今週末は 九州キャンピングカーショー 熊本です
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私の退社・・
昨年12月には退社する予定だったが
6か月延長して今年6月末までとしました
早いもので その6月末日まで
あと 50日ほどとなりました
16年前に発売した 弊社のオリジナル
軽キャンピングカー「ちょいCam」
全国展開していて現在150社以上約200店舗以上
の販売店さんが 現在も拡販とお客様サービスに
力を貸して下さっています
その中で 早々と手をあげてくださり
現在に至っている 三重県四日市市の
「ちょいCam」販売店
有限会社オートスピリットさん
弊社からは 近いし どうしてもお会いして
今までのお礼が言いたいと思い
休みを利用して 森社長にお会いしてきました
オートスピリットさんは
個性的なボディーの ビンテージカーを
得意としておられ
外装は軽で個性的でかわいい ビンテージカー
内装は軽のキャンピングカーに架装して
全国に販売しておられます
まだ一社だけですが
販売店さんへの お礼のあいさつが出来て
ホッとしています
一社でも多くご挨拶がしたいと 思っていますが
まずは 令状と挨拶文だけでもと思っています
来週には 全ての販売店さんに 退社のお知らせと
お礼の挨拶文を発送しようと思っています
オートスピリットさんへの訪問約束が
夕方になったので
時間のゆとりが3時間ほど出来ました
そうだ・・懐かしい鈴鹿の山へ行こう
ロープウェイで
御在所岳へ登ってきました
懐かしい景色と
懐かしい花
アカヤシオの木
足元では
ハルリンドウが
迎えてくれました
今日 5月5日は こどもの日
天気が良かったので 孫の眠っている
藤岡飯野の 霊園へ 行って来ました
小さかった頃の孫を思い出しながら
墓参りをして 帰ろうと車に乗ったら
右前の土手に 見たこともない
めずらしい動物が・・
車の方をじっと見ているではありませんか
孫の霊が この動物の中に入っていて
「お墓参りありがとう!」と言ってるように
じっと私を見つめていました
5分以上 私の方を見つめてから
何もなかったように山の中へ消えていきました
その姿 しぐさから
特別天然記念物 ニホンカモシカではないかな?
と思っています
こんな里に近いところに・・
特別天然記念物ですから
捕獲は禁じられています
この先 保護し続けた結果
イノシシや サルのように
被害を及ぼさなければよいが と
少し心配しながら
霊園を後にしました
5月2日は
白馬岳北尾根から 滑落して亡くなった
親友の命日です
58年前の5月2日
昼の休みに喫茶店でのんびりしていました
店のラジオの声
5月2日早朝 名古屋市の職員山岳部の一人が
残雪の白馬岳北尾根で 700メートル滑落した
捜索隊が現地に向かっている
滑落した職員は 外山林生(とやましげお)さん
とはっきり聞こえました
高校時代 いつも一緒に鈴鹿の山へ行っていた
4人の仲間の一人です
その日の夜 他の山の仲間と 白馬の麓へ
徹夜で走っていきました
変わり果てた 外山君と会えたのは
麓の林の中でした
捜索隊が 一日で探し当て ふもとまで
降ろしてくれたのでした
この4人の仲間で今も元気なのは
私一人となってしまいました
後にわかったことですが
残った私も含め山の仲間3人は
外山君の遭難死以後数年登山を自粛していましたが
職場の仲間などと それぞれずっと
山へ行っていたようです
私も山が忘れられず 40歳になったころから
55歳で 趣味をゴルフに変えるまで
毎週のように日帰り登山を続けていました
写真は白馬(しろうま)岳ですが
新雪の時期と見られます
外山君が滑落死した5月2日は
残雪がずっと多くありました
白馬岳は 写真のように西側(左)は
なだらかですが
東側(右)は絶壁となっています
その絶壁上の尾根から転落してしまったとのことでした
外山君が白馬の麓でダビに付された
あの日 真っ青な空
真っ白な山
麓は 桜が満開でした
高い煙突から 立ち上る白い煙を見ながら
仲間と歌った「雪山賛歌」
山よさよなら
ご機嫌よろしゅう
また来るときにも
笑っておくれ
涙があふれ 止まりませんでした
あの日以来
毎年 5月2日を
忘れたことはありません
亡き山の仲間たちに
「いい青春の思い出を ありがとう!」
感謝の日にさせてもらっています
5月1日
ルートの 創業記念日です
お陰様で49歳になりました
創業当時のルート
今だから言えることとして
2007年11月14日(水) に 書いた創業当時の思い出
ブログから・・・
私の販売の原点
私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと、豊田の地を選んで、緑区から出てきました。
昭和51年5月、「ルート豊田」の名前で、国道248沿いの貸し店舗で創業しました。
社名のルートは、流通と言う意味からつけました。
オープン早々、当地の同業者から反対の声があがりました。
反対の理由は・・・
① 個人間売買は、今までの中古車屋の仕入れ価格、売り価格を明らかにしてしまい商売がとてもしにくくなる。
② 豊田で自動車屋を営業するなら、〇〇自動車 〇〇モータースのような名前にしてくれ・・・
でないと、業界秩序が乱れる。 (豊田の自動車屋さんは、自分の姓、または地名のあとに、自動車・・または、モータースとなっていました)
③ 自動車屋は地元で営業するもの・・・だから君は名古屋の緑区で開業すべき。
④ 自動車屋は広い土地ですべき、貸し店舗で自動車屋をするなんてもってのほか。業界をなめてはいかん!
(確かに当時の自動車屋はみな広い土地で営業していました。)
毎日「ルート豊田」へ来て、私の商売をやめさせようとしました。6人ほどの人たちでした。
困った私は、以前から親しかった、自動車新聞の記者に話しました。(今年の1月に亡くなられた、当時の林記者でした)
なんと、このことを、林記者は全国紙、日刊自動車新聞に、見開き2ページにわたって書きました。
あまりに大きな記事に私のほうがびっくりしました。
これによって、地元の同業者は「ルート豊田」へは、直接来なくなりました。
でも、今度は、日刊自動車新聞に対して、不買運動が起きたと聞きました。
この不買運動は、豊田から愛知県全体に拡げようとされたと聞きましたが、まもなく消えてしまいました。
今度は、この新聞を見た全国の同業者から、「個人間売買」とはどんな仕組みなのか?と電話が殺到しました。
電話だけでなく、毎日のように、訪問を受けてしまいこれまた大変な事態となってしまいました。
でも、これだけ、全国の自動車屋さんに興味を持ってもらっているなら・・・・
この機会に、この「個人間売買」をフランチャイズにして伸ばしていこう・・・・
発想が単純、無計画、ではありましたが・・・
ルートのフランチャイズは、2年で全国、北は、釧路・札幌 南は、徳島、宮崎まで、26店舗に広がりました。
本部である、ルート豊田は、創業からたいした仕事も出来ず・・
私は、創業と同時に、地元との反対対策・・その後、全国からの問い合わせの応対・・その後の全国回り・・・
フランチャイズ店の指導と悪戦苦闘・・
結果・・・負債ばかり積み重なり、昭和53年1月になり、とうとう行き詰ってしまいました。
行き詰まってしまう前の半年間は、毎日、お金に追われ、地獄の思いを味わいました。
何とか打開すべく、協力してもらっていた整備工場の社長に相談に行きましたが、良い話はできず、しょぼしょぼ帰ってきました。
その場に事務所の鍵を忘れてきたことなどは、もうろうとしていた私は気がつきませんでした。
7年ほど前になくなった母親に助けを求めましたが、一銭も出してはくれませんでした。
後でわかったことですが、その時母親は、3、000万円持っていました。
その母親は、「憂きことの、尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことばを紙に書いてくれました。
万事休す、もうなんともならない・・・
すべては終わってしまった。
今晩・・死のう!・妻や子供たちには何とか、生命保険で・・ときめました。
その日、見た、人生最後になるはずの夕日は、大きく真っ赤でした。
夕日をゆっくり見たのは何年か振りでした。
三好の森下交差点からの夕日でした。
その夜、ダイハツ、ハイゼットで矢作川を、死に場所を求めて、登っていきました。
昭和53年1月23日・・・月のとてもきれいな夜でした・・・
今だから言えることです・・・
創業当時の ルートでした
写真は
創業当時の ルート再興に大きく貢献してくれ
心の支えとなった 愛犬 ナッキー
(1979~1993年)