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お話があります 彼女に こ・子供が! 今だから言えること

九州 長崎道 大村湾パーキングエリア

8月から9月にかけて 九州各地を異常な豪雨が襲いましたが

私が通った 9月6日

この日は さわやかな空が拡がっていました。







ブーログが始まった2007年7月から 私はブ ログに
「今だから言えること」をシリーズで書いていました。

42年前の出来事を 14年前 のブログ
「今だから言えること」第6弾で書きました。
その時は大変な思いをしましたが、今ではとても懐かしい話として思い出されます


屋久島
「お話があります。困っています。コ・子供が産まれるんです。」


予定日は、来年1月、あと5ヶ月とのことです。

昭和54年2月に、募集張り紙を見て、入社してくれた、男性1号スタッフのKクンです。

「社員募集、重労働・低賃金に耐えられる人」と書いた張り紙を見て、入社してきました。

Kクンが私に話したのは、入社して、半年後の朝でした。

「困ることなんか無いじゃないの、おめでとう”じゃない?」

それが、彼女の親には、まだ話してなく、話せば、「すぐ帰って来い”」と、ど叱られる!と、小さくなっていました。

彼女の実家は、鹿児島県の屋久島で、漁業を営んでいるとのことでした。

「よしわかった。俺が一緒に行ってあげるから、彼女と準備をしなさい。」

当時の当社の状況は、くるまを売ることが出来るのは、私だけ・・加えて、多大な借金で、文字どうり「火の車」
の状況でした。

急ぎ準備をし、旅費も何とか工面して、3日後には屋久島の空港に降り立つことが出来ました。

実家は、屋久島の南端、「中間」と言う部落にあり、家の前がすぐ海岸でした。

海側には扉はなく、板縁からあがらせてもらいました。奥に、ござが敷いてありそこに6人用の座卓がおいてありました。

奥側左にお父さん、右にお母さんが座られました。

ゴザに額をすりつけて、まず、監督不行き届きをあやまりました。

Kクンはこれからが期待できる好青年。今後は力を合わせて立派な会社にします。どうか、結婚と豊田での生活を認めてほしい。とお願いしました。

びくびくしながらでしたが、さすがに、娘さんの大きいおなかを前にして、だめとは言われず、すべてを許してもらいました。

その夜は、ゴザの上に布団を敷いてもらい休みました。
直接聞こえる波の音がとてもさわやかに思えました。

その翌日になり台風が接近していることを知りました。今夜、屋久島直撃との予報でした。

とびらのない、あけっぴろげの家に、板を打ちつけたり、家の外のものを片付けたり、台風に備える準備を手伝いました。

その夜、予報どうり台風は直撃でした。早々に停電になりました。

真っ暗な中、荒れ狂う波・・風の音・・雨の音・・とても寝付ける状況ではありませんでした。

翌日の飛行機は欠航になってしまいましたが、何とか役目を果たし、1日遅れで豊田に帰ってきました。


Kクンの結婚式は、急ぎ12月に行われました。

そして、1月か2月に長女が無事誕生しました。

その後Kクンは、岡崎店の店長を最後に退社してしまいました。
岡崎店の業績がいまひとつで、私が厳しい言葉で追い詰めてしまったのが原因だと思います。

もっと、スタッフを思いやる、やさしい指導が出来なかったかと、反省しております。
Kクンの退社から多くを学ばせてもらいました。


あの時の、長女は、今、27歳です。
結婚して、子供さんにも恵まれたと、うわさに聞きました。
Kクンも、今では、いいおじいちゃんになっていることと思います。


今だから言えることでした。




四国で死亡事故!「今だから言えること」



4日(土)・5日(日) 久留米キャンピングカーフェアに出展してきました。

フェアの翌日、長崎県島原しの販売店さんと 長崎市の販売店さんを訪問してきました。

販売店さんからは ご意見や、ご質問を多くいただき 「ちょいCam」に対する熱意を

ひしひしと感じました。

そして 7日(火)昼頃 帰ってきました。


9月3日大阪南港 夕方発の新門司行きフェリーに乗船。
京都近くまで ものすごい雨でしたが やっと雨も上がった大阪南港の景色です。
 

大阪南港を出港して約1時間ほどで 明石海峡大橋の下をくぐります。
明日の朝 5時半着、2時間走って 朝のオープンに間に合わせなければいけません。
朝が早いのでそろそろ寝ます。



久留米に近くの 九州道で事故渋滞が発生 どうしようと 焦りましたが
何とか 9時半のオープンに間に合いました。天気は良いが 今日は暑い1日となりそうです。
熱中症にならないように、水分補給を。



キャンピングカー人気は、全国どこでも相変わらずで ありがたいことです。
「ちょいCam」コーナーには たくさんのご来場者が集まりました。
左隅、電話をしているのは 同行した 美鹿社長。




イベント終了で 美鹿社長を 久留米駅まで送り 私は明日早朝 熊本から 島原へフェリーで渡ります。
北熊本サービスエリヤで車中泊です。
コロナ禍で多くの人が外出を抑えているからでしょう、乗用車駐車場には 私の車が さみしそうに「ぽつん」と・・・
後の トラック駐車場はぎっしりです。



7時半 熊本港発 島原行き フェリーです。
高速フェリーです。 時速60キロで走ります。 カッコいい形の船です。




7時半熊本発 島原には 30分で到着します。
通常のフェリーの半分の時間で済みます。
大きなフェリーにお客は 私以外 数名しか乗っていません、しかも軽ばっかりでした。
出発からほどなく 島原半島が近くなってきました。

こんなことでは フェリー会社の経営は苦しいのでは・・・
早くコロナが収まってください!と祈る気持ちで 船を降りました。




長崎市の販売店さん訪問を終え
九州長崎道の 大村湾パーキングエリア。
大村湾の見える 「恋人の聖地」 
私は「聖地」独り占めでした。 
ここにも人の姿はありません。



高速のパーキングエリアの静けさ・・・
熊本フェリーの静かさ・・・
「恋人の聖地」の静かさ・・・

対照的な キャンピングカーフェアの賑わい
この業界に携わることのありがたさをしみじみ感じました。






2007年8月18日

「今だから言えること」第5弾


「●●さんが、四国で死亡事故を起こしました。」



車が横転して、同乗していた女性が社外に放り出されて、車の下敷きになって亡くなった・・・

忘れもしません。昭和53年8月・・トヨタ自動車の夏休みの出来事でした。

当時のルートは、スタッフなし、私一人ですべてをこなしておりました。

あの日、夕方までの1~2時間、親しい人に留守番をたのんで、書類の仕事か、仕入れのため、外出しておりました。

●●さんのお車は、翌日がお渡しの予定で準備はできておりました。

当時のルートは、自動車保険の代理店資格は無く、保険加入はお金のみ預かり、正規の代理店にお願いしておりました。

対人1億・対物200万・搭乗者傷害500万という内容でお金は事前にお預かりしておりました。

お渡し予定の明日、保険の加入手続きはお願いしようと思っておりました。

留守番の人の報告も無く、そのお客さんが乗って行ったなんて思ってもいませんでした。

翌日の朝・・「●●さんが死亡事故を起こした!」と言う代理人からの電話でびっくり!!

まさかと思って、裏へ車を確認に行き、初めて乗っていかれたことを知り、血の気が引きました。

「500万円の搭乗者保険に加入しているはず。すぐ手続きをしてほしい・・・」

保険加入が出来ていなかった旨をはなし、

平謝りの上、代理人との話を重ね

何とか月々の支払いで堪忍してもらうのに1ヶ月を要しました。

この一件が無くとも、当時の自分にとっては、天文学的金額の借金を負っていました。

その上、搭乗者保険の賠償分、月々 170、000円、30ヶ月払いが、づっしりと、のしかかりました。

「憂きことの、尚、この上に積もれかし、限りある身の力試さん」

この事故の約半年前、どうにもお金が回らなくなり、亡くなった母親に、お金を借りに行きました。
(後でわかったことですが、当時母親は、3、000万円以上持っていました。)

その時母親は、頑として1円のお金も貸してくれませんでした。

でもお金のかわりに、この言葉をくれたのでした。

これは、江戸時代の、熊沢蕃山という人の言葉だそうです。

この、憂きことの・・・を唱えながら歯を食いしばったものでした。


あの時の、私のつらかった経験から学んだ、保険に対する心が グループ全体に受け継がれております。

そして、今では・・・
くるまは、ユーズネット・・・保険もユーズネット・・・として、お客様に安心をしていただいております。

今朝、母親のお墓参りをしてきました。
私に力を与えてくれた、「憂きことの・・」に改めて感謝をささげました。

「今だから言えることでした」


ラブホ テレビ窃盗事件 今だから言えること

今週末・・9月4日(土)・5日(日)
久留米キャンピングカーフェア 開催です。

今日(3日)昼頃 豊田を出発
大阪南港から 17時発のフェリーに乗ります。
新門司港に翌日(4日)早朝着
開場の久留米までは 120キロほど走って 
開場に搬入 9時半の開場に間に合わせます。

今回は、美鹿社長と同行ですので 
多少の時間的無理は 承知の上です。


持っていく展示車は エブリィワゴンベースの
「ちょいCam豊」です。
屋外の展示ですので 穏やかな天気になることを祈っています。
九州地区のお客様のご来場をお待ちいたしております。




14年前 ブーログが始まったころに
シリーズで書いていた「今だから言えること」
原文のまま掲載します。

2007年8月9日
ラブホ テレビ窃盗事件
  今だから言えること 第4弾

「おとうさん!ゆうべ、誰と、どこへ行っていたの?」



株式会社ルートを設立するまでは、こんな電話が、自宅からよく掛かりました。


株式会社ルートを設立したのは、創業から7年後の、昭和58年10月でした。

会社設立までは、すべてに個人(井上政彦)の名前が出てきました。

銀行・警察の古物営業許可・車の登録等々・・・

今は、くるまを買ってきたり、下取りをしたりすると、全車両(株) ルートの名義にしております。

個人営業の当時は、すべて、井上政彦名義にしており、住所は緑区の自宅でした。

車検、修理などでお貸しする代車もすべて、私、個人の名義になっていました。

駐車違反・放置車輌・スピード自動取り締まり等、すべて自宅へまず電話が掛かりました。



あの事件も、まず自宅へ掛かった静岡県警の電話からでした。

昭和57年12月26日だったと思います。
妻から、電話が掛かってきました。

「お父さん、ゆうべ誰と、どこへ行っていたの?」と言う電話でした。


「昨日、自分がどこでどんな仕事をしていようが、いらんこった!」と、思いはしたものの、何か疑われているな、と直感で分かりました。


電話の内容をよく聞くと・・・

愛知県との県境に近い国道1号線沿いのラブホテルを利用したカップルが、帰りにテレビを持ち帰った!
ナンバー照会をしたところ、井上政彦さんのくるまでした。というものでした。

「本人との連絡が取りたい」・・・と言うことで、びっくりした妻から私への電話となったのでした。

一生懸命働いていると信じていた夫が、どこかの女性とラブホテルへ・・・

事もあろうに、そのホテルから、テレビを盗んで逃げた!

警察から電話を受けた、妻がびっくりするのも当然です。

テレビを盗んだ車は、当社が代車としてお客さんに貸したものでした。

静岡県警にはお客さんの、名前と連絡先を教え、間も無く逮捕となりました。

お客さんの中にはひどい人もあります。

すべてのお客様が神様であって欲しいと願ってはいますが・・・思いどうりにはなりません。

お客様はよい店を選ばれます。
当社もよいお客様のために、「お客様を選ばなくては」と、思っています。

「ラブH・テレビ窃盗事件の犯人」に対し、私は厳しく対応しました。

このような人は必ず言います。

「お客に向かって、どういう言い方をするんだ!」・と・・

お客さんは何しても、店側はぺこぺこするものだとでも思っているのでしょう。

その後、例の犯人の顔を見た事は一度もありません。


「ラブH・テレビ窃盗事件」



今だから言えることでした。



犬の留守番なら 人件費無し 「今だから言えること」

昨日の昼
いつものように、元宮町のセブンイレブンへ行きました。

顔見知りの店員さん、仕事を終えて 自分の買い物をしていました・・・

軽い会話で、「今日は私の誕生日だよ」 

「おめでとう!」「ところで井上さんおいくつになられた?」

「79歳だよ」

「お茶飲まれる?」

「飲みますよ」

店員さん 冷えた「おーいお茶」を持ってきて
レジーで他の店員さんに支払って

井上さん「誕生日祝い!」
「えっ!ありがとう」

意外な場所で、意外な方から、意外なプレゼント
とても心に残る、誕生祝となりました。





 

2007年8月2日 犬の留守番なら人件費無し
「今だから言えること」・・・ 第3弾


私の席の後ろに、犬の写真が飾ってあります。

昭和54年2月にお客様から生まれたばかりのオスの小犬をもらってきました。

ナッキーと言う名前をつけてもらいました。

いじめたり、可愛がったり、自分自身の気分で付き合っていました。

お風呂も一緒に入りました。嫌がっていたようですが、きれいに洗ってあげました。

そして、夜はいつもいっしょの布団で寝ていました。

でも必ず朝になると彼は布団の外にでていました。

きっと、私のねぞうが悪かったのを嫌ったのだと思います。

夜、喫茶店や食堂へ残飯をもらいに行っておりました。

残飯をもらって帰ってくると、しっぽを振って、喜んで食べてくれました。




昭和54年2月生まれ

平成5年8月11日没、享年14歳





当時「ルート豊田」と言う名前で、貸し店舗の前に数台のくるまを並べて営業していました。

くるまの整備は、店舗裏の空き地でしておりました。

裏で整備をしている時に、お客様が来られてもわかりませんでした。

昼間、ナッキーは事務所の中にいてもらいました。

お客様が来られたら「わん、わん」と、吠えて知らせてもらうように教え込みました。

私が事務所の中にいる時は絶対に吠えないようにする。

私が外にいて、吠える声を聞いて事務所へ入ったら吠えるのを必ず止める。

私がお客様と商談している時は、伏せているようにも教えました。

ナッキーは犬とは思えないほど利口でした。

ナッキー本人も自分が犬だとは思っていなかったようです。

その彼が亡くなる少し前に、住み慣れた貸し店舗を壊して、今の店舗を作り、引越ししました。

新店舗に彼はなじめず、嫌がっておりました。

環境の変化が元で、以前から患っていた癌が進行して、間も無く亡くなってしまいました。

亡くなる前日の夜、「くーん・くーん」と私を呼びました。

頭を抱いてやるとほっとするのか泣き止みました。その夜は一睡もせず彼を抱いていました。

抱いてやりながら、ナッキーとの14年間を思い出し、涙があふれて止まりませんでした。

ナッキーの目からも涙があふれていました。

次ぎの日は私の長男の結婚式でした。

朝心配しながら来てくれた苅谷部長に後を頼み、後ろ髪を引かれる思いで結婚式に臨みました。

ナッキーが亡くなったと聞いたのは結婚式が終わった後でした。

長男の結婚式に、仲人がドタキャンと言う前代未聞の、考えられないことがおきました。

結婚式はなんとか、代理の仲人で、とどこうりなく終えることは出来ました。

今思えば、ナッキーが亡くなる時、必死に私をそばにいさせようとしたのだろうか?・・・・

今年8月11日・・・
15回忌を迎えるに当たり、天国のナッキーに改めて、感謝の意を届けたいと思います。

合掌


人件費も払えない、苦しい時、犬に「店番」をしてもらっていた!


「今だから言えること」でした。




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