先進国アメリカの中古車事情の、話を聞かせてもらう機会が良くありました。

その話の中で、近い将来、欧米並みに中古車の販売台数が伸びて、

新車の台数を越すほどの「中古車時代」がやってくると確信が持てました。





間もなく、「独立して中古車会社を経営したい」と言う方向に夢を、描き出しました。

そんな話を、例の「競馬の専務」と話していたら、、、、

井上君が社長になって、中古車会社を一緒に経営しようではないかと言う話が出ました。

いい話だとは思いましたが、資本金になるわずかなお金も自分にはなく、口を濁しておりました。





そんな話が出てから、間もなくのある日・・・

鶴舞の交差点で信号待ちをしていた私の車に、トラックが追突してきました。

翌朝は起きられないくらい首が痛くなっていました。

車も大きく痛んでしまいました。

幸いにも首の痛いのは、1週間~10日ほどで収まりました。

相手の保険会社との示談交渉で、、少しばかりの示談金が入りました。





「今だ!今しかない!!” 」


その示談金と、自分の車を処分したお金、そして少しばかりの退職金を加えて、100万円ほど出来ました。

私と、例の馬の専務と、その友達の地主さん、3人が協力して中古車販売会社を設立しようと言うことになりました。


新車のセールスになって、ちょうど2年経過しました。

あと1ヶ月で、26歳になる、昭和43年7月末、

トヨタカローラ愛豊を退社いたしました。

何度も何度も、専務や部長が引止めるのを振り切って・・・





名古屋市瑞穂区山下通り 

   株式会社 ナゴヤマイカーセンター 代表取締役社長 井上 政彦

この会社が設立され、スタッフ5人で、中古車センターがオープンしたのは、昭和43年10月 でした。

私が、26歳になったばかりの時でした。

私は、初めて、5人の部下をもつ身となりました。

嫌いだったあの係長を「反面教師」とさせてもらったことはいうまでもありません。 


上に立つ者の・・

俺が”俺が”の態度で、、

部下が離れる!!



私の販売の原点

続き又書きます。





















貸しを作る。

セールスになって、1年経ち、、、25歳になりました。

昨年の、秋は、ハワイキャンペーン最中の、急性腎炎で苦労をさせてもらいました。

2年目の秋は、打って変わって、他のセールスの人たちには申し訳ないほど、、

とても楽に、電話で、車の販売は出来てしまいました。



先に書いたように、競馬についていく・・・

お客さんの会社の、慰安旅行の運転手を頼まれる。

運転手が休んだからと、臨時の運転手をたのまれる。

収入が上がってきたので、お客さんの店でテレビなどを買う。

いろんなお店の商品の販売に協力してお客さんを紹介する。


すべてが、車の販売に結びつきました。

このようなことをしながら、とても楽しく仕事をさせてもらっていました。






マイクロバスの運転手として、社員旅行のお供で、九州・・北陸・・いろんなところへ行かせてもらいました。



結局、物を売ることを、仕事とするなら・・・

信頼できる・・頼りになる・・そして、世話になっている、と相手に思ってもらうことをする。

これがとても大切ではないかと、今でも思っています。

お客様に、挨拶では、「お世話になっています」と言いますが・・・

本当にお世話になる事が続いたら、お客様は離れていきます。

お世話にならず・・先にお世話をさせてもらうことが大切と思います。



セールスになって、2年目の、昭和42年が終わりました。

セールス1年目は、8月からでしたので、、

1年間の台数が集計されたのは、初めてでした。

その頃の会社には、150~160人ほどのセールスがいたと思います。

1番になったのは、私で・・年間で160台ほどだったと記憶しています。

2番の人は、110台ほどでしたので、年間で、50台ほどの差がついていました。

当時のトヨタ自販から、表彰されました。「自販表彰」と言っておりました。


足掛け、3年目に入って、昭和43年・・会社の成長と共に、直属の上司も良く変わりました。

係長は、4人目でした。

今までの係長とは、私は非常に馬が合い、楽しく仕事をさせてもらいました。

新しい係長は、私が一生懸命仕事で成果を挙げてきても・・・すべて、自分の成果のような発言をしていました。

そんな、係長を見ていて、「やれば、あいつの手柄か」と思うだけでいやになってしまいました。


そんな中ででも、台数だけは落とさないようにしていました。

今の仕事を続けても、、、、こうなりたいと言う夢はありません。

すっかり、どこかへおいて来てしまっていた、「自動車屋さんになりたい」と言う夢がまた出てきました。


この年の7月、わずか2年のセールス生活でしたが、ピリオドを打ってしまいました。



お客さんから、先に信頼を得る。

信頼されたら、先にお客さんのためになることをする。

先に貸しを作れば、必ず返ってくる。


私の販売の原点

又続き書きます。



初心に帰る・・



蓼科へは、柴田君のカローラと私のカラーラ2台で行きました。


帰り道です。国道19号線、薮原の近くに、木曾義仲を祭った神社が左側にありました。

自分のカローラで、私が運転していました。くだりの直線で結構なスピードが出ていました。

前の車を追い越してすぐでした。。。


左から、とまれの旗を持ったおまわりさんが飛び出てきました。

「しぃーまったぁー!!」

気がつくのが、遅すぎました。「ネズミ捕り」に引っかかってしまいました。



相当日にちが経ちましたが、違反の通知は来ませんでした。。。

「木曾の山の中だから、警察の手違いで消えてしまったわぁ」と安心していたら、、、

来ました、来ました!・・・結局、平針へ呼び出しで・・免停になってしまいました。

講習を受けて、尚、1ヶ月の免停でした。



その日から、歩いてお客さんのところへ、重いかばんを持っての毎日になりました。

9月まだまだ暑い日が多かったので、汗びっしょりになりました。

免停になる前まで、、毎日、お客さんからの電話があると、車で走っていくと言う、

とてもなまくらな、毎日になっていましたので、かばんの重さと、暑さが、身にしみました。

自転車も用意しましたが、歩きより惨めな感じがして、あまり使いませんでした。

急ぎ行かなければならない時は、仲間に送ってもらっていましたが、帰りは歩きとなります。


なまくらが芯から身についてしまっていた私でしたが、

車を使わなくなり、歩いていて、今まで見えなかったことが見えて来ました。

それは、全く空白にしていた地域だったり、近々代替になりそうな車のある家があったり。

帰りに歩きながら、ここはと思う家、会社に、名刺とカタログを置いてくるようにしました。

今までの空白をどんどん埋めることが出来ました。

車に乗っていたら、絶対売れなかったはずの販売が増えてきました。

「セールスは足で稼げとはよく言ったものです」

結局、免停中も販売台数が減ることはありませんでした。


汗をかき、必死に歩くことで、1年少し前の、あの苦しかった当時を思い出すことが出来ました。



免許証を警察に預けて・・・

自分が扱っている商品、、車のありがたさを再認識できました。

見えなかった、お客さんが見えてきました。

協力してもらって、仲間のありがたさを改めて思いました。







「初心に帰る・・」

「自分の商品(くるま)に感謝する・・」




私の販売の原点

又続き書きます。


2024

11

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

最新記事

カテゴリー

アーカイブ

ハッシュタグ